6.堺市堺区中向陽町1の道標(和泉国内か)

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堺市堺区中向陽町1−1−14 阪高堺線の下道の三蔵橋交差点南東部に西を正面に建つ。
地蔵石祠側板 116x110x99p(屋根25x110x99p)(側板91x9.5x62p)(背板91x76x10p)
N34.580609 E135.482571


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西面
┌─―――――――――┐
│右 かうや 道   │
│ ┌――――――――┘
│ │┌─――――――┐
│ ││(地蔵)   │
│ │└―――――――┘
│ └――――――――┐
│左 あさ可山    │
└――――――――――┘
(「可」は変体仮名「か」「浅香山」か)

南面
┌─―――――――――┐
│(なし)      │
└――――――――――┘

東面
┌─―――――――――┐
│ 安政四巳年七月  │
└――――――――――┘

北面

┌─―――――――――┐
│ 世        │
│ 話 講中     │
│ 人        │
└――――――――――┘


(安政四(丁巳)年七月1日とすると、西暦1857年8月20日木曜日となる。この年閏五月あり。)
(明治の地図では「北庄」とあり、「天保和泉国絵図」には「北之庄村」とあり当地は和泉国内で有ったかも知れな
 いが、一応載せておく。国境はこの南北の道か西側の土居川ではないか。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、230A
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行には未記載。)
(明治の地図では阪神高速堺線の位置に川が見え、西の妙国寺北側の道が橋を越えた地点に相当すると思われ、川東
 は筋違い四辻に描かれている。この辻を東に向かう道は今の堺区中田出井町2−6の五つ辻に繋がっていたようで
 当時は三ツ辻の北東の道を採ると浅香山へ向うことが出来る。よって「左 あさ可山」は問題ない。
  南に川沿いを進めば現堺東駅を過ぎて南東へ向う西高野街道へと繋がり、「右 かうや道」も問題はない。
 但し、筋違いの四辻が少し大きめに書かれ、東への道が現在(2021)の祠南側の道と思われ、祠自体の位置と方向
 が今のままであったかどうかは分からず、今の細い道の南側に北西面、或いは北面していたとも考えられる。
 明治の地図でも「聾井戸」とあり有名なようで、地元の古い資料等を探せば分かりそうな気がする。
  尚、今のお堂(覆屋根か)は昭和36年(1961)3月に建立、同時に台座は改修されたようで、それを示す石碑
 が祠の南西前に建っている。)
(尚、昭和の修復部分が明確には分からないが、石祠部、地蔵像部、地蔵台石(連座か)部の三つに分けると、同一
 年代には見えず、台石部(旧)、石祠部、地蔵部(新)の順に古いと感じるが、どうであろうか。
 台石部の三面には文字があり、正面は「釋兵…」と読めるが左右はよく分からず、背面は不明であるが、紀年と
 思われるものはなさそうである。一方、地蔵光背右部にも文字があるが「六法…」と年代では無さそうである。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を北東に望む 【3.道標を東に望む
 信号機下に当道標  覆下石祠壁左右に案内  屋根石を支える左右の
 上、阪高堺線】  右奥(東)が旧道か】  壁石が道標となる】

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【4.左壁道標を東に望む 【5.道標を東に望む 【6.右壁道標を東に望む
 「左 あさ可山」は  祠に比べ地蔵上部は  「右 かうや道」は
 「左 浅香山」か】  新しく見える】  「右 高野道」か】

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【7.道標北面(左壁)拡大 【8.道標東面(後壁)拡大 【9.昭和改修碑を北東に望む
 「世話人」  「安政四巳年七月」  「お堂建立・台座改修」
 「講中」とある】  と読める】  「…井戸地蔵尊」とある】

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【10.道標を北に望む 【11.地蔵下台石を東に望む
 奥(北)高須神社へ  「釋兵…」紀年では
 電柱辺りが元位置かも】  ないとしたが不明】

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【12.堺市の道標】
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