47.住吉区大聖観音寺の観音立像の台石(道標ではない)

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。
大阪市住吉区我孫子4−1−20 大聖観音寺西参道を入って20mの北白壁前に南を正面に建つ
台石 25x97x66p
N34.599421 E135.509654


写真jimg9264

台石
写真jimg9254

写真jimg9260

写真jimg9259

写真jimg9258

像部
┌─――――――――――――┐
│(梵字)(観音像)    │
└―――――――――――――┘
(梵字は「キャ」十一面観音の種子)

台石部
南面
┌─―――――――┐
│願主      │
│        │
│ 神南邉    │
│  弥助    │
│        │
│世話人     │
│        │
│朝日山     │
│ 森右ヱ門   │
│        │
│名取川     │
│ 槌右ヱ門   │
└――――――――┘

東面
┌─―――――――┐
│(なし)    │
└――――――――┘

北面
┌─―――――――┐
│(なし)    │
└――――――――┘

西面
┌─―――――――┐
│(なし)    │
└――――――――┘


(『隆光と関係石造物』月山渉、2012年では、q蜊11)
(通称あびこ観音と呼ばれる、大聖観音寺hpには「参道の十一面さん」と紹介されています。)
(国立国会図書館の『摂津名所圖會』1巻コマ63に「大聖寺」が載る。当然この石仏の記述はない。)
(南面に「願主神南邉弥助」とあり本人が書いたものでしょう、他の項で問題にしている「邊」「邉」問題
 に関しては、「邉」となります。
  又、「弥助」とあり俗名と思われるが、これを書いたものは数が少ない様で、「道心」「大道心」より
 古いと出来るのではないか。勿論「神南邊」だけの物とは比較できない。尚、堺市史には出典等の記述な
 くいきなり「~南邊道心は俗名を彌兵衞と稱し」とあり「彌、弥」しか一致しない。上書では市史の疑義
 を指摘し、これはもっともである。)
(web上の「角力評論家之頁」の天王寺区「円成院」の項の「俳優藤川友吉墓」に次の記事が有りました。
 「藤川友吉墓があり、これは力士でなく宝暦9年生まれ、文化4年には白至上上吉まで達した名優、文化
 5年6月16日没。この墓石に世話人として「朝日山森右衛門」(二代朝日山(大坂中相撲浅香川岩之介))
 があり、「摂陽奇観」に葬儀の賑やかだったことが載る。」とある。
 また、「その浅香川は明和8年(1771)8月中相撲、安永9(1780)年5月引退。後世話人、二代朝日山を襲
 名し、後頭取、文政12年(1829)9月限り。歿年月日未詳」とあるので、この人であるなら当観音仏の作
 成も安永9年5月以降、文政12年10月以前となろう。
 私注、『摂陽奇観』巻之五十六の天保二年七月五日(1831年8月12日金曜日)の項に「朝日山森右衛門本葬式
 殊外賑敷可有之旨風聞ニ而随分物静に可致旨内々御差留之事」とあり、上記の「文政12年(1829)9月限り」
 の後も名前は使えていたかも知れない。)

写真jimg9252 写真jimg9261 写真jimg9257
【1.西入口から東を望む 【2.南山門を北に望む 【3.石観音を南東に望む
 石仏は木に隠れ見えず  石仏は入って左に  右、西門へ
 奥に、西山門が見える】  進み、西山門を出る】  左、西山門・本堂へ】

写真jimg9248 写真jimg9251 写真jimg9250
【4.十一面観音立像南面 【5.台石南面左側の拡大 【6.台石南面右側の拡大
 左手は蓮華を挿した花瓶  「世話人」  「願主」
 右手は念珠を持つが二臂  二名の名前は  「神南邉」
 の時は施無畏印が多いか】  相撲取りか】  「弥助」と読める】

文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ