我 が 生 活 の 反 省
 
 
  ヤコブ書第一章二十六節に「人もし自ら信心ふかき者と思ひて、その舌に轡(くつわ)を著(つ)けず、己が心を欺かば、その
信心は空しきなり。父なる神の前に潔くしてけがれなき信心は、孤児と寡婦とをその患難の時に見舞ひ、また自ら守
りて世に汚されぬ是なり」という事が書いてあります。
 私たちは自分の信仰生活を反省してみるときに、最も神の前にお詫び申上げなければならない事は、信仰生活
すなわち信仰生活の実践、行為ということに尽きるのでありますが、何故に信仰と行為が神と人の前に一致出来
ないかという事を深く考えてみますと、そこに私たちはイエス・キリストを信ずる信仰の不徹底という事を思い
めぐらさねばならないのであります。
 私たちの生活の一つ一つをキリストを信ぜざる人々の生活に比較して考えてみますなれば、正直に申してキリ
スト者の生活以上の道徳生活を誇り得る人は少ないと申さねばなりません。確かにいわゆる世の師範ともなるべ
き人で、我らの遠く及ばないほどの道徳堅固なまた博学な人格の方も世には多少はおられるのでありますが、一
般的に申してキリスト者の道徳生活は世人に比して高いといわねばなりません。それ故に僅かな過失、わずかな
欠点さえも、キリスト者なる故に大いに目について世人のそしりを受ける場合が多いのであります。 ですから常
識的に申せば、その行為の上で、わが生活を反省しても、心の底から相済まないという思いは出て来ないのでは
なかろうか。
 口には何とか謙遜の言葉を出しても、心魂に徹して生活の反省がその行為から出発して自分に迫って来るであ
ろうか暗々裏にキリスト者には世間より高い道徳的生活を誇るものが確かに存在しているのであります。その
一種の気位こそは、キリスト者として何者にも勝って反省しなければならぬ罪であり大欠点であります。信仰あ
るがごとくにして信仰なき生活から生ずる驚くべき傲慢であります。「もし盲目なりしならば罪なかりしならん。
然れど見ゆと言ふ汝の罪は遺れり」とイエスによって指摘せらるべき罪であります。
 我らの信仰生活を反省して何の誇るべきものがありましょうか。ただ誇るべきは主イエス・キリストの十字架
の外はないのである。
 毎年主の受難の週を迎えて、我らは己が信仰生活を反省し、また懺悔(ざんげ)せしめられるのはただイエス・キリスト
の十字架の御愛に対して感激感奮して、おのれを生ける神のそなえものとしているかどうかの信仰に対する徹底
した反省であって、けっしてキリスト者として守るべき歩むべき、誇るべき道徳生活の反省ではないのである。
 主イエス・キリストの召を蒙(こうむ)りし我らキリスト者は初めから肉によれる賢き者多からず、能力ある者多から
ず、貴きもの多からず、世の愚かなる、弱き、卑しき、軽んぜられ、無きがごときものなのである。さればこそ、
イエス・キリストのお選びを受けたのであります。これ神の前に人の誇る事なからんためであります。
 イエス・キリストのみが、神に立てられて我らキリスト者の智慧と義と霊と救贖いとになり給い、我らはイエ 
ス・キリストを信じ頼ることを誇りとしているのであります。
私たちは今夜ここに私たちのために十字架上に死に給いしイエス・キリストを信ずる信仰の外に、何者かを我
らの生活の中に必要としたかどうかを反省せねばなりません。この時代に私たちはイエス・キリストの父なる神
の外に何らかの権力を望んでいるかどうか心に聞く必要があります。イエス・キリスト及びその十字架に釘ずけ
られ給いし事のほか、何をも知るまじと心を定めているであろうかどうかを反省せねばならぬ。
天に在(いま)す私たちの父なる神といつも一緒に生活していたか、いるか、いたいかをよくよく心に聴いて見ねばな
りません。ほんとうに肉身の両親の愛にも優る父なる神の愛に生きているか、父の神から自分が独立し、対立し
ているのではないかどうかを反省する事が大切である。「神のもとめ給ふ祭物(そなえもの)はくだけたる霊魂なり、神よなん
じは砕けたる悔ひしこころをかろしめ給ふまじ」神は欠点だらけ、実行力なきものでも子たるものの砕けたる悔
いし心を喜び給う。子たるものの悔いし祈りを喜び給う。祈祷会において一つとなって祈る教会を愛し給う。キ
リスト者が、世人より少々道徳的であること等喜び給わないと思います。受難週はイエス・キリストの十字架に
直面して心砕け信仰を賜わり、救の歓喜を感謝する事に外ならないと思います。
                (一九四〇・三・一八 於札幌北一条教会受難週祈念)







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