大阪市阿倍野区阿倍野元町5−156 阿倍野王子神社の西鳥居北側に西を正面に建つ
角柱 131x22x22p(台石は傾斜、東面高119p)
N34.631047 E135.508725




南西面
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│もと熊野街道 │
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南面
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│蟻の熊野詣で知られる… │
│家付近から… │
│山に至る… │
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東面
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│昭和四十二年三月 大阪市建立│
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北面
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│(なし) │
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(昭和四十二年は、西暦1967年である。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、117
『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行では、29頁。)
(昭和四十二年は対象外であるが、上書に倣い載せておく。)
(『大阪府史』明治36年刊、昭和36年復刻にある道路の情勢には「熊野街道」は載らず、「安倍野街道」として次の
ように書かれている。「大阪市南区天王寺なる奈良街道より起り、東成郡天王寺村住吉村を経て同郡墨江村大字遠
里小野に至り八尾街道に連絡して終わる。延長2里13町31間、幅員広濶(コウカツ=広い)なり。…天王寺停
車場に至る間は…又、その以南、西成郡住吉村に至るまでは近時馬車鉄道の布設有りて…神社仏閣の散在せるを以
って、参詣者絡繹(ラクエキ=絶え間なく)として旁午(ボウゴ=縦横に入り乱れる)織るが如とし。」
とあり、役人の用いた名称では無かったようであるが、昭和の時代には「熊野かいどう」としたものか。
尚、この沿線をアピールする為と思われる。「熊野かいどう碑」も何点かあり、それには「平成二年」とあり、
「平安後期から…整備された。起点は渡辺の津(八軒家浜)…終点となる熊野本宮まで…。街道の名は多くの人の
心の中に生き続けている。」としている。
道標として留意しなければならない点として、道全体に名称を付け、それを案内するものは明治に入ってからの
事であり、道標が案内するのはあくまでも地名である。例えば「京道」とあれば、京都に向かう道で、京街道では
無い。よって、この石に刻まれるように、街道名を示すものは道標と一線を画するものである。)
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【1.街道碑を東に望む |
【2.街道碑を北東に望む |
【3.街道碑を西に望む |
奥(東)社殿へ |
額に「阿倍王子神社」 |
左、阪堺線北畠駅へ |
右側の石は鳥居】 |
左奥、松虫交差点へ】 |
右(北)松虫通りへ】 |
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【4.街道碑南の解説板 |
【5.平成二年街道碑西面 |
【6.平成二年街道碑を南に望む |
「もと熊野街道」 |
当碑の北300mにある |
右奥、松虫交差点から旧道へ |
碑自体の解説無】 |
松虫交差点の旧道東側】 |
南300m東側に当碑】 |
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【7.大阪市阿倍野区の道標】 |
南面詳細
(南面)
蟻の熊野詣で知られる熊野街道は 窪津(東区八軒
家付近)から阿倍王子を経て紀伊路を南下し熊野三
山に至る 道筋には九十九王子をまつつた
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