39.豊能町野間口清滝参道の石碑

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豊能町野間口 妙瀧寺西方直線360m、府道4号電波塔前から東側谷へ10m下った南側に北を正面に建つ
(道標とは断定できない)
尖頭型角柱 47x15x12p(頂高3p)
N34.930791 E135.475162


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北面
┌――――――――――――――┐
│妙見山 是ヨリ       │
└――――――――――――――┘

西面
┌――――――――――――――┐
│明治十六年         │
└――――――――――――――┘

南面
┌――――――――――――――┐
│(なし)          │
└――――――――――――――┘

東面
┌――――――――――――――┐
│寄附主 美濃笠松      │
└――――――――――――――┘


(明治十六年は西暦1883年となる。)
(『石の文化財』豊能町教育委員会発行、平成28年改訂には、記載なし。)
(明治42年測図の地図で見ると、現府道605号はないが、野間口より現妙瀧寺前を通りこの地点に続く道が達路以上
 の道として描かれており、妙見道として機能していたと思われる。地図では合流する様な道はなく、何のために建
 てる必要があったのか不明である。南面「妙見山」の下に「是ヨリ」とやや小さく右寄りに書かれており、この後
 に丁数が入っておれば丁石と出来るのであるが、不明である。
  ただ、地図を良く見ると、当地の西辺りに道を横切る棒線があり、これを鳥居と見なし此処から妙見山の域内を
 示す石であるとすると納得できる。そうなると傍示石と考えられる。道標や丁石でなくとも、人目に付くよう設け
 たとすれば、ここが道路であった事を明確に裏付ける。
  尚、上部に通る府道の西端とアンテナ施設との間に、円柱状の石等が幾つか転がっており、石の鳥居の残存物の
 様に見え、ここに建っていたのかもしれない。鳥居が有ったとすれば、ここからが寺域となるかもしれず、参道の
 開始の地点に相応しいと出来る。)
(東面「寄附主」の下「美濃」は住所か人名か不明であるが、旧国名を使う時代でもないとすれば、人名としその下
 は名前と思われるが「笠松」は苗字であろうか。明治4年に岐阜県となってしまったが笠松県があり悩ましい。)
(ここで、清滝参道の一覧を見ると、よく似た丁石が二基ある。「壱丁」と「三丁」であるが共に距離を示すに相応
 しい位置には建っていないが、二基と共に建てられた一基と出来そうである。
  類似点を挙げると、建立年が同じ、寄附主の上部が一致、石の雰囲気が似ている等である。下部が折れずにある
 なら、掘り出す事により丁数が確認出来るであろう。そうなれば元の位置をほぼ確定出来ると思われる。)
(尚、勝手ながら、野間口から妙見山への道を「清滝参道」と表現しており、これにより名前を付けるとすれば、
 「妙見山清滝参道途中の丁石・傍示石」辺りが妥当かと思うが石碑とした。)

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【1.石碑を東に望む 【2.石碑を南東に望む 【3.石碑を西に望む
 右下谷筋の道の右に石  左面に「妙見山」  写真の上部は府道の縁石
 左は府道605号を野間口へ】  右に「明治」が見える】  最初は文字が読めず】

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【4.石碑の北面下部 【5.石碑西面拡大 【6.石碑東面下部
 妙見山の下「是ヨリ」  「明治十六年」  上の寄附主は施主と同じか
 左側に文字無く下は?】  下部が有るかは不明】  「美濃笠松」は地名か】

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【7.石碑を南東に望む 【8.府道北側の施設を 【9.アンテナ施設の西側
 下部を掘り出し  北東に望む、右下に石  鳥居の石柱かも
 各面の清掃後】  建物は電源室等か】  奥、妙見山へ】

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【10.豊能町の道標】
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