75.宝塚市栄町2丁目の道標(摂津国道標の対象外)

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宝塚市栄町2−1−1 ソリオ1宝塚の西側、地下一階広場の南西部植込み中に、東を正面に建つ
角柱 110x28x26p
N34.809423 E135.341577


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東面
┌─―――――――――――――――┐
│右 はんきゆう         │
└――――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

西面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

南面
┌─―――――――――――――――┐
│左 こくてつ          │
└――――――――――――――――┘


(『たからづかの道標』(昭和61年刊)74に記載。)
(衆議院のHPより、日本国有鉄道法を見ると、施行は「昭和二十四(1949)年四月一日」となっており、廃止が昭和六十二
 (1987)年四月らしいので、この間の建設であろう。
 一方「阪急」は前身の箕面有馬電気軌道から大正七年(1918)年に阪神急行電鉄と社名を改めたようで、建設年確定には
 影響しないでしょう。前述書に「近年たてられたもの」とあり、昭和61(1976)年以前となる。)
(元位置を勝手に想像すると、旧宝来橋の北詰(現宝来橋はカーブして北よりに取り付けられている)の四辻の北部に、
 現東面を南東に、現南面(左面)を南西に向けて立っていたと想像する。右への道は現在ソリオ1が建ち消滅。左への
 道は川沿いに遡り「宝来橋北詰交差点」から右折しJR宝塚駅へ今も繋がる。当然地上に有ったはずであるが、位置はほ
 ぼ元のままでは無いかと思う。阪急宝塚駅までは100m、国鉄までは350m程度の距離になろう。
  又、文字の彫り方を見ると、非常に新しく感じられ、古くても昭和40年頃より遡る事はないと想像する。
 尚、JR宝塚線の電化が1981年とあり、これ以前で上り大阪方面で国鉄を使用する人は非常に少なかったと思う。三田・
 篠山方面へは、今でも現JRしか有りません。)

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【1.道標を南西に望む 【2.道標を西に望む 【3.道標上部を西に見下ろす
 石垣下の右の木の  元の向きとはほぼ反転  現在では東面に
 左に小さく見える  していると思う  「右、はんきゆう」
 地下一階入口とした】  元は四辻の北角か】  となり、北を指す事になる】

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【4.宝塚北東部の道標(明治44)】

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【5.宝塚西部の道標(明治44年)】 【6.宝塚東部の道標(明治44年)】

 2024/11/9 元位置情報追加
 想像の元位置が誤りかどうかは分かりませんが、『懐かしい栄町・戎町の風景』という冊子が図書館にあり、元位置
 の写真と地図、撮影方向が掲載されており、少なくともこの時点(昭和61年7月17日)では上記想像地点の左、JR宝
 塚への道が現在の川沿いの舗装路では無い事が分かりました。
 写真では、宝来橋の東詰めから15m程、二軒の旅館の間を北東に進んだ四辻、料理店でしょうか「琴月」とある店の
 角に建っています。
  『今昔マップ on the web』昭和60年修正地図から比定すると
N34.809357 E135.341769
 辺りと思われ、現在では施設により、道が無くなっており、上記の通りほぼ元位置に建つで良いでしょう。
 経緯度で示した地点では、東に15m程離れている。

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【7.『懐かしい栄町・ 【8.同左の撮影地点地図 【9.道標が写る写真25
 戎町の風景』の表紙  に筆者加筆(赤色)  道標「左こくてつ」
 宝塚図書館「みんなの  写真25は北向きに撮影  住所は「栄町二丁目2」
 たからづかマチ文庫」より】  道標は四辻の北角】  看板には「琴月」】
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