5.堺市堺区材木町東4の道標

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堺市堺区材木町東4−3 阪高堺線の下道の中日橋交差点から土居川公園を北120mの東部に西を正面に建つ。
(泉陽高校北東角の入口から東へ20m辺りの生垣脇でもある)
尖頭型角柱 168x30x30.5p(頂高9p)
N34.579695 E135.481897


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西面
┌─――――――――――――┐
│右 かうや山 大峯道   │
└―――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――┐
│左 妙国寺 大坂道    │
└―――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――┐
│安政三丙辰年八月建之   │
└―――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――┐
│ 釋 宗常        │
│  為 俗名儀兵衛菩提  │
└―――――――――――――┘


(安政三(丙辰)年八月1日とすると、西暦1856年8月30日土曜日となる。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行には、未記載
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行では、堺の44頁。)
(上書には「堺市材木町4丁目」とあり、深く埋もれた写真と共に読み下しが載るが、当然埋った部分は書かれてい
 ないが、写真の字体等を見る限り同一のものと思う。)
(明治の地図では阪神高速堺線の位置に川が見え、川の西に南北の広い通りがあり、東西(北西ー南東に近い)の道
 が交差する辻であったようで東側に橋が架かっていた地点に当たる。この辻から妙国寺へは南から来て左(北西)
 に曲がるのが最短である。
  国立国会図書館デジタルアーカイブの『和泉名所圖會』. [2](1796年刊)のコマ7にある妙国寺と金光寺(現、
 宝珠院境内域)との位置関係から見て、当時の表門は東に、裏門が南に有ったと見え、当道標からは何れへも北西
 に向かい寺の南東端に行き着く(多分90m程)のが最短とした理由である。
  依って公園の中にあり移設されたと考えがちであるが、ほぼ元の位置(橋の西詰の四辻の北東部)に元の向きの
 まま置かれているとする。紀年と俗名部が目立たないように辻の北東部にあったとした。
  尚、同じく「左 大坂道」は北西へ進み現阪堺電車の通る道(紀州街道)へ出て北折れを示したとするが、ここ
 を北に直進しても錦之町辺りで合流する事になり、それに比べやや遠回りとなる為少し納得がいかない。「施主の
 お店がこの通りにでもあり、多くの人を運ぶ手助けを託した。」等と勝手な想像もする。)
(注、明治の地図で四辻としたが、堺図書館トップページの「地域資料デジタルアーカイブ」から「絵図」を選んで
 検索条件のタイトルに「堺町之図」を入力して出る『摂州泉州堺町之図(写)文化2年(1805)』を見ると橋はやや
 南に架かり、当辻は三ツ辻であったようで、三ツ辻東部に位置したとすべきであろう。)
(西面「右、かうや山、大峯道」は南の大小路筋に出て、竹内街道、西高野街道とし特に説明も不要と思う。)

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【1.道標を南に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を西に望む
 左(東)阪高堺線  左奥(北)の赤柱  左奥のフェンスは
 右、土居川公園】  はスベリ台の支柱】  泉陽高校の北東部】

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【4.道標北面拡大 【5.道標西面拡大 【6.道標南面拡大
 「釋 宗常」  「右 かうや山」  「左 妙国寺」
 「為 俗名儀兵衛」】  「大峯道」は南を指す】  「大坂道」は北西へ】

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【7.道標東面拡大 【8.道標を北に望む 【9.道標を南東に望む
 「安政三丙辰年八月…」  南大小路交差点から  妙国寺側から見た景色
 とある】  来るとこう見えたか】  正面木の下に当道標】

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【10.堺市の道標】
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