信仰生活の基礎事実
 
                 エペソ六・一〇−二二
 
 
 生物は必ず死滅する。人間もまた死ぬという事実の前に、人間はいかにかして死なぬものを望んでやまない。
永遠なるもの、不滅なるものを探求してやまない。真理を求め、芸術を極め、智識を捜すのである。そして自己
において決して死なぬものを握り、ついに自己は死なぬという確信に生きんとするのである。永遠不滅にして、
在りて在るもの、常に生きるもの、すなわち限りなき生命を得んとするときに二つしか道はない。おのれ自身の
悟性において限りなき生命に至るか、生ける絶対の創造主なる神に生かされるかである。おのれ自身が死なぬも
のとなるか、永遠に生きる者に生かされるかである。
 「蛇、婦に言けるは汝等かならず死ぬ事あらじ、神、汝等が之を食ふ日には汝等の目開け汝等神の如くなりて
善悪を知るに至るを知りたまふなりと」(創世記三・四−五)人間の多くは神によらずして、自己自身神のごとく
なりて善悪を知らん事を願い、死なぬ道を発見せんとしている。これは蛇すなわち悪魔の大なる誘惑である。被
 
造物の最大の誘惑であり、危機である。古来かかる道を歩んで永遠の生命に至ったものはない。
 「それ神はその独子を賜ふほどに世を愛し給へり、すべて彼を信ずる者の亡びずして永遠の生命を得んためな
り」 (ヨハネ三・一六)ここに亡びずして永遠の生命を与えられる道がこの人生に備っている。すなわち、神を
信じ神に生かされ、神の独(ひと)り子主イエス・キリストの十字架の血に救われた歓びに生きる道である。
 普通真理に生きるとか、悟るとかいう様な自己のひとり角力に満足する道ではなくして、イエス・キリストの
愛に感激して生きる道である。「されどさきに我か益たりし事はキリストのために損と思ふに至れり。然り我は
 わが主イエス・キリストを知ることの優れたるために、すべての物を損なりと思ひ、彼のために既に凡ての物を
損せしが、之を塵芥のごとく思ふ。これキリストを獲、かつ律法による己が義ならで、唯キリストを信ずる信仰
による義、すなわち信仰に基きて神より賜る義を保ち、キリストに在るを認められ、キリストとその復活(よみがえり)の力と
を知り、又かの死に倣(なら)ひて彼の苦難にあづかり、如何にもして死人の中より甦へることを得んが為なり」 (ピリ
ピ三・七−一一)と使徒パウロが書き遺されし通りである。
 元来、人間が死をも恐れぬという場合は、必ず人格的関係においてである。主従関係に、親友関係特に戦場の
戦友関係に、恋愛関係に、親子兄弟の肉身関係において愛の神秘は解く術もない現実を我らに示す。決して真理
を確信し、芸術に捧げた訳ではないが、かかる感激は人生の常に繰返す出来事である。信仰は、かかる人格的関
係を通じて永遠に生きる道を与えるものである。イエス・キリストの御人格と十字架の聖愛に打たれて、我らの
生活は一変する。自己を中心として転回していたものから、イエス・キリストと父なる神の愛を中心として人生
 
 
のすべてが転回し、また解決せられ、感激はイエス・キリストとその十字架の外には何事も知るまじと思い定め
る、に至るのである。
 信仰生活は、かくのごとき感激、すなわち人生の価値転換、おのれに生きず、キリストによって生きる生活、
いわゆる回心の歓喜によって生まれ変る。新らしくイエス・キリストの中に造られ、神の喜び給う善き業に歩む
ことの希望がその生活に満ち満ちて来るのである。色々と悩み、苦しみ、忍耐し、努力して、ついに、意を決し
て神と人との前に洗礼を受け、信仰生活に入ったときに、大なり小なり、かかる経験を我らは持つのである。
 けれども残念な事には、やがて、かかる信仰生活の決心は、現実の社会生活、精神生活において、次から次へ
と起こり来る困難な問題を解決出来るかというと、なかなかそうはゆかないのである。むしろ、想像もしなかっ
た困難な、また今までに自己の身辺に経験しなかった厄介な現実が迫って来るし、過去においては気にも留めて
なかった心の不安が、すなわち罪を犯すにはあらざるかというおびえが慄(りつ)然として心中を往来しだすのである。
 心の平安と生活の安定を得んと願っていた信仰生活が、かえって自信のない不景気な臆病な生活に追い込まれ
勝ちになり、常に脅迫を受けているような生活に堕して行くように感ぜられるのである。
 信仰生活に入り、神に救われたという喜び、人生の真実に生きたと思う喜びは、何者にも替え難い歓喜法悦で
ある。その当座、全く宗教的な激情の興奮状態になるのが常である。しかし、やがて、その興奮が沈静するとき
に内的な色々な問題に悩んで来るのである。
 教会生活にはいったという事は、深い意味において、神によって新しく生まれたのであり「人あらたに生れず
 
 
ば、神の国を見ること能はず」というその反対が成就した事なのであるから、古き我は今死んで、主イエス・キ
リストの占領が、わが内と外に始まるのである。霊の力が肉の力とわが内にあって、大なる争闘を開始するので
ある。
 肉的欲望のなくなるのが信仰生活ではない。戦わせしめられるのが信仰生活である。教会生活にはいったから
といって、直ちに、その人の罪の問題が如実に解決されたと確信するまでには、永い絶えざる霊肉の戦いがある
のである。信仰生活にはいったといって、直ちに清まり、人格が向上し、罪より逃れた事にはならない。信仰の
歓喜を失い、主イエス・キリストのお姿から自分の足下に目を落した瞬間に、我はただの人間に落ちるのであ
る。
 イエスが海の上を歩んで、ガリラヤの海におる弟子の舟に近づき給いしとき、ペテロは海の上を歩んで彼のみ
もとに近づいたのである。「来れ」と言い給えば、ペテロ舟より水の上を歩みてイエスのもとにゆく、しかるに
風を見て懼(おそ)れ、沈みかかりければ、叫びて言う「主よ、我を救ひたまへ」イエス直ちに御手を伸べこれを捉えて
言い給う「ああ信仰うすき者よ、何ぞ疑ふか」私たちは教会生活に入り、イエス・キリストの弟子となっても、
やはり。ペテロと同じ道を幾度もその生涯に繰返すのである。
 自己自身の決心では、決して信仰生活を進めて行く事は出来ない。自己自身の意志の力によって信仰生活を推
進するならば、かえって、その反対に信仰から離れてしまう。生ける父なる神の業として、救い主イエスの聖霊
の力によってのみ、信仰生活は自己の生活の中に打ち建てられて行くのである。
 
 
 人間は生きている間欲望がある。性欲も食欲もとることが出来ない。性欲のあるという事が罪ではない。キリ
スト者の陥る誘惑は、性欲も食欲も運動も遊戯も、何もかも罪だという錯覚に陥ることである。病的信仰であ
り、神経衰弱である。
 信仰生活が進んでいるか、退いているか、これを失ってしまっているか、キリスト教の信仰に生きているか、
キリスト教を教義的に理解しただけに終っているかは、いかにして分かるかというと、それは、主イエス・キリ
ストと人格的におのれ自身がいかに関係しているか、主イエス・キリストの弟子として、彼の御足跡を歩まんと
する情熱が、愛の関係が、彼との間に深くなっているかどうかによって分かるのである。
 信仰生活に入るという事は、人生の難問題がことごとく解決されると安易に考えている人たちは、イエス・キ
リストの家族になった以上には、イエス・キリストの負い給うた重荷をも、また、自分が担わなければならない
という事を、現実に周囲から、また、内なる生活から知るときに、今さらのごとく驚くのである。キリストの重
荷、教会の重荷を自分もまた分担するものである事を発見して驚愕(きようがく)するのである。
 「凡て労する者重荷を負ふ者、われに来れ、われ汝らを休ません。我は柔和にして心卑(ひく)ければ、我が軛(くびき)を負ひ
て我に学べ、さらば霊魂に休息を得ん。わが軛は易く、わが荷は軽ければなり」これはイエス・キリストの約束
であると共に「それ我が来れるは人をその父より、娘をその母より、嫁をその姑(しうとめ)より分たん為なり。人の仇
は、その家の者なるべし。我よりも父または母を愛する者は、我に相応しからず。我よりも息子または娘を愛す
る者は、我に相応しからず。又おのが十字架をとりて我に従はぬ者は、我に相応しからず。生命を得る者ほ、こ
 
 
れを失ひ、我がために生命を失ふ者は、これを得べし」ということは、また、イエス・キリストの我らにハッキ
リと知らしめ給いし約束なのである。
 信仰生活にはいって、この約束が如実に毎日の家庭生活に、勤先の生活に、友人との関係に、明らかに迫って
来る場合、多くは失望し、確かに落胆する。その迫害の事情によるよりも、これに処する自己の信仰の実体、自
己の無力についてである。イエス・キリストはその生涯において、誘惑され、迫害を受け、家族の者より誤解さ
れ、罪人より罵(ののし)られ、彼の教えを受容れない宗教的な人々より嘲笑され、そして、その弟子と称する数百人の者
どもは彼のもとを去り、わずかに少数の友の一群しか、そのもとに留まらなかった。後には、彼らすらも、彼を
見棄てて逃げ去り、ピラトの審判の座の恐るべき嘲(あざけ)りを通し、ついに、彼ひとり、カルバリーの丘の十字架に進
み給うたのである。
 かく主は我ら人類の、そして我らの罪を救わんため、その贖(あがな)いとして苦しみ給うたのであるから、我々もま
た、主と共に苦しみを共にすべきものであり、その苦難にあずかることを永遠の生命に至る神聖なる特権として
喜ぶべきであり、信仰はそれを全うする力であるのである。
 キリスト者になったのは、恍惚(こうこつ)的法悦と歓喜が感情的な波動をもって、生活を絶えず流れ出ることではなく
て、キリストと同じ苦難の生涯に入り、キリストを知らない他の人々よりも高き永遠の世界に生活せんがためで
ある。ここに、我らに対して、いかにかして肉の世界に引戻さんとする悪の勢力が襲い来るのである。「我いま
人に喜ばれんとするか、或は神に喜ばれんとするか、抑もまた人を喜ばせんことを求むるか、もし我なほ人を喜
 
 
ばせをらば、キリストの僕にあらじ」聖書の示すところである。
 信仰生活が向上しているかどうかは、自己自身において難行苦行をし、修養練磨して、確信を得ることではなく
して、自己自身がイエス・キリストを慕い愛し、その道に歩まずにはおれないために、周囲から、またこの世か
ら分かたれ、神の自由に生かされるために、この世の迫害と嘲罵(ちょうば)と拘束と不自由を自ら加えられる事実によって
知られるのである。信仰生活の基礎として、かかる事実が我らの生活に示されているかどうかが、教会生活を忠
実にしているかどうかである。
 かかる意味において、キリスト者の道は狭き門であり、茨の道である。
 信仰生活の初歩において、必ず真面目で正直にひたむきに進むときに、思いがけない十字架の道がその生活の
基礎事実として迫って来るときに、何よりもその助力を教会に、兄弟姉妹に求め、教会生活に頼らんとするのは
自然である。しかるに教会の内部において、かかる兄弟に対していかなる助力を与え得るか、もしも礼拝が形の
ごとく行われ、隣人は黙々として他人の事は知らず顔に、みんなの顔ほどれもこれも信仰の奥儀に達したような
顔付で納まっているときに、だれに自己の信仰上の悩みを打明けてよいか迷うのである。
 修養談や、克己鞭撻や、教義の解釈や、即興的な説教は決して信仰の助けとはならずして、教会から遠ざける
役目をなすのみとなり、教会組織の人的、団体的の因習は、いたずらに混濁した空気をかもして、社会と共通な
人間憎悪の別社会を思わせるにすぎないことが間々ある。信仰生活の危機が内から外から囲繞(いによう)するといわねばな
らぬ。
 
 
 かかる時、我らは決然として、新鮮な血液の注入、深呼吸をしなければならない。魂の肺腑に、聖霊の働きを
受けねばならない。それは祈祷(きとう)である。祈祷の実践である。
 信仰は神とおのれとの関係において、キリストと我との人格の関係においてである。教会とキリストの関係に
おいてである。キリストの福音と我との関係、キリストよりの救いと愛との関係においてのみ成り立っているの
であるから、当然に、神と我、キリストと我との間に会話がないはずがない。神の家族の間に会話のないはずが
ない。教会の中に祈祷の喜び、祈祷の拡充する勢がないという事は、家庭内に会話がなくて互いに黙々として暮
していることに過ぎない。そんなところは家庭ではない。
 祈祷は独語ではない、修辞ではない、泣ごとではない、挨拶だけではない、台詞(せりふ)ではない。父なる神と、子な
る我との対話である。父なるがゆえに、神が必ず応答し、愛し、導き、解決し、力づけて下さる。神が味方し給
う事実なのである。祈祷のない信仰生活はない。呼吸作用のごとく、無意識に祈祷は行なわれていねばならぬ。
 時には、意識して深呼吸も必要である。朝早く、外に出て呼吸せねばならぬ。室の内で、無精たらしい祈祷で
は足りない。祈祷において、兄弟姉妹は交り、即ち教会生活があるのである。祈祷をもって礼拝に出席したとき
に、祈祷をもって連る教会員とは、黙々としていても、一つの恵み、一つの聖霊に満たされ、一つの信仰に結ば
れるのである。また説教者をして福音を述べしむるの力をさえ加えられるのである。神の満つる教会が地上に建
つのである。天国は地に成るのである。天国の姿が教会にほの見えるのである。
 祈祷は実践の外はない。理屈はない、実践すればよい。声を出して、ひたすらに、朝に晩に、父なる神、天地
 
 
の創造主、イエス・キリストの父に呼びかける、ただそれだけである。毎日毎日繰返す。神に、なんでも正直に
打明ける。言葉に出して打明ける。それでよい。必ずやそこに神の力を与えられ、すべてが解決せられる。イエ
ス・キリストの道を歩むことが出来る。それが事実である。信仰生活の基礎事実である。
 極端に言えば、人生においては、キリスト、すなわち神と我との間の関係の外に絶対なものはない。永遠のも
のはない。その解決は死の解決である。されば、神と交わる、すなわち祈祷の外に生活の本質はないのである。
人生は祈祷の戦場である。
 かかる基礎事実に立って、初めて国を愛し、人を愛し、国のために、隣人のために、生命を捧げることが出来
るのである。
 祈祷の人こそ、無意識に神によって動き、神のごとく愛に生き、無欲になり、柔和になり、心清く、正義に強
く生き得るのである。
 私は、もっともっと祈祷深くなり、キリストのお足跡を慕って生きて行きたく願っている。私の信仰生活の基
礎が、世に喜ばれずとも、祈祷のうちにのみ、真実でありたいと願っているものである。
                                          (年 月 日 不 詳)










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