石切剣箭神社長髄彦

新藤治氏の講演(埋蔵文化財センター11/27)によると
「いしきり」という言葉は、縄文時代より先住人としてこの地に住んでいた長髄彦が、神武天皇大和征服に逆らった朝敵、逆賊(日本書紀)として扱われている。この悲劇の英雄長髄彦を祭神とする為に、アイヌ語の音に漢字の石切を宛て、朝廷よりの奉幣を受け式内社に列した。
延喜式神名帖に載せてもらうため、長髄彦と堂々と名乗れず「石切」となり、真の祭神とし復権を果たしたという

長髄彦は河内古代の大首長であり、物部氏とは極めて密接な関係である。日下に降臨(先代旧事本紀)した饒速日(にぎはやひ)命と可美真手(うましまで)命は物部氏の祖神である。

現在の管長さん木積氏は物部氏族穂積氏の末裔であり世襲神管家である。

氏神として物部氏の父子(饒速日命、可美真手命)を祭神とし二座とするか、あるいは前記を1つにして饒速日を一座とする二座の新藤説か、どちらにしても石切神社と物部氏の関係は深い。

イシキリ神を祭った社は、元は生駒山中腹の宮山に有ったが、江戸中期に上の宮(上石切町)、そして現在の位置(東石切町)に遷された。

日本語アイヌ語同祖同系論。アイヌ祖語縄文語主体説

  アイヌ語
日下 クサ・・・船を着ける
カ・・・・・岸
生駒 イコ・・・猪、鹿
マ・・・・そこに居る
鬼虎 キ・・・・葦
トラ・・・水の流れない

 

石切という地名に着いての考察

石切という地名は昔は無かったようだ。石切という名が普及したのは近鉄(大軌鉄道)が石切神社にあやかり、駅名に使用した事が要因。石切場も大阪城築城(16C)頃からであり石切場からの由来からではない。
昔の地図ではこの付近は神並、芝、植付、辻子、水走などと呼ばれていた。

 

昔は大戸村(おおえ)といった。石小の校歌にもある通り”桜パット咲いたおおえの庭に”である
明治29年では大戸村であり、昭和25年に石切町と変遷過程をへている。

下図は『河内細見図』(安永5(1776)年刊) 大商大所蔵
この図では石切劒神社の名前が現れている。上図の大和川付け替え前(<1704年)では無いことより、
1700年以降初期に宮山から上の宮に移されたことがわかる。

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