最後の山崎ミラー 2004年7月20日
2004年5月、会社の友人と打合せ後に一杯やろうという事になりまして、もう一人誘って飲み屋でワイワイやっているうちに、私が反射望遠鏡の反射鏡を磨いている話になりました。すると、友人が、「俺の親父も、昔、とても有名な人に磨いてもらった反射鏡で自作した望遠鏡を持っているよ」と言うのです。昭和初期に東京周辺におられた反射鏡作りの名人、私は全く誰か分からずにいましたので、自作望遠鏡掲示板で質問してみました。いろいろな方にレスを頂きましたが、どうも水沢緯度観測所に勤務後、五島光学に2年間勤務された方で山崎正光という方ではないかだろうかという情報が寄せられました。東京には2年間しか住まれていませんが、早速、友人にメールで尋ねてみました。友人も記憶が薄いが、昔、山崎という名前で記憶があるというのです。それを再度、自作掲示板に載せましたところ、お一人の方から、写真付きで山崎氏の略歴まで教えて頂きました。その記事はこちら。
その記事をDLして、そのままドイツへ出張し、ミュンヘンでの会議で合流した友人に見せました。早速友人からメールで送ってくれとの依頼があり、友人はFAXで親父さんへその記事を転送して親父さんと話したそうです。友人の親父さんも、その記事で記憶が蘇り、早速友人に書庫から望遠鏡を引っ張り出せと言い、写真に納め、更にはその望遠鏡の始末記として親父さんの友人同士で出している文集に寄稿された手記まで付けて届けてくれました。
手記は、60年以上前に遡って始まっています。昔の天文少年の情熱に頭が下がる思いです。更に驚く事は、アイピースまで自作されていた事です。凄いの一言ですね。
また、後に「SCORPIO」の現在の写真を添付しました。永い間、書庫で眠っていたので、サビ等が浮いてはいますが、素晴らしい経緯台に載っています。垂直・水平微動装置も見事です。
以下、友人の親父さんが寄稿された手記です。原文のまま。文中にある銘板の部分にあったM氏の本名は隠しています。
下の方に自作されたアイピース群の中から、H18を分解していただいた写真と説明へのリンクを追加しました。(2004/8/25)
SCORPIO
…我が望遠鏡始末記
雁部桂山
SCORPIOとは蠍(さそり)の意味で、天文では黄道12宮の中の『さそり座』の
こと。何故かその響きが好きだったようで、私が若き頃に作成した何台かの望遠鏡はみな
「SCORPIO」と命名し、鏡筒に大きく書き込んだものだ。
ところで三つ子の魂何とやら、子供の頃の習性や、好みはなかなか変らぬものらしい。
子供向けの科学解説書を何冊も読みあさり、なかでも太陽や月や星や宇宙の話には心躍ら
せたものだ。玩具の望遠鏡をおねだりし、見える見えると喜んでいるうち、望遠鏡の中は
如何なっているのだろうと分解してしまった。そしてまた組み立てたり、また分解したり
するそんな作業のほうが、良く見える筈もない星を覗くよりはかえって楽しかったのを覚
えている。
府立高校尋常科へと進学したが、その校舎は八雲ヶ丘の高台に在り、校舎の中央に聳え
る天文台は遙か遠くからも望むことができ、八雲ヶ丘のランドマークであった。その天文
台に魅せられ、天文班に入ったのも当然の成り行きだった。
半球形のドームに中に鎮座していたのは、口径6インチ(=15cm)の屈折式赤道儀運転時
計付きという高等学校にしては勿体ない程立派な天体望遠鏡であった。天文班の班員は少
なく、常に20名を越えず、特に熱心に観測していたのはせいぜい10人程度だった。
尋常科の頃はそんなには望遠鏡に触らせて貰えなかったので、自分専用の小さな屈折望
遠鏡「SCORPIO」第1号をこしらえて観測の真似事をし、高等科になって自由に使
用を許されるようになって、初めて本格的に観測を開始したと記憶する。 日中は太陽の
黒点を、夜は月・惑星・変光星・重星・星団・星雲などの観測に熱中した。本体に比べて
ドームが小さく望遠鏡の操作には随分とこつを要した。それを良く使いこなせたのはせい
ぜい数人に過ぎなかった。
東京の夜空は灯火管制の故もあったのだろうか、遙かに澄んで、遙かに暗く、満天に浮
かぶ星は瞬きもせず手を伸ばせば届きそうに近く、それそれは誠に美しかった。
熱心に観測した連中は皆非常に親しくなった。なかでも私と1年下級のY氏・M氏の3
人は特に親しくなった。
天文が好きな連中は大抵ロマンチックな科学少年であって、自然科学万般の他にもロマ
ンを求めて止まなかった。観測の合間には星空のもとで、或は畳み敷きの仮眠室で、文学
を語り音楽を語り、人生を論じ、夜を徹することもしばしばであり、学問をもって身を立
てようと近いあったり、それは誠に楽しい青春の一齣であった。
とはいっても学校の望遠鏡で夜更けまで、或は夜を徹して観測する事はそう度々はでき
なかった。そこで熱心な部員はそれぞれ望遠鏡を自作して、自宅での観測に励んだ。既成
品も無い訳ではなかったが、惑星などを観測できるものは結構高価だったし、そもそも当
時のアマチュアには自分の望遠鏡は自分で作るという不文律があった。3人はそれぞれ自
分の望遠鏡作りも熱を入れた。
対物レンズだけは、32mm口径のアクロマートを購入し、鏡胴・鏡架を手製した。私は
アイピース(接眼鏡)の製作にも執念を燃やし、焦点距離の短い小さなレンズを求めて、
何軒もの眼鏡屋を巡り歩いた。希望通りの焦点距離のレンズ探しは特に困難だったので、
やっと手に入れたときには雀躍した。 屈折経緯儀「SCORPIO」2号・3号が作ら
れたのもこの頃だったし、何種類ものアイピースを作ってはY氏・M氏にも分け、仲良く
観測に励んだものだった。
より良い性能の自分自身の望遠鏡が欲しくなるのは誰しも同じ事である。精々32mm口
径のアクロマートではたかが知れていたし、52mm以上は大変高価だった。そこで希望を
大きく持ち、中村要氏著「反射鏡自作法」を参考に、100mmの反射鏡の製作にも、3人で
懸命に挑戦したが成功する筈もなかった。
昭和18年に入ると私は大学受験勉強で天文観測から次第に遠のいていった。後で知っ
たことだが、その頃Y氏・M氏は随分大胆な計画を立てていた。…『反射鏡の自作に成功
しなかったから、いっそのこと反射鏡磨きの名人に頼んで磨いてもらおう!先輩に打ち明
けると勉強の邪魔になるから二人だけで頼みに行こう、若し磨いてもらえたらその時は3
人の共有にすれば良い。』…
若くして亡くなった中村要先生のあと、山崎正光先生が反射鏡製作では有名だった。世
田谷に在るお住いをやっとの事で調べ上げ、二人は勇んで出かけていった。…『謝礼は多
くは出せないけれども真心をもってお願いすれば』…
対応に出た先生は眼を細めて聞いておられたというが、『良く解りました。でも私はご
覧のとおりの年寄りになりました。もう長いこと手掛けておりませんし、これから磨く気
もありません。』この老いの一徹には、すごすごと引き下がる他はなかったという。
落ち込んだ日が続いたのだろうが、断わられただけに如何しても諦め切れない。1週間
後の日曜、二人はまた出かけたが結果は同じだった。
何週間かが過ぎ、何回目かの訪問の後に、またまた勇気が沸いて来たという。それは青
春という光り輝く時期の一途さの現れだったろう。
『皆さんの熱心さに感じ入りました。宜しうございます。私の最後の鏡としてお二人にそ
れぞれ1枚ずつ磨いて差し上げましょう。御礼には及びません。わたしがお二人のために
磨いて差し上げるのですから何時までも手放さずに愛用してください。この鏡には署名は
入れません。署名があると商品価値が生じて、人手に渡っていくかも知れませんから。』
山崎ミラーといえば当時はアマチュアの垂涎の的だった。しかも2面。それこそ素晴ら
しい出来事だった。
山崎先生がY氏・M氏それぞれに磨いて下さった親切が思わぬ波乱を引き起こした。何
は置いてもと鏡を持って報告に飛んで来た得意顔の二人に、いきさつを知らない私は激し
く腹を立てた。
「何故この僕を除け者にした!」
「先輩を差し置くなんて、そんな積もりは…受験勉強で大変だから僕達が頼みに行って
模し磨いていただけたら、3人共有にする筈だったんです。2面磨いて頂けるなんて夢に
も思わなかったんだから。」
「でもちゃんと自分の物にして持っているじゃないか。何故3面頼まなかった。」
「そんなこと頼める訳は無いよ。無茶言わないで下さいよ。」
「僕のはどうするのだ。」
「山崎先生が僕達二人に大切に使って下さいと念を押したのだから、僕達のものだ。先
輩に譲るわけには行かない。」
何日も冷戦状態が続いた。しかしもともと大の仲良し、それも時と共に氷解して、何時
でも好きなときに、どちらかの家に行って自由に使ってよいということで仲直りした。
鏡の製作者に対する最大の恩返しは、その鏡に恥じない望遠鏡のマウンティング(架台
のこと)を立派に自作する事で、これも当時のアマチュアの不文律であった。
昭和18年夏、物も不足してきた時勢であったが、私も何かと相談に乗り手伝い、硝酸銀
を手に入れて鏡に銀メッキしたり、苦心しながらともかくも微動装置付の反射式経緯儀が
完成した。高校の望遠鏡には及びもつかなかったが、それでも木星の4個の衛星も、土星
の輪も、三日月形金星も良く観察できたのは驚きだったし、大いに満足もした。
千葉医大に入学してからも私はしょっちゅう東京に帰り、Y氏・M氏を尋ねてはその望
遠鏡で楽しんだ。
昭和20年に入ると高校の校舎の一部には陸軍が宿泊し、我等が聖なる天文台も軍靴で汚
され、一般は立ち入り禁止となった。
そして東京の大空襲。私の家は奇跡的に無事だったが、Y氏宅もM氏宅も全焼した。M
氏は空襲が激しくなると早速鏡だけ外して疎開させていたが、Y氏のあの貴重な望遠鏡は
全焼し、焼け跡から探し出した飴のように曲がった鏡を、「こんなになってしまった。」
と涙と共に見せたことだった。M氏の苦心作のマウンティングも完全に失われた。
そして終戦。
終戦の混乱が続いていた昭和21年の或る日、大切そうに小さな風呂敷包みを手にして、
Y氏・M氏が揃って訪ねてきた。
「空襲で望遠鏡は2台とも焼けてしまった。鏡だけが1面残ったけれど、これを如何す
るか二人で相談したんだ。私達はこれまでそれぞれ自分達の望遠鏡を持って楽しんだが、
先輩はそうではない。偶然1面だけ残ったというのも、これを先輩に差し上げろという山
崎先生のお気持ちなのかもしれない。今度は先輩が望遠鏡を持つべき番だ。」
私の望遠鏡製作が始まったが、そう容易に作れるような世相ではなかった。自作すると
いう大前提がある。さすれば手製とはいえ金属製のマウンティングにしたかったし、微動
装置なども満足できるものにしたかった。大変な事とは知りながらも、少しずつ手を付け
て行った。
ここで十本会の諸兄、特に工学部関係の諸兄の登場となる。既に50年以上も前になる
ので、或は忘れられたかも知れないが、酔樵氏・泉正明氏・福井高風氏に改めて御礼申し
上げる。
鏡の由来など話しもせずに、唯こう作ってと下手な図面を書き、闇雲に金属加工をせっ
つき、ねだっては、きっと顰蹙ものだったろうに、皆に本当に良くして頂いた。東大第2
工学部の学生実習室に入り込んではあれこれ口を挟み、また今は亡き泉正明氏には、東京
工大の実習室で旋盤の削り方から教えて貰い、更には微動装置用歯車の切削までお願いし
て一緒に削り出した。それらの原材料は実習室に有ったものを、無断でそっと融通したら
しい。
そして少しづつだが、何となく形になって来たように思えた。
しかし身辺では大学卒業・インターン・国家試験・そして厳しいし修業時代が続いた。
もう旋盤どころではない。未完のマウンティングは埃を被る仕儀となった。 学位論文が
出来上がり、教授の鶴の一声で山梨県のさる病院に勤務するようになって、再びマウンテ
ィングの製作が再開された。昭和32年の頃である。材料も入手し易い時代になっていたし
それに自分で頂く給料もふんだんで、結構必要な品を購入することもできた。今度は製作
は順調に進んだ。
我が望遠鏡は遂に完成した。
山崎先生の反射鏡の完成から14年・M氏より反射鏡を頂いてから11年の年月を経て遂に
「SCORPIO」は完成した。
望遠鏡の銘板には
口径98mm ・焦点距離992mm ・ F=10
反射鏡製作 山崎正光 1943
反射鏡提供 M○ ○ 1946
Mounting製作・完成 雁部 敬 1957
と書き込んである。
そしてクリーム色の鏡筒には「SCORPIO」 の名前が黒々と!
完成したとの時は皆はもう一人前の社会人で、Y氏は日本を離れていたし、M氏も遠く
に住んでいた。
それで二人とも私からの報告だけで、立派に完成した我が望遠鏡の実際を一度も見ては
いないのである。
完成後の数年間は随分星も見たのだが仲間が居ないということは寂しいこと、それが長
続きしなかった理由でもあるのだろう。何時の間にか星から遠のき、勝田に移り住んでか
らはもう観測をすることもなく、折角の望遠鏡もすっかり仕舞い込まれてしまった。
更に20年の年月が流れ、私共の病院に耳鼻科医長が岩手県から着任した。彼は大の星好
きだった。初対面で星の話題がでて忽ち意気投合してしまった。岩手の山々で本格的に星
を観測した若きベテランだった。
だが彼の話を聞くに付けても、時代の違いをしみじみと想ったのである。当時私達には
夢でしかなかった立派なレンズも反射鏡も、話にしか聞かなかったオルソ型という高級接
眼鏡も、しかもアマチュア用に高級な既製の望遠鏡の各種が、幾らでも手頃な値段で各社
から発売されていると言うのである。望遠鏡は自作するものというアマチュアの不文律な
ど今は存在しない。
それはそれでまた良いのだろう。
でも私はもう一度埃にまみれていた「SCORPIO」を手製であるという誇りにかけ
て、整備しようと執念を燃やした。彼の所有する高級な赤道儀には及ばないけれど、使い
方を工夫すれば何とか対抗できそうであった。残念にも彼の在職期間は2年ほどで、日立
市にに業を継いで開業した。
やはり仲間の居ないということは、長続きはしないということ。それに自分自身も齢を
重ねてくると、星を見る事も次第に億劫になってきた。
耳鼻科医長との出会いが、その時の私の今一度という情熱とが、「SCORPIO」にと
っては、消え行く炎の最後の輝きとなったのであろう。
それから更に20年、今は青春と情熱の思い出を込めて、我が
「SCORPIO」は
静かに書庫に眠っている。
かつて学問を以て身を立てようと誓い合ったこの仲良し3人組は、私は学者になり損ね
たが、M氏は今名古屋大学工学部の名誉教授であり、Y氏は今も長くパリに住み、かつて
はフランス国立原子力研究所主任研究員であった。
[完]
注釈1:反射鏡のメッキは、現在はアルミメッキとの事です。
注釈2:山崎氏によるフーコーテストは、行われているのですが、仲良し3人で行ったフーコーテストでもかなりの精度
で、仕上がっていたとの事です。
注釈3:下の鏡筒の写真には、別のガイド鏡ホルダが付いていますが、これにも、自作屈折望遠鏡を載せる予定で、
レンズだけは、買って手元に残っているとの事でした。







2004/8/7に、友人の実家を訪問させていただき、実際に見てしまいました。親父さんが、H18を分解して下さいました
ので、ここに紹介します。もう50年くらい前に作られたアイピースです。
