105.箕面市箕面公園1一の橋北の道標

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箕面市箕面公園1 一の橋北詰、新滝道と旧滝道の分岐三ツ辻の北部に、南西を正面に建つ
(旧滝道階段の東下でもある。)
自然石 73x47x40p(三角柱状である)
N34.838351 E135.469900


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南西面
┌―――――――――――――――――――――┐
│右 瀧新道                │
│左 瀧舊道                │
└―――――――――――――――――――――┘

東面
┌―――――――――――――――――――――┐
│(なし)                 │
└―――――――――――――――――――――┘

北西面
┌―――――――――――――――――――――┐
│大正二年十一月建             │
│    大阪府              │
└―――――――――――――――――――――┘


(大正二年は西暦1913年。)
(『箕面のみちしるべ』箕面市教育委員会、平成三年刊、には未記載。)
(『箕面滝道こぼればなし(第2集)』箕面観光ボランティアガイド編の「第二話 捨て去られた滝新道の道標」とし
 て紹介されていて、それによると「…左側の道は石段を登って山に入って行き、川をはるかに下に見て、山腹を屈曲
 しながら進みます。明治時代初めまでは、この山腹の道を通って瀧安寺に至りました。右側の川沿いの道は明治十九
 年に、地元の平尾地区の人たちが、汗を流しながら石垣を積み上げて作った道です。」とあり、続いて「この道標は
 その役目を終えて、もはや忘れ去られ捨て去られているのです。」とされ現在地と異なる位置の写真が掲載されてい
 ますが、「<注記>この道標は、現在は再び元の本来の位置に戻されて設置されている。」としているので元の位置
 に立っているようです。一時期北120mの「梅屋敷」の手水石の傍に置かれていたらしい。
  この移設されたことに起因すると思える状況が一つある。それは紀年銘の左側の「大阪府」の文字がセメント様の
 もので埋められている。多分建築主と思うのだが、無粋な施主は隠したかったものと想像するのだが、今となっては
 元に返してほしい。)
(新道完成にともない造られた道標かと想像したが、明治の地図に既に「新道」が書かれており、旧道が見えない事を
 見ると、観光案内的に整備されたものであろう。
  箕面市のHPに大正2年に「本多静六に依頼し、府営公園の整備方針をたて…」等との関連も考えられる。
  偶然、梅屋敷に展示されていた古い写真(大正時代)にもそれらしき石が写っている。その内の一枚が橋北詰の西
 側に設置された案内板にも使われているようです。有名な観光地でもあり詳しく調べれば詳細がつかめるかと思う。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を北東に望む 【3.道標を南に望む
 欄干左(北東)が新道  注意看板の間にある  奥、一の橋渡り箕面駅へ
 奥階段が旧道】  何度も見逃していた】  中央下に当道標】

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【4.道標を東に望む 【5.道標を北に望む 【6.道標南西面拡大
 右奥に滝方面への  右側注意看板をのけて  「右 瀧新道」
 新道が続く】  見るとこの様に】  「左 瀧舊道」とある】

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【7.道標北西面拡大 【8.道標北西面左部 【9.道標北西面右部
 「大正二年十一月建」  「大阪府」部分を  「大正二年十一月建」は
 「大阪府」とあるが】  セメントで埋める】  1913年である】

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【10.大正以前の一の橋の写真か、
 川沿新道があるかは分らない。
 名所図会の瀧安寺表門へは
 山から下って来る様だ。】

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【11.箕面市の道標】
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