恩 寵 の 回 顧
私は昨年我等の教会北一条教会の青年会の修養会で「恩寵を顧みて」という題で懇談をいたしましたが、今年
も又「恩寵の回顧」という同じ題旨でお話をする様に小野村先生からお話がありました。それで昨年に引続いて
の意味もあり、又明晩お話する「信仰生活の在り方」という事にも関連して、母教会の気安さと諸君が私を理解
していて下さる為に何を申しても許して下さるものと信じて始めに読んだ聖書ピリピ書の第三章の十二、三節、
「われ既に取れり、既に全うせられたりというに非ず、唯これを捉えんとて追求む。キリストは之を得させんと
て我を捉え給えり、兄弟よ、われは既に捉えたりと思わず、唯この一事を務む。即ち、後のものを忘れ、前のも
のに向いて励み、標準を指して進み、神のキリスト・イエスによりて上に召し給う召に拘る褒美を得んとて之を
追求む」 の聖句に励まされてお話をいたします。
大正四年、私が十八歳の時それは札幌第一中学校四年生の時、小笠原さん宅の求道者会に導きを受けて出席し
て居りました。段々に、主イエス・キリストの御恵を受けつつその年の初冬の、十一月六日の霙降る晩、只三人
の求道者会の淋しい集りに列した時、高倉徳太郎先生の十字架上のキリストのお話を聞いている中に私の全身全
霊が全く大きな自己の罪とそれを許し給うキリスト・イエスの愛に圧倒されて、其夜悔改めを体験し、其翌々日
の聖日に無理にも願出で、洗礼を受けたことは昨年中上げたのでありましたが、その日から私の辿々しい信仰の
歩みは始められたのであります。けれども私の人格が急に輝いても来ず、学力が他人の驚く様な秀才にもなら
ず、平凡な成績で大正六年春三月第一中学校を卒業したのであります。そして七月には仙台の二高を受験して見
事失敗し、故郷北海道にはさすがに恥ずかしくて帰れずに、東京の親戚の家に寄遇して所謂鳥打帽(ハンティン
グ) の受験生生活に入ったのであります。その年も暮れる頃、私は初めて父の生れ故郷の四国の讃岐国(香川
県) の高松に居った祖父西村真明の所に正月の休みに行きました。一寸ここで祖父のことを説明せねばなりませ
んが、祖父の西村英明ほ生まれは但馬国村岡の郷士で明治維新前後勤王の志と学問に精進する為に当時令名を全
国にうたわれた勤王学者広瀬淡窓先生の塾に入りその長を勤め、西園寺公望公、清浦子爵等と同じ系統に属し
て、昔の政友会に大きい力をもって居り、香川県知事は赴任する毎に必ず祖父を訪問したのでした。祖父の八番
町の屋敷は寄附同様にして高松市の日本赤十字病院になって居り、決して金持ではありませんでしたが、八十四
歳で死ぬまで自給自足の出来た人で、先覚者として、風流人として、世間に通っておりました。
私がこの祖父の家に着いた日は丁度十二月二十二日でしたが、冬至であったので座敷の床の間には孔子の像が
掛けてあったのを覚えて居ります。祖父は全く儒教をもって身を修めその礼儀作法のやかましい事、絶対にあぐ
らをかくなどということは許しませんでした。路を歩くのも真中を歩いて軒下を歩まず、角を曲るときも中央か
ら曲るという風で、厳格でした。彼は「鬼神は敬して之れを遠ざく」と申して、宗教は悪いものではないが、自
分にとっては愚かなものと思い信ぜず、常に居間の小さい床には「烏はカアカア雀はチュウチュウ人ハ孝々」と
いう軸をかけて「久や、これでよいのじゃ」と笑って居りました。そして漢学の本を見台に載せて、勉強を続け
て居りました。一日に二食、煙草も喫まず酒も客の家で二、三口を礼儀とする位で家では飲みませんでした。宗
教ほ葬式の時世間並に頼めばよろしい、平素は佛閣でも神社でも前を通る時はお辞儀をして敬しておればよい、
と申しておったものであります。
私はキリスト教を信じていることが祖父に知れると大変でしたから黙っており、父も隠しておれと申しており
ました。私はキリストを信じて丁度三年目でしたから教会が壊しくて仕方がありません。十二月二十五日の来た
時、どうかしてクリスマスに行きたくて、それで夕食を早目に済すと、外に散歩して栗林公園に行って来ると告
げて、人に聞き聞き午後五時からの高松教会のクリスマスに出ました。そして約一時間位祈りや讃美歌や祝会の
喜びに満たされて、家に帰って来た時は七時すぎでしたから祖父に叱られました。知らない土地で日の暮れるま
で外に居るものでない、何処に行っておったか、と申すのです。私ほ色々とゴマ化して、公園の山に登っておっ
たので遅くなったなど申しました。その翌々日祖父から勧められて汽車賃を貰って讃岐の有名な琴平神社を見に
行きました。家に帰った時もう日が暮れて居りましたが何となく家の中の空気に険しいもののあるのを感じまし
た。はたせるかな、夕食を終わると直ぐ祖父の室に来る様に言われて参りますと、祖父ほ寒い冬の夜にも拘らず
床の間を背に厳然として座り、前に出ろと申します。丁度時代劇の昔もさもありなんという姿です。何事かと思
い迷いつつ固くなって座っておりますと、鋭い声で 「お前は今日琴平神社に参詣したのか見物したのか」と聞き
ました。私は見物がてら参詣しましたと申しますや否や大喝一声「参詣など嘘(うそ)を申せ、見物に参ったのが本心で
あろう。ここに歴きとした証拠がある」 「お前ほ何人に断ってヤソを信じたか、西村家にとり、祖先の方々に対
し実に重大なる問題である。事によっては只では済まさぬ」と傍に両刀あらばこれをば引き寄せん許りの身構え
です。私は度胆を抜かれ後に飛退って平身低頭せぬ訳には行きませんでした。「これを見よ」といって投げられ
た端書は東京の富士見町教会から私の寄寓先に宛てたものを丁寧にも符箋付きで宿から回送されて来たものでし
た。これでスッカリ私のキリスト教への入信が露見して最早一言の弁解も要しません。只深く心中に決意を促さ
れる何物かが勃発して来ました。私の予期しない不用意の時に、私の信仰の試錬がもっとも手強い、学力も識見
も、力も人物も高い肉身の祖父を通して降るが如く攻撃の矢が頭から浴せられたのです。キリスト教が国体に反
する事、キリスト教が家を分裂に導く事、キリスト教が祖国の秩序を無くすこと、キリスト教の信仰をもっては
世に立つ事の難しいこと、キリスト教が若い者の心を乱すこと、たとえ教は正当の如くであっても、人情風俗、
歴史の異る日本には所詮行われぬ事、一体全体宗教信仰は弱いもの愚かなる者を善導する方便であって迷信で世
を害するもの多く、御利益を頼む馬鹿者の依りどころなる事、見識ある者の頼るべきものならざる事、その中で
もキリスト教は皇室と絶対に合わない、勤王の家である我西村家には一歩も踏み入れさせるべきものではない。
昔ならば一刀両断にすべき不届者である。今日改宗せざれば七世迄の勘当を申渡す。汝の顔を見るも汚らわし
い。楽しい正月を汝と迎えんと思ったが、今は汝に対し希望を失った。汝は西村家の者ではない。これを許した
汝の父も同罪である。と二時間、三時間罵声をもっ大声叱咤し、或は順々と説去り説来り遂に声も枯れて来る程
でありました。けれども私は一語も述べず、只涙が両眼から流れて畳に滴り落つるのみで、石の如くに黙りこく
って居らざるを得ませんでした。如何にしたらよいか、と思うよりも、祖父の怒りに籠る真実と、キリスト・イ
エスが我を愛し給う真実とに挟まれて、答える術がなかったのでありました。祖父は最後に中腰になって「斯く
の如く汝の信ずる神をヤソの神を罵ったのである。もしも汝の信ずる神、キリストが生きているというならこの
悪口をいう吾が口が曲る筈である。吾は最後に汝の神に痰を吐きかけてやる」と懐から紙を出して、両手に支え
て、カープー、と痰を吐きかけた時の、その真剣な場面は、今も尚マザマザと肌を寒うして思出します。遂に祖
父は疲労して、「明朝早く東京に帰れ」ときびしく申渡して寝室に入りましたので、私ほ涙にぬれた顔をシホシ
ホと二階に上ったけれども寝られません。寒いので床に入りつつ祈りに祈ったのです。私の心に浮んだのは「人
の仇ほその家の者なるべし。我よりも父また母を愛する者ほ我に相応しからず。生命を得る者は之を失い、我が
為に生命を失う者はこれを得べし」 (マタイ伝十章、三十六−三十九節)の聖言でありました。「汝、我が名の
故に凡ての人に憎まれん、然れども終りまで耐え忍ぶ者は救わるべし」と云うイエスの御声でした。一晩中或は
声を出して或は冥想して神に祈った時に私の決心は決まって「イエス・キリストに従おう、その為には己が十字
架を負うて彼に従う他はない」という事でした。トロッとして夜が明けた時に、今も忘れぬのは、下から女中代
りに御飯やお掃除などしてくれていた、近所のおばさんが、「こぼんちゃんこぼんちゃんお祖父さまに謝らっし
ゃいませ。お祖父さまは正しい方やさかえな、どうしても信仰せにゃならんなら、私と同じ日蓮様ならやかま
しゅう仰っしゃられますまいに」といってくれたのでした。「有難う」といって私は朝九時出帆の連絡船で帰る
つもりで荷物の信玄袋に縄をかけ、東京に土産のお盆を買いに、公園に出かけ、帰ると祖父の室に行って、旅費
を貰うつもりで障子を開けて入りました。すると祖父は昨日同様に座らせて、も一度言葉を繰返しますが、昨夜
程の力を感ずることが出来ません。只切なる愛情を覚えるのみです。所が八時になっても八時半になっても話を
止めません、とうとう九時が来ました。船は出帆したに違いありません。十時も過ぎて、正午近くになると台所
に行って飯を食え、と言い渡され、これはどうした事か、と思いました。かくて午後も夜も過ぎ、帰らずに居り
ました。翌日は炬燵に入って終日祖父は私に対し道徳や倫理を儒教流に質問し、キリスト教の考え方を突込んで
来ます。斯くて、正月の七日迄、十日間、毎日毎夜、暇さえあれば、祖父はキリスト教について質問しました。
若冠二十歳の私が僅か三ヵ年間の信仰生活で聖書の知識も薄弱なのに必ず答え得られたのは何であるか。マルコ
伝第十三章十節十一節にあるキリスト・イエスの聖言でありました。「斯くて福音は先づもろもろの国人に宣伝
えらるべし。人々汝らを曳きて付さんとき、何を言わんと預め思い煩うな、唯その時授けらるることを言え、こ
れ言う者は汝等に非ず聖霊なり」と。私は固く聖霊の力を信ずる者であります。
ヨハネ伝第十四章二十六節に「助主即ち我が名によりて父の遣し給う聖霊は汝らに万のことを教え又凡て我が
汝らに言いし事を思い出さしむべし」とありますが、事実私がどんな事でも答えられたのは、高倉先生の説教を
礼拝で三年間欠かさずに聞いたおかげであります。礼拝に出席するということはクリスチャンの信仰の骨組を造
るもので、クリスチャンの智恵即ち哲学となることを深く経験しました。祖父は最後に私に「お前はそんな智識
をどこから誰から得たか」と聞きましたので「ハイ、それはバイブルと高倉先生です」と申しますと「フーム、
そのヤソ教の坊主は一筋縄ではゆけぬ奴じゃ」と言って「それでお前にいっておくが皇室の事で間違いなくばヤ
ソを信じてもよい。くれぐれも天皇様を忘れぬ様に」と云う条件付で、私はヤソ信仰を許して貰い、正月中旬ま
で楽しい思いで過し祖父もそれからは私のクリスチャンたる事を皆に誇り、西村さんの孫さんがヤソになった、
といって、高松や岡山や倉敷の祖父の関係深い土地のクリスチャン、特に大原孫右衛門氏や、林源十郎氏の如き
立派な方々から祝福され、記念として石井十次先生の記念図書を頂いたりしたことでした。特に大原氏の夫人は
私を前にして涙を流して感謝され、神の奇すしき御(み)業を讃美された印象ほ終生忘れることが出来ません。
其の後八年振りで、二十七歳の時再び高松を正月に訪れたが、祖父は元旦の早天祈祷会に五時に間に合う様に
私の寝室に起こしに来てくれました。私は大いに感謝し、高松で教会の祈祷会に出席し、六時頃まだ薄暗いとき
に帰ろうと電車路を歩いていると、後から屋島行きの始発電車が走って来ます。それでフト屋島の上で祈りたく
なって、これに飛び乗り屋島で下車し独りトボトボと屋島に登りました。丁度円山位の小山です。頂上に登りつ
めた時、あの瀬戸内海の静かな朝の景色、帆船の姿、島々の影、身も心も澄んだ様で、清い思いに満たされ、松
林の中の切り株に腰かけて、父なる神と、イエス・キリストの御恩寵八年昔の自分と今の自分の変化、八年前の
祖父と今の祖父、罪深き私が、かくも主の十字架の贖いに与かる忝けなさ、天地の創造主なる神の偉大と神恩を
思って熱心に祈っておりますと、私はいい知れぬ歓喜に胸が溢れて来ました。深い感動が五体に波打って来まし
た。両眼からは止め度なく涙が流れて頻を伝い、遂に其場に脆まずいて心の底から湧き上る懺悔と感謝に烈しく
迫られ、何物をもっても代えることの出来ない歓びが私を包みました。生けるキリスト・イエスを身近に感じ自
分の生涯も、生命も、皆彼の為にあることを強く自覚させられ、主よ主よ、と呼ぶ外ありませんでした。折しも
屋島寺の太鼓が、ドンドンドンドンと静かに聞こえて来た時に吾に帰りました。生涯忘れることの出来ない、正
月元日の清い朝を与えられた次第であります。これを法悦というか聖霊経験というか、生けるキリストの御業と
申すか知りませんけれども、私の青年時代の一つの大きなポイントとなりました。
以上は具体的な私の生涯の事実を通しての恩寵の回顧であります。私は肉身の祖父との信仰の闘いに克ちまし
た。然しながら、太平洋戦争に於て祖国日本の誤りに対して、其時、完全に闘うだけの信仰が出来ていなかった
事を度々告白しなければなりません。私の五体には勤王の血が流れ、私の心には祖父の心、父の心が影響して居
り、その事はいつの間にか、祖国を愛する途と、世俗に靡く途とが混乱し、誤り進む祖国の為に、十字架を高く
かかげて、死を賭しても真理の言、戦争が神に反すること、キリストの愛に適わぬことを、叫ばなければならな
かったのです。「汝ら罪と闘いて未だ血を流すまで抵抗(さから)いしことなし」、まことに主に対して慙愧(ぎんき)に耐えません。
私は固く決心して居ります。最早私の生涯は一度死んだものであり、今新しく生くるは、私の為に再び十字架
につき給うた、キリスト・イエスの為であります。「平和日本の建設」 「無抵抗日本の力」も総ては主の兄弟達
が同胞の為の贖いとなる外はないのであります。己が十字架を負うてキリスト・イエスに従う外はないのであり
ます。
満洲で日本の暴虐を贖う為に死んだ七人のクリスチャンの足跡を平野先生に聞いた時に、私達もまたかかる生
涯を覚悟して信仰のまことに生きねばならぬと思いました。明日は引続いて「信仰の在り方」としてお話しいた
したく思います。
(一九四九年八月一日、野幌に開かれた青年会修養会にて)