西村久蔵における義なる愛
 
                 宮 崎  豊 文
 
  
 
 先生の性格は、その父と母とから、両者のよい処ばかりを継承して構成されていた。父君の謹直な几帳面さ
と、母堂の温かな思いやりの心とがそれである。更に先生の信仰は、高倉徳太郎と小野村林蔵の二人の恩師から受け継がれ、それが先生の三十八年に亘(わた)る信仰生活の骨格をなしていると信ずる。即ち高倉ほどファンダメンタル(基本的)という言葉を口にした神学者はなく、小野村はどパイティ(敬虔(けいけん))という言葉を好んで用いた牧師はなかった。我々はわが西村久蔵において、両者の神学的なるものと、敬虔なるものとの混血児を見る思いがする。これを一言で掩(おう)えば、先生の信仰と生活の中核をなすものは、終始「義なる愛」であったと申して過言ではないであろう。その発端は、先生十八歳の青春の頃、始めて一夜、高倉の話を聞き、十字架の愛に触発されて、寝もやらず、パスカルの深夜の体験にも似た回心を迫られ、その翌々日の聖日に受洗したという。十字架の義なる愛に感泣した青年西村の姿を髣髴(ほうふつ)せしめられるではないか。
 
 更に我々は「伝道は人なり」の感を深うする。先生は言葉のみの人ではなかった。義なる愛の実践者であっ
た。彼は右の手のなすところを左の手に知らさず、幾夜涙をもって悲しめる者に慰めの手紙を認め、乏しき者に
金品を贈って之を力づけたこと幾度ならんか。彼は口先だけの儀礼的な御挨拶はうそにも言える人ではなかっ た。マクルーハンは「伝達媒介そのものがメッセージである」と主張する。余は媒介によるメッセージというよりもむしろ媒介そのものがメッセージだと信ずる。その意味で伝道は人なのである。言(ことば)肉体となりて我らのうちに宿るという言の受肉の原理は、また我々の証(あかし)にも適応さるべきである。わが西村久蔵の一挙手一投足がメッセージそのものであった。ここに信仰と倫理の一体感が存するのである。
 
 
一九八〇年七月
 
              (日本基督教団 葉山教会牧師)


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