堺市堺区寺地町東4−1−14 旭蓮社大阿弥陀経寺本堂西墓地に東を正面に建つ
座像 大きさ不明
N34.571702 E135.472572


像部
(東面、正面)
┌─―――――――――┐
│ (なし) │
└――――――――――┘
(西面、背面)
┌─―――――――――┐
│天保十二辛丑年 │
│興譽仁恕隆光法子 │
│九月十日示寂 │
└――――――――――┘
2024/3/28 読下しに誤りあり、関連部分を訂正
(天保十二年(辛丑)九月十日は1841年10月24日日曜日)
(『堺史談會』五巻は三行目を「二月二十日示寂」としているが誤りであろう。)




台座部
(東面)横書き
┌─――――┐
│神 │
│南 │
│邊 │
│大 │
│道 │
│心 │
│墳 │
└―――――┘
(北面)横書き
┌─――――┐
│法界萬霊 │
└―――――┘
(西面)
┌─――――┐
│天保十一 │
│子年三 │
│月建之 │
│ │
│導師 │
│三十一世 │
│究譽上人 │
└―――――┘
(「究」の「九」が「丸」俗字かも)
(南面)横書き
┌─――――┐
│施主郷中 │
└―――――┘
(天保十一年(庚子)三月1日なら1840年4月3日金曜日)
(「墳」は読み「フン」で「はか」の義とある『大字典』)
(台座の紀年「天保十一年」とあり、上部の像の背中にある没年とは一致せず、別物であるかもしれない。
台座は一石では無い為、台座だけ寄せ集めた可能性は残るが文字の続き方から一組であったと思う。
依って、座像と台石部を別物としなければ、生前に立てられていた座像に、隆光の死後追刻されたと考え
なければならないが、この時台石にある「…墳」を「…墓」と同義とすれば、生きている間に自身の墓を
建てた事になる。実際の施主は「郷中」とあるので村人が建てたのであろうが、本人が死期を悟った上の
事であったものか。
因みに、天保十一年は堺で起きた寛政三(1791)年八月二十日の「海嘯(かいしょう)」からの50回忌に
当たる年らしく、神南辺4丁目にも水難碑があるらしい。これ等も関係あるのでしょうか。)
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【1.大阿弥陀経寺を北に望む |
【2.山門西案内板拡大 |
【3.神南邊墓碑を北西に望む |
本堂の左(西)を奥に進み |
開山時の精社を「旭蓮社」 |
像は本人を映したものか |
本堂が切れる辺りに |
と称したとあり、お寺の |
分りませんが、石地蔵と |
東を向けて置かれる】 |
一般的な別称と思われる】 |
表現するものもある】 |
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【4.像を東に望む |
【5.像西面拡大 |
【6.像西面更に拡大 |
背中に「天保十二」 |
「天保十二辛丑年」 |
左側上部一見「乙」に |
台石に「天保十一」 |
「興譽仁恕隆光法子」 |
見えるが、「ノ」があり |
上下別ものか】 |
「九月十日示寂」】 |
「九月」とした】 |
【参考】
『堺市史』7巻にある「【入定】天保十二年二月二十日、往日練供養に使用した、地藏尊の假面及び裝束を
着け入定した。(堺史談會誌第五號、~南邊大道心事蹟)」を当ると、原典には「本堂の前面に対し石地蔵
の座像あり、座石に「神南邊大道心墳」像の脊に「興譽仁恕隆光法子」其の左右に「天保十二辛丑年、二月
二十日示寂」と鐫せり」とありここでの転記ミスは無いのですが、その出典の「史談會誌」の読み下しに誤
りがあると思います。高い位置と衣の襞により、目視では確認しにくく読み間違ったものと思われます。
私は「九月十日示寂」としました。
『堺史談會誌第五號』は明治36(1903)年出版らしいが、これの誤りが『市史』を始め各種資料に反映してい
ると思われる。
『史談會誌』の第一号には「かんなべ道心』の項で「…新川に架せる「かんなべ」橋、戎島に立てる「かん
なべ」地蔵は其遺物なりと聞けるが果して信ならば道心の俗名郷貫及び在俗中の職業、並に其堺にありし年
代を知りたし」とあり知見が無い事を示しており、5号に於いて上記の如くに記すのみで、紀年の読下しの
状況等の記載もなく安易な結論と出来る。又、道心の事蹟に関しては住職からの聞き書きを載せるのみで、
出典等はなく心もとない。古めかしい記述に惑わされてはならないでしょう。

西面の2行目と3行目のヒダ部を感じさせないよう
少し左側から撮ってみた
┌─―――――――――┐
│興譽仁恕… │
│九月十日… │
└――――――――――┘
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