屍 を 見 つ め て
 
                        ロマ一・一六・〜一七
 
 
 戦地におりまして内地からの新聞に「一日戦死」ということを実行する国民運動のあることを承知しました。
戦死したつもりで一日を国家に御奉公する。滅私奉公を実行として一日を暮すということであろうと思います。
それが興亜記念日として月の一日には色々の節約運動が生まれた訳でありましょう。戦友の戦死ということを現
地で味わうのと、遺骨をお迎えするのと、その感じが違います。また一人か二人か戦死者を見たときと、十数人出
たときと、私はそれ以上の経験はありませんが、何十人、何百人の死体を、いわゆる屍の(しかばね)山として見たときは感
じが違います。初めて戦死者を出したときの興奮は中々に大きいものでありますが、度重なる毎に、環境に慣れ
て「そうか」とそのとき思うのみで心の動揺が少なくなるのであります。
 内地に帰ると戦死体が重なりあっている写真を見たがるものですが、現地にあっては、初めてのとき以外は出
来るだけ見ないようにする心理が働いて、屍を見つめることに暗い影を感ぜずにはおれません。支那家屋の土の
土間に、うすぐらい光線の下に、担架にのせられたまま動かぬ人となって、血潮にそまっている屍を見るとき
に、一種の凄惨なものがあるのであって、余りに呆気(あつけ)なく簡単に人の生命が消えてゆく有様は、真実とは思われ
ぬものがあります。
 そして何人もそこに、真実の人はその肉体、動かなくなった死体ではなく、人間の眼には分からないが、霊と
なっていつまでもいるという感じ、その霊が安んじていただきたいという希いが心に浮び、その全部となって、
草花を瓶にさしてもって来るもの、ローソクや線香が用意せられて、霊の祭りをせねばならぬ強い要求が自ら湧
いて出るものであり、人は何人でも、またいかなる境遇でも、戦地でも、宗教なしには、すなわち神や仏なしに
は生きて行けないことをハッキリと感ぜしめられる。
 すでに屍となって横たわっている惨憺(さんたん)たる死せる戦友ではなくして、見えないが、いつも生きておるべきはず
の戦友の霊に対して、こちらの心を通ずる途はただ念仏か祈りか、形式は様々ですが、眞心をもって祈り、神や
仏に依頼してその真心を通ぜんとするのであります。
 
   冴月や亡き戦友の影を見る
 
 戦場にあって戦友の死に遭うときに、私達は一種の興奮の内にあって涙が出ません。出る涙は残念の涙であっ
て、悲しみの涙ではありません。興奮の涙であって、心の底から澄み出る愛惜の涙ではありません。戦もすん
で、一・二ヵ月もたって初めてシミジミと戦友や隊長の在りし日を思い、その遺品や写真に見入って初めて人間
としての悲しみの涙が胸をちぎるのであります。遺族の方々が流す涙と同じ涙であると思う。
 昨年徐州の会戦があって二ヵ月も経った頃に、あの有名な赤柴部隊が出陣に先立って私達の隊の倉庫に預けて
おった私物の色々な荷物を、生き残った人の内の二・三人が引取りに来ました。倉庫の一隅に積んであった風呂
敷包や函や袋がそれぞれあります。受取りの兵を部下に案内させて時間もたった頃に、私ほどうしたかと思って
見に行きました。倉庫の扉をあけてはいってゆきますと、二人の上等兵が風呂敷包や函をあれこれと開いた品物
の中に向きあって、シクシク泣きながら品物を選り出しているのです。
 私は実に厳粛な気持ちになって、どうしたんだと静かに聞きますと、兵隊は顔もあげないで、はい、戦死され
た中隊長殿の残された品物を見ると泣けて泣けて仕方ないのです、と、大きい涙をポタポタ落してオイオイ男泣
きに泣いていたので、私もまた顔も知らぬその中隊長の死というよりは、二人の兵の眞心と死せる人の慈愛を思
って、霊と霊、心と心の深い関係に打たれて熱い涙を流さずにはおられなかったのであります。
 三寸息絶えた屍を見つめているときよりはもっと深刻な死の悲しみや意義がかくして私たちの心にふれ、新し
く死とは何ぞやという事を感ぜしめるのであります。
 いかに戦場でも死の恐怖はかくすことが出来ません。やはり色々の迷信がはびこる訳で、そこに肉身、友人た
ちの眞心もこもっているので、理屈一辺で、とや角非難も出来ないのでありますが、まことに笑うべきものもあ
り幼稚なのもありました。私は私の信仰から見えざる父なる神をのみ信じて何一つお守りらしいものは身につけ
てなかったので、私は当番や関係の将校から不思議がられたのです。戦死者があると、死の運命が急に身近かに
迫った気がして、誰も彼も次の出陣には遺言状を書くものです。戦死者を出して引揚げて来るとき、また敵に遭
うような場合には、恐ろしく緊張するのもあたりまえであります。 
 私は一つの尊い経験をしたのでありますが、それは一昨年出征して直ぐ現地に到着して間もなく、たしか九月
二十一日の夜であったと思います。その日朝、わが隊は初めて戦闘をして柳田上等兵が戦死し、二、三の負傷兵
を出しました。丁度天津にこの人達を運んだときに、私は天津から金をとって従卒の久保一等兵と二人で駅で会
って、夜十時近くの汽車で塘沽に向けて、わが隊の兵や看護兵と帰路についた。大部分の兵は○○城というとこ
ろで降りて七・八人の兵だけ乗り合わせて来ますと、丁度外は月光で昼のようでしたが、突然に汽車がとまり、
これはどうしたかと思う間もなく、銃声が列車の右から聞えて来ました。
 さてはと思っていると列車の車掌があわてて入って来て、敵襲であるから兵隊さんに降りてもらいたいと口か
ら泡を出してシドロモドロで申すのです。列車には外人や日本人や支那人が八分通り乗っていたので、たちまち
恐怖が襲って来ました。列車には他に軍医が二人いる外に将校はなく、兵は十人足らずです。そこで私は主計官
で非戦闘員ではありましたが決意をして大音声で「西村少尉が指揮をとるから安心せよ」と申して右側の窓をす
っかり暗くして客は窓縁の下に身をかがめるように、騒がぬように言って歩き、身仕度をしました。
 その僅かの時間に私の心は、こうであった。「意外に死ぬときが早く来た。自分が率先せねば何事も出来な
い」 「妻子や母にもう会えぬ事になった」 「総てイエス・キリストは導き給う」という事が断片的に閃(ひらめ)きまし
た。伍長以下の兵は私を見ているばかりで、アリアリと恐怖と不安にかられて判断もしかねる顔色でしたので、
私は短銃をとって左の列車の蔭の方に降りて金を久保一等兵に託し残して、三十米も兵の先にたって機関車の方
に進みました。そしてその歩いている間に、たしかこの辺に歩哨線(ほしょうせん)のあることを思い出して、そこに連絡するこ 
とを第一に考え、機関車の前から右方に出て、ついに連絡をなして協力して列車を救うことが出来ました。
 その間二・三あわてて小銃を打合った兵もありましたが、私の心は今にして思っても澄切っていて、死を恐れ
ることなく、何だか上からの力が満ちあふれて闘志満々として、力が溢れるように覚えました。列車に帰るや機
関車に兵を配置したり、、列車を通って乗客に笑顔で安心させたりしました。六尺位の外人が二人でベンチの下に
窮屈そうにもぐり込んでいて、私に「ありがとう」といったときは吹き出すとこでした。
 私のこの経験からいっても、また私の部下の北上一等兵が、ある処で十八人の守備兵が二千人の敵に包囲され
て五昼夜闘い、弾薬つきて脱出するときに負傷兵三人だけが残され、前後左右を敵に囲まれつつ、死の四時間、
梨畑を歩いたときの経験を聞いても、いざというときには「死ぬ」ということは、責任をもち、また決心したも
のには恐ろしくないものであります。心の定らぬものはそうはゆきません。
 張家口にいたとき、日本の密偵になっていた者で、敵にとらわれ眞赤な焼火箸を腕やももや腹にさされ、眼も
焼かれて、一つはつぶれたのですが、ついに逃げて来た人に聞いても覚悟あれば死は恐ろしくないものでありま
す。
 死に臨んでの戦場の経験と戦友の屍を幾多見、また焼き、身辺に失った経験からして私は色々と深く人生や、
死や、そして死んだ後の世界について考えない訳に行かないのであって、その結論としては、私たちは必ず死ん
で行くものであるから、死に臨んで決して狼狽(ろうばい)しない覚悟を平素から持って居り、その覚悟は死後の生活に対す
る確固たる宗教的信仰なくしては得られない事を痛切に感ずるのであります。 
 戦場にあって、いざとなれば日本人たる以上は何人も死を怖れるものはなく勇敢に戦って死ぬのではあります
が、問題はその死ぬことそれ自身にあるのではなくて、死に至るまでの生活と死に直面したときの霊の力が問題
になるのであると思います。
 死はただ単独に死ではなくして、生活の連りとして、日に見ゆる最後のものとして越ゆる現象であって私たち
が屍を視つめたときに、その動かざる、間もなく腐って焼くべき肉体の外に、その人の生活の態(姿)が目に見
えざれども限りなき発展をして行くことを感ずるのであります。すなわち、その人の霊の力、人格の力が永くそ
の周囲の人たちに残り、毎日迫り来るのであって、初めは興奮して知りませんが、やがて静かな日が続くと実感
として生き残っている人たちとの関係を深めるものなのであり、霊魂不滅、永遠に生きるということが真実のこ
とになって来るのであります。
 この死後における生活への確信があることによって初めて生きている間に、美しい愛に満ちた霊をもって世の
闘いにも、弾丸雨飛の戦場にも、家庭生活にも軍隊生活にも、決して人格の分裂しない生涯を送り、同じ勇敢な
戦死をしても、残ったものにいつまでも生きて迫る霊の力がマザマザと働くのであります。
 人は死ねば、だれも屍をうつようなことはしない。いわゆる仏教の仏となった者とするかも知れないけれど
も、永遠の人生からすれば、不正不義の人の死はそこに審(さば)かれねばならぬのである。戦死といっても色々あるの
であって、やはり死後に残るものはその人格とその霊の力であり、信仰の証(あかし)であります。
 死とは、なんぞやといえば、ただ肉体の活動の休止ではない。「罪の価は死なり」であって真の死は霊の審き 
であり、人の罪の結果を来たし、人格の滅失であります。永遠におのれの死を意味するものであります。
 また永遠に死の門を越えて生きるためには、生きている間から、ハッキリした死の解決を得ておらねばなりま
せん。
 私は十六・七歳のときに人生の問題を考えざるを得ませんでした。またおのれが内にある肉の力をどうするこ
とも出来なかった。意志の弱い自己に悲しみ、また「女を見て姦淫の心を起すは姦淫を犯したものである」とい
う神の審きに対し、罪の深さを思って、否、自己のあくことを知らぬ「神に反抗する」不信と不義を知って悲鳴
のあげ通しでした。
 幸いにして十八歳のとき、小さい信仰ながらキリストを愛し愛せられることを知り、私一人のために死に給い
し、十字架の上から血を流して私の罪を清め、神に近づくことを許されたイエス・キリストによって二十五年間
信仰から信仰に進むことを許されました。イエス・キリストが死して三日目罪なきがゆえに復活せられ、私たち
に永遠に生きる姿を初めて現わし、今もなお霊の身体にて私のかたわらに近くおり給うことを信ずる信仰を与え
られたのであります。
 何の慰安なき戦場、心のややもすると荒む戦地、淋しい環境、たくましい男のみの世界が、色々の誘惑に陥る
ことは火を見るより明かであって、酒と女の問題だけでも戦争はまことに困難な事情をかもすのであるが、明日
をも知れぬ生命として永遠の生命を思わずして堕落するものや、今日の快楽をむさぼり、また大目に見る人生観
に対し、死の彼方の復活の世界を喜び信じて、今日一日を同僚にも支那人にもキリストの愛をもって祈り深くお 
くるイエス・キリストの信仰といずれが愛国の本ものであるかを私は断言出来るのであります。
                                   (一九三九・一二・一七 旭川教会)







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