有田鉄道 

 2007.01.06更新 


沿革

有田鉄道は有田みかんの産地である有田川流域とこれを船積みして出荷する湯浅港を結んで、みかんの搬出の便を図るため明治末期に創設され、海岸−金屋口間9.1kmの免許を明治45(1912)年3月9日付けで得て、第1期工事として海岸−下津野間6.2kmを着工、大正4(1915)年5月28日に営業運転を開始した。

第2期工事として着工していた下津野−金屋口間2.9kmも完成し、大正5(1916)年7月1日に営業を開始した。

大正10(1921)年に和歌山側より紀勢西線が着工され、大正15(1926)年8月8日に宮原−藤並間が開業、有田鉄道も藤並に国鉄との連絡口を設け、さらに昭和2(1927)年8月14日に藤並−紀伊湯浅間を開業したため、藤並駅の南方で紀勢西線と有田鉄道が平面交差するようになった。

第2次世界大戦中の昭和19(1944)年12月10日に海岸−藤並間3.3kmが紀勢西線と併走しているため、不要不急路線として営業休止し線路が撤去され藤並−金屋口間5.8kmが残り、この経緯から国鉄紀勢西線藤並−湯浅間に車両乗り入れを行うことになりました。

海岸−湯浅間は紀勢西線の開通後は振るわず昭和9(1934)年2月1日以降は営業を休止、貨物営業は昭和13(1938)年2月20日に復活したが旅客営業は復活せずに昭和15(1940)年4月8日をもって旅客営業を廃止、貨物線として存在し免許を繰り返し更新し続けたが、昭和34(1959)年4月2日をもって廃止された。

昭和23年には火災によって本社を焼失、また昭和28年には有田川流域を襲った二八豪雨による災害で本社や車両の流失など甚大な被害を受けました。

施設 昭和41(1966)年当時

軌間は1067mm最少曲線半径は本線では藤並から田殿口駅に入る手前ある。
最急勾配は9‰で金屋口−御霊間にあり隧道は無く橋梁は12カ所で最長は鳥尾川橋梁23.66mである。
全線単線で駅は5カ所で対向可能は下津野駅で田殿口には貨物用の側線があった。
閉塞方式は票券式、信号機はは両端の藤並・金屋口の他下津野の上下線に場内信号機のみあり2位腕木式である。

機関区・本社とも戦前は湯浅にあったが海岸−藤並間の廃止によって金屋口に移された。

廃線となった海岸−藤並間には海岸、湯浅、吉川、藤並の停車場があり田殿口−藤並間には明王寺停車場があったが、明王寺は昭和6年、吉川は昭和12年に廃止されている。