信 仰 の 在 り 方
 
 信仰は元より自分と父なる神と其独子なるイエス・キリストの間に与えられた御恩寵であります。それ故に先
ず自己の信仰のハッキリしたところから信仰生活が営まれるのであります。然し又自分独りで暮しているのでは
ないから信仰生活はそのま生きている社会と社会生活即ち其家庭に、その環境に、その民族に、その国に、又こ
の世界に、深い関係があるのであって単的にいえば敗戦日本に日本人として日本青年としての信仰生活の在り方
が必然的に営まれて居らなけれはなりません。信仰生活は決して修道院の生活の様に社会から離れ、これを傍観
しながら、独自の生存をつづけて行くものではありません。
 私達は皆キリストに捉えられ、キリスト・イエスを信じて信仰生活をしているのですから、誰もその信仰の方
向は同一であり、その目的も同一であります。けれどもその人その人によって、信仰の理解に於て、信仰の進歩
に於ては、其場が同一ではありません。それ故に、私達は自分の信仰によって自ら判断した信仰生活があるので
あって、ただいたずらに他人の真似をしたり、形式のみを主にして、謙遜を失ったりする無意味な行動があって
 
はならないのであります。それはカソリックであります。
 基督者の信仰に三つの誤った型があります。その点を私達はよく弁えて居なければなりません。第一は、自分
はいつ迄も不完全であって常に悔改めの連続をもってこの世を終るのが信仰生活であるとしている者、即ちいつ
迄も不完全で完全な救いを求めて不安の日を送るものであるとする者。第二はその反対で救は凡て神とキリスト
の側にあるのであるから、それを信じて居るだけで他の一切の自分の行為や精神は不必要である。我らの救いは
完全で救いから洩れるものではない。絶対の安心を持つべきで少しでも不安があるのは不信仰であるというもの
。第三は救いは神に於て完全であるが、全く我が身が潔められる迄は不安の日が続くのであって、全く清くなる
迄努力して、その潔きに至って救いは全くなるとするものである。以上三つの信仰ほ、決して聖書に示されてい
る信仰の在り方ではありません。もう一度ピリピ書第三章九節−十五節までを読んで見るならば、真のクリスチ
ャンという者は神の救いの聖業の完全なることを絶対に信ずるものである。其点不安は何もないけれども、同時
に自己の不完全さを一層深く自覚し己が内にキリストの形成る迄、神の完全な救いを己が内に実現する様に努力
してやまないもの「唯この一事を務む、即ち後のものを忘れ、前のものに向いて励み、標準を指して進み、神の
キリスト・イエスに由りて上に召し給う召にかかわる褒美を得んとて、之れを追求む」るのである。今我らは完
全に清められているのでもなく、清められる必要がないのでもなく、何時清められるか不明であると言うのでは
なく、信仰に於て完全なる平安を持ちつつ、現実に於ては懼れおののき、おのが救いを完うせんとしている事が、
クリスチャンの信仰であります。ルッターの申しました様に「クリスチャンは出来上った者ではなく、出来つつ
 
あるものである」というのが本当の姿であります。           
 即ち、神の完全な救いに対して、全き信頼を持ちつつ不完全なる自己の肉を殺してこれを打ちたたきながら猛
進して行くその全過程に於て、クリスチャンの信仰生活と全き信仰の人格が成り立つのであります。キリストの
救いに対して、徹底的な信頼を持たないものは不信仰であり、神は義とし給わない。然しこれを信じたからとい
って、既に自己がその凡てを獲得した様に思って自己の努力をしないものは、神を救いの方便としているもの
で、真の信仰ではない。神を絶対に信じつつ、今日も明日も、血みどろの信仰の闘いをもって前進する者がキリ
スト者であります。
 青年諸君、我らは本物の信仰に生きなければならない。オリンピック選手が決勝点に向かう時の心の状態を思
ってみることが出来るでしょう。我らは信仰の馳場をそれ以上の真剣さ、緊張、挫けない勇気と意気とをもって
力強く走っているのでなければなりません。昨日のことは忘れて明日の行程に全速力をもってなし得る限りを為
して走らねばならない。即ち、走り終った過去が何であれ忘れて了って、自体を前に伸し足を高くあげて突進す
ることであります。自分の誇りも、罪も、受けた迫害も、も早、いつ迄も気にしたり顧慮したりすることなく、
只前進あるのみという生活であります。いつの祈りにも悔改めは大切であるが、それ以上に罪赦されて雄々しく
立上って、使命感に生きるのがクリスチャンであります。自分の肉の誇りや、此世の享楽を捨て切らずして悩む
果て強がりをするのも愚劣であるし、自分の過去の罪や過失を思ってメソメソと意気銷沈して戦々恟々(きょうきょう)、自己反省も結構だが何時も懺悔型の人間、熱いか寒いか分らないお天気の七面鳥の様な人間でも困る。キリスト者の態
 
度はそんなものであってはならない。私は諸君が、神に捉えられ、キリストに選ばれた選手たるの自覚をもって
生きて貰いたいのであります。信仰の闘いを雄々しく闘うキリスト者であって欲しい。キリスト者は神に向って
は懼れ戦き、消極的の事もあるがこの世と人に対しては常に積極的でなければならない。私は信仰生活の原理的
のことを述べたいのであるけれども話を一歩現実の問題に進めて行きたいと思います。
 この八月十五日は日本完敗の日であります。昭和二十年八月十五日から丁度足かけ五年目満四年の歳月が閲せ
られたのである。而も相変らず、米国の居候であり、八千万人の俘虜生活であり、米ソの間に挟まれた、サンド
ウィッチ生活であります。而も内に蔓延(はびこ)るものはニヒリズムの廃頽思想と、共産主義の唯物思想であって、共に
神なきを誇りとする思想であります。全くクリスチャンの信仰と正反対の者が祖国に蔓延(はびこ)つていると申して過言
ではありません。「我はしばしば汝らに告げ、今また涙を流して告ぐる如く、キリストの十字架に敵して歩む者
多ければなり。彼らの終りは滅亡(ほろび)なり、己が腹を神となし、己が恥を光栄となし、ただ地の事のみを念う」とい
うパウロの言葉こそ、ピッタリと今の日本を指して我等に示して居るのではないでしょうか。「兄弟よ、汝ら諸(もろ)
(とも)に我に傚う者となれ、且つ汝らの模範となる我等に従いて歩む者を視よ」とパウロは私達に迫っていっている
のであります。ニーバー教授も申されている様に、少くとも共産主義者の真面目なる人達は決して自分の事のみ
を考えていない。彼等の社会原理と経済原理と政治原理に立って、あくまでも、社会の不正不義と、社会の困窮
者、働く者の味方として、所謂闘争をもって共存共栄の社会を現出せんとしている努力と生活は愚かでも光の子
なのであります。然らば、我等キリスト者は光の子として彼等より以上の使命と責任を日本人として、この惨め
 
な祖国に生きる者として持たない筈はない訳である。神の教会は福音を宜べ伝える所であると共に「己れの如く
その隣を愛する」その愛の実践の社会でなければならない。社会のセンターとして世の重荷と十字架を負うべき
ものが、我等の群でなければならない。我等は政治的に、経済的に、世に活動すべきものではないけれども、少
なくも同胞の堕落、腐敗、道義の廃頽と悲惨と不義に対しては、神につける活動があるべき筈であり、特に、平
和問題に関して、戦争放棄に対して、少くとも再び、日本民族を過(あやま)たしめぬためには、血を流し死をもってもこ
れを救うべき大責任を持っていると信ずるのであります。全く新しい日本を造るために、平和な日本を生む為
に、平和な世界となる為に、どれだけ真剣な研究と、自己の見識が養われているか。その為に、自分の生涯の設
計を如何に考えているか、平和な日本、無抵抗の真理をもって日本を守り、道徳再武装(M・R・A)を本当に
祖国のものにするのには如何に活動しなければならないか。その指導者ほクリスチャン以外にない事を果して自
覚して居るか。ここに会する諸君の全部が伝道者になっても教育者になっても、指導者になっても、とてもとて
も日本を救う実力とはならぬ位の大問題であります。百年二百年の歴史の彼方に於て、成就すべき目標なのであ
ります。然し、この目標は成就しなければならない。大いなるスケール、神の計画として成就しなけれはならな
いのであります。「全日本をキリストヘ」と云うのが五ヵ年計画の伝道の目標であり「天の門」 は日本に開かれ
たのである(何十万の犠性と原子爆弾に由って)キリスト者こそこの責任者である。絶対の正直、純潔、愛、無
私、この四つのものがオックスフォード・ムヴメソトとして米国フィラデルフィヤの牧師フランク・ブックマン
氏によって一九二一年に提唱されて以来、今日はM・R・A運動として第二次世界大戦後大い強調され、スイス
 
に開かれているのであるが、今の日本にはこれを受けるだけの精神的霊的な準備は何もないのである。もし、こ
れに呼応出来るとする者ならば、不完全ながら我等キリスト教会のみであると私は断言します。日本に欠けてい
るもの、教育勅語にも無かったもの、神道にも仏教にも欠けているもの、そして今の社会に全く無いもの、それ
は正直、純潔、愛、無私、の四つであります。これは単なる徳目ではない。所謂道徳でもない。それは神に交わ
る事の出来る、神中心の社会にのみ通用する。キリストの教会にのみ現存する無上の価値であります。天に属す
る、美しい霊の結ぶ所の実であります。悪魔とその世界、肉慾と悪の世界には咲かない花であり、実でありま
す。今の世は正直者は馬鹿を見、正直は決して通用しない。今の日本の巷には純潔は無い。青年男女の貞操観
念、酒や煙草に対する潔癖は日本のピュリータン的なる教会性格から消えつつあります。金銭上の間違いや、利
を貪ること 涜職は茶飯事であります。清廉潔白という日本文字は辞書から抜けて泥に塗れている。肉的の愛エロ
スは、肉体文学となり、愛なき世界、虚無、ニヒリズムは文学の根底に横たわっている。神の愛、キリストの愛
(アガペー)購罪愛は日本の何処にあるか。戦災と引揚げとに苛まれた同胞を己の如くその隣りを愛することが
行われているか。徒らに徒党を組んで闘争をもって愛の運動となっているのが現状ではないか。私無き行動、私
無き生活が成り立つか。自分が生きて行くのにやっとではないかと弁解している。而も酒や淫楽に消え去る金は
何百億円を数えている。安本計劃は決して進まない。不平不満は自暴自棄の世相を示している。かかる日本、祖
先の国を見て、かつてエルサレムの滅亡を予見して涙を流し給いしイエス・キリストを信ずる我等、キリスト
者、若き血に燃ゆる諸君が腸を注ぎ出ださずして可なるやであります。祖国を愛し、キリスト・イエスが我等を
 
愛し給いし如くに隣人を愛することこそ、神の誡としている。我等は果してこのままでよいのでしょうか、日本
のキリスト教会の現状についても、私には意見がある。国際キリスト教大学を初め、ミッション・ボードの活動
に対しても私には憂いがある。頼むべきは只主イエス・キリストと我が愛する北一条教会特に諸君である。六十
年の歴史を持つ我教会の信仰の伝統こそは神の示し給いし正統のものであります。聖書と聖霊の示し給いし信仰
であると信じているのであります。
 諸君、信仰を新たにして戦闘の教会とならねばなりません。祈りに赤々と炎燃ゆる教会とならねばなりませ
ん。毎聖日礼拝に勢揃いして神の言とキリストの恩寵とを頂き、固き信仰をもって、社会の職場に打って出なけ
ればなりません。祈り会に皆顔ばかりでなくその信仰と性格とを識り合い、本当に相愛し相扶け合わねばなりま
せん。男子も女子も一つとなり、希くば信仰の家庭を与えられる位の信仰による一致をもって、その分野にキリ
ストの為に働くものとならねばなりません。
 メソメソと己の罪に泣くよりは、キリストの救いを信じて、信仰の馳場を走り、祖国の救いの為、隣人への愛
の奉仕に残る生涯を捧げねばなりません。これが、信仰生活の在り方であります。我等の夢は大きい。小さい自
己中心の夢は捨てよ。キリストに由る働きに生きよ。これこそ信仰の在り方であります。無防備平和日本を築く
ものはクリスチャンの外には絶対にないのであります。神は我等の祈りを聴き給う。
 諸君、面白おかしく暮しても、たかが五十年の人生、何かあらん、である。永遠の生命なるイエス・キリスト
に生きる道こそ、信仰生活の祝福である。
 
「己が生命を救わんと思う者はこれを失い我が為に己が生命を失うものは之れを得べし」という聖言を我が生
涯とするのが信仰生活であります。
                  (一九四九年八月二日、野幌に開かれた青年会修養会にて)
 
 
 
 

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