20.神戸市中央区神戸港地方堂徳山西の石標(道標では無い)

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。
神戸市中央区神戸港地方 奥再度ドライブウェイを2.87q、堂徳山西の小駐車場南西部の階段下に東を正面に建つ
(イカリ山から二本松城山へのハイキング道が車道と交差する地点です。)
自然石 125x57x35p(台石30x93x55p)
N34.70609 E135.18263


写真iimg3889

写真iimg3869

写真iimg3873

写真iimg3874

東面
┌─―――――――――――――――――┐
│     錨山           │
│浅間ケ丘     道        │
│     記念碑          │
└――――――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

西面
┌─―――――――――――――――――┐
│昭和十二丁丑年十月十八日      │
│ 神戸区振興協會建之        │
└――――――――――――――――――┘

南面
┌─―――――――――――――――――┐
│ 北長狭八             │
│  石精謹刻            │
└――――――――――――――――――┘


(昭和十二年は、西暦1937年)
(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊には未記載)
(方向が書れておらず道標とはしがたいが、当地点を表さず「道」とあり、「…参詣道」等と同じとして載せる。
 しかし、錨山を除いて何処を指すか理解できていない。Web上にこの石標から南へ100m辺りに海軍大臣の手になる
 明治天皇御製歌碑があるようで、それを「浅間ヶ丘記念碑」とするのでしょうか。その場合「錨山」を入れて二地点
 を案内する石標であろうか。書き方を見ると「浅間ヶ丘」と「錨山記念碑」とする方が自然に見えるのであるが良く
 分らない。
  尚、明治の地図には「錨山」の記述はなく、大正12年の地図に「碇山」として書かれ尾根筋の今のハイキング道
 に相当する道が諏訪山迄届いており、今の北野青龍神社あたりから谷沿いに登って来た南東からの道とで三ツ辻とな
 っていたようである。よって北野辺りから登って来た人のために、谷道から左(南西)の尾根筋道を案内した可能性
 もあり、その時辻正面に見えれば「左」を付けるのではと思うが、尾根筋道に入って建っていれば現状でよいか。)

写真iimg3859 写真iimg3862 写真iimg3864
【1.石標を北に望む 【2.石標を北西に望む 【3.石標を南に望む
 左に当石標  左、山道を錨山へ  左奥、ドライブウェイ下る
 奥(北)再度山へ】  右車道は修法ヶ原池へ】  右階段は錨山へ】

写真iimg3894 写真iimg3878 写真iimg3892
【4.石標を北西に望む 【5.石標東面拡大 【6.石標東面拡大
 右後ろは今の案内  「浅間ヶ丘…」  「昭和十二丁丑…」
 間を抜け左へ進む?】  「間」はくずし字】  「神戸区振興…」】

写真iimg3899 写真iimg3904 写真iimg3916
【7.石標南縁下部 【8.石標東面下部 【9.石標南面右下部
 「北長狭八」は  「錨山記念碑」  「…和十二丁丑年」
 石屋の住所か】  で一つの名前か】  1937年ひのと、うし】

写真gimg6514
【10.神戸市西部の道標】

2024/9/6 追記
(錨山記念碑を確認しました。当石より、南西に80m程ハイキング道を登ると右(西側)に一段高く石垣で囲ま
 れた基礎の上に大きな記念碑があります。当石と同じ団体が建てたものです。
 碑面は
   明治天皇御製
  進免てふ、旗尓徒連つゝ以く佐船、
   か路くも動く、
    浪能うへ可奈
     海軍大将有馬良橘謹書
 とあり、読みとしては
 「進めちょう、旗に連れつつ、戦船、軽ろくも動く、浪の上かな」ではないかと思う。
 観艦式で見た情景を詠ったようで、船の指揮を旗で行っていたものと思われる。当時は無線電信が無かった為
 (明治36(1903)年に実用か)でこの方法しかないが、素早く隊形を変える様子を頼もしく思う・・・等と考える。
 山の上からでは「旗」が見えないと思うので、この地点から詠んだ歌ではない事が分かります。
 これを書いた人は天皇本人ではなく「海軍大将有馬良橘謹書」(wikiに大正8(1919)年任官、同11年予備役、
 昭和19(1944)年没)となっています。
  裏面には記念碑の銘があり、この碑建設の経緯と「昭和12年7月、神戸区振興協會」と彫られており、当石
 の3ヶ月前に建てられた事が分かる。この碑文を書いた時と、筆者の生存年とも肩書を除いて矛盾はない。
  又、webに「浅間ヶ丘」に関して、この石碑が建つ丘を指すとする資料があり、根拠として観艦式の御召艦
 の名が「浅間」であった事に依るとしています。
 そうすると、当「浅間ヶ丘/錨山記念碑/道」はドライブウェイ道端に建つ、記念碑を案内する標石となる。)
(道の様子を『今昔マップ on the web』「大正12年地図」で見ると、堂徳山から碇山への旧道はあるが、現在
 のドライブウェイに当たる道は無い。
 「昭和10年二修地図」ではドライブウェイ相当の道が新しく出来、旧道が消えている。
  この記載が無くなった道の上に「浅間ヶ丘、錨山記念碑」を建て、それと共に、新しい道に旧道への入口を
 示す当標石を昭和12年に建てた、とすれば辻褄が合いそうである。
 「昭和10年二修とある地図」を拡大すると、この碑の台石の記号か、或いは等高線か、「井」の様なものが
 見える。発行が昭和14年とあるので、間に合ったものかも知れない。
  浅間ヶ丘は、一等巡洋艦浅間(同水雷艇も艦載)の上に見立てて、この地の地名としたとする。)
(ここにある「神戸区」は郡区町村編制法の行政区では無く、昭和6(1931)年の大都市特例で出来た行政区、
 神戸市神戸区であったと思う。その後生田区、現中央区か。)

写真kimg2770 写真kimg2765 写真kimg2767
【11.錨山記念碑を北東に望む 【12.錨山記念碑を北に望む 【13.錨山記念碑北面
 右奥(北東)に下り  「明治天皇御製」  左端「昭和12年7月、
 当標石に続く】  「進めてふ旗に…」】  神戸区振興協會」】

文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ