キ リ ス ト 者 と は
ルカ二・一〜一二
ヨハネ一七・二〇以下
キリスト者とは、神に召されて、イエス・キリストの十字架の贖いによって救われ、イエス・キリストのもの
にせられた者である。キリスト者は神のために生れ、神のために生き、神のためにすべてを捧げて、神のために
死ぬ者であって、何事も神中心に生きる者でなければならない。
神の名を呼び、神の教会に出入し、信仰を持っているごとくであっても、それが、自己のために利益するの方
法、手段、利用、方便であったならば、どんなに立派に見ゆる人格であっても、人のために神が存在するのであ
って、全く正反対の結果になっているのである。
キリスト者として、この戦乱の時局下に生き、混沌たる社会情勢下に生活をしている私たち実業界にある者に
とって、肉につける自分の生活と家庭を保ち、国家の要請に応(こた)え、忠誠を尽しつつ、その根本において、神のた
めに生き、神に仕え、神のためにすべてを捧げ尽さんと信仰生活をささえられて行くときに、すなわち、肉の生
活を持っており、社会生活の一員として、国民の一人としておりながら、絶対者なる主なるイエス・キリストに
忠実ならんと願っている信仰生活の一体不離の心情において、自分の決した心の思い、自分の仕事、自分の行動
が、神のためのものか、自分のためのものか、すなわち自分の安全、自分の生活、自分の利益のためのものか、
をハッキリ知ることは非常に大切な事であり、そこに信仰生活の実情があるといわねばならないのである。
神の御旨(みむね)であると確く信ぜしめられる思いと行動が自己を占領するにあらざれば、神が味方し給うという事を
確信するにあらざれば、到底、力ある信仰生活は出来ない。この神の御旨はいかにして、わが心の中に把握する
か。今、国民は天佑神助を口にする者が多い。日本は神の国だから勝つと熱狂しているときに、キリスト者もま
た自分の心の思いに、また、生活に、真の神を信じ、そのために生き、愛する日本を真に神の国となす事を日夜
祈っている者として、このことこそ神の御意(みこころ)である、これこそ神の計画である、これこそ神に属(つ)ける思いであ
る、これこそ聖霊の示しである、イエス・キリストの啓示である、この絶対命令であるというものは何であるか。
そのためには全身全霊を尽くして悔いない、否そのために我は生甲斐(いきがい)あり、我は生活しているのであるという確
信が与えられなければならぬ。
先日、矢内原先生の短い言葉の中に教えられたことがあるので、皆様と深く思いを致してみたいと思います。
神の御意は、先ず、わが良心に畏怖(いふ)を感じ、厳粛なものが圧倒的に迫ることであります。絶対者の前に、有限
なる我が立たせられて感ずる畏怖と弱さであります。わが心が逃げることの出来ぬ支配を感じ、絶対命令を感ず
ることであります。この事柄に処する自己の良心の前に、イエス・キリストの厳然たる実在を感ずる事でありま
す。彼の前に負債を痛切に感じ、そのことのために処さなけれは、申訳なさと罪をヒシヒシと感ずるとき、神の
御意は我が心の中に迫っているのであり、しかもその事柄に処するときに、イエス・キリストが味方し期待し助
力して下さる、保護して下さる、という思いが祈りの間に答えられて来るのであります。
初めは見当もつかなかった事が、キット明瞭な確信となって来る。祈りが激しく熱烈になってくる。目に見ゆ
る生活の関係の不安や焦慮を越えて、我と共に陣頭にキリスト御自身が立って下さる。そして、イエス・キリス
トの心がわが心に流れて来、イエス・キリストと同じ質の思いが自己の心に満ちて来、イエス・キリストの生命
が自分の心に移植せられるのである。キリストわが内にありて生き、わが生きるはイエス・キリストのためなる
事が確固不動となるのである。
第二は、神の御意は単純素直な真理であり、決して利益や欲望や権勢や時流に左右せられない。そこから出て
来ないものであります。便宜や妥協を許さない、清らかな泉から湧き出てくる清い水のごとく、幼児のごとき単
純な心の思いに示されるものであって、複難なものでない。純粋なものであり、密室の祈りに、孤独な祈りに、
自然からの啓示に、砕けた霊と思いに満たされたときに明らかに示されるものである。
第三は、かくて我が思いの中に示されたと確信された事であっても、時の経過と共に段々と消えて行くもの
は、いかに強く感じた事であっても神の御意ではない。神のみ心はわが心に常に緊張の度を加えて行く。負債と
努力と祈りを加えて行くものであり、雑物が取り去られて、純乎として育って行く。おのずから計画が示され、
確実なものになって行くのである。
第四に、かかることは、我と神との間にのみ関係のあることであって、初めは他人にあかし、相談するほどに
世俗的に具体化しているものでなく、自分一箇の問題として、秘かに父なる神とキリスト・イエスの前にのみ、
慎しみをもって日を過して行く中に、いつの問にか準備せられて、あるいは解決の道が与えられて、それが成就
する道が客観的に開かれて行くものである事である。
必ず、なくてかなわぬものの用意や人や都合が備えられて行くものであり、どうしてもそこに働き給う御手を
信じ、それに従わずにはおれぬことになるのである。多くの場合に困難と試練が伴うのであるが、人の思いをも
ってこれを中止することが出来ず、やがておのずからその道が開かれることを経験する。
以上のごとき経験を総合して、これを信仰によりて生活しているというのである。聖霊の導きを受け、神の御
意(みこころ)を行うという事が出来るのであると思う。
我らは「神の御意なり」と単に主観的に熱烈に強い意欲をもっただけでは、信仰的に神につけるものではな
い。往々にして、自己中心的な欲望を粉飾して、ひとり勝手に 「神の御意なり」と思って、おのれも人も欺く結
果となり、危険に陥ってしまうことがあるのである。
国が神の意思として互いに争っているこの戦乱の中にあって、どの国が神の御意にかなっているのであろう
か。やはり同じ観点に立って祖国のために憂い祈り、そこに示されてみ旨を叫ぶ者は預言者である。
キリスト者は一人ひとり小さな預言者でなければならない。叫ばずとも生活せねばならぬキリスト者が国民の
中にあって、その意味で本当の指導者でなければならない。教会が国の柱であり、キリスト教信仰が道義の根で
あるということの根拠は、教会が神の御意を示し行うものであって、初めていわれることである。礼拝は、神の
御意の示されるものでなければならないのは、そのためである。眞の忠君愛国の道は礼拝において示されると確
信します。
(年 月 日 不 詳)
