7.堺市堺区七道西町の供養塔(道標ではない)

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堺市堺区七道西町12 七道郵便局南側歩道上に南を正面に建つ
蒲鉾型角柱 148x28x20p(頂高5p)
N34.592190 E135.481960


南面上部
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南面中部
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南面下部
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南面
┌─―――――――――――――――――――――┐
│            安永六丁酉年    │
│奉廻國大乘妙典六十六部為心譽砕入法子菩提  │
│            正月十七日寂    │
└――――――――――――――――――――――┘
(「砕」は旧字体「石」に「卒」と刻む)



東面上部
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東面下部
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東面
┌─―――――――――――――――――――――――――┐
│千日橋施主俗名岩□喜兵衛□五十回忌□□       │
│□□□□院就三十三回忌五十回忌□□正富 發起    │
│為追善於此所□法界大施□□願修寺□□□  神南邊隆光│
└――――――――――――――――――――――――――┘



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北面
┌─―――――――――――――――――――――┐
│           世話人        │
│ 文政九年九月十六日            │
│            百性中       │
└――――――――――――――――――――――┘



西面上部
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西面中部
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西面下部
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西面
┌─―――――――――――――――――――――┐
│ 導師宗見寺眞譽上人            │
└――――――――――――――――――――――┘


(文政九年(丙戌)九月十六日は、1826年10月17日火曜日となる。)
(安永六年(丁酉)正月十七日は、1777年2月24日月曜日となる。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行には、記載なし)
(宗見寺は堺市堺区北半町西2-19と思われ、道を挟んで南側にある。)
(南面「日本廻国大乗妙典六十六部」は法華経典を66ヶ所に奉納した人を示すと思われ、「心誉砕入法子」
 がその人であろう。「神南邊隆光」は発起人であり当然別人である。依って「神南邊」の手掛かりとしては
 北面の「百性(姓)中」が建てた「文政九年九月十六日」となろう。南面が建立の主意になると思われるが
 東面の三行に渡る「回忌」等は副であろうか。供養碑の書式はよく知らない。)
(堺市立図書館地域資料デジタルアーカイブの『文久改正堺大絵図』文久三(1863)年に「千日ハシ」が見え、
 元位置はこの辺りとする資料がwebに見える。これが正しいとすれば、当碑がある南の道が川であったと見
 なせ、橋南詰辺りに建っていたとすれば、西40m程からの移設となろう。
 又、「高渚寺の千日井場所にあった」とするものもあるが、この寺跡は不明なようで碑建立時点でも寺跡は
 不明であったと思われ、元位置の決定に用を成さない。道標でないのでこの辺りで置く。)
(取敢えず「文政九年九月十六日」時点では、楷書で書く「神南邊」は「隆光」と名乗っていた様で、字はあ
 まり上手くなかったと見えます。)

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【1.供養塔を東に望む 【2.供養塔を西に望む 【3.供養塔を南東に望む
 左端背の高い石が  千日井のポンプ後が  北面下部に「百性中」
 当供養塔です。  当供養塔です。  道の向うに宗見寺入口
 後ろに七道郵便局】  左奥、七道駅】  が見える】

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【4.東面下部 【5.東面最下部 【6.南面紀年部拡大
 「發起」  「邊隆光」  「安永六年…」は
 「神南邊」と読める】  と読める】  「心誉砕入…」の命日か】

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【7.北面紀年部分 【8.北面紀年中部 【9.北面紀年下左部
 「文政九」と  「九月十六日」と  「百性中」は
 読める】  読める】  世話人とある】

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【10.千日井と神南辺道心の
 解説板を南に見る
 当地点は旧河川辺りか】
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