活  け  る  神 
 
今からもう三十二年前に私は小樽高商を卒業して第一銀行に就職し、その年の暮に一年志願兵で入営した。単
純な軍隊生活の中に、経済学を勉強して、もう一度京都帝大の経済科の河上筆先生を慕って入学しようと思って
いた私は第一次世界戦争後の日本の青年として、社会運動や労働問題、民主運動に、心動かされていたのであっ
た。不幸にして軍隊に居る中に試験があって、一年を棒に振らなければならなくなり、やむなく当時発足した私
立札幌商業学校一年から五年迄八百人足らずの貧乏学校に教鞭をとるようになり、八百屋の様に何から何まで引
受けて、廿四歳の青年が教壇に立ったのである。只の一ヵ年の月日も人生の分岐点はあるもので、私の家庭内の
出来事は到底京都に行くことの出来ぬ事情となり、学校は私立学校に有り勝ちの戸津校長追出し、乗取り事件が
勃発して、血の気の多い私は学校騒動の渦中に身を投じ法廷で争うこと七ヵ年と云う経験を積む事になり、それ
からこの戦争に至る直前まで、十二年間の中学校の先生に、再び巡り来ない私の青春の情熱を注いだのである。
 私は貧乏で、何一つ満足な設備のない北海道で一番最後に入学試験をして、やっと満員になる、一番質の悪い
 
生徒しか居ない学校と取っ組んだのである。八学級の教室に、朝五人しか授業開始に出て来ない同僚の教師に目
も呉れず、四学級を合併して、軍隊体操で一時間を済ましている間に、八人揃ったことも珍らしい事ではなかっ
た。
一年は夢の如くに過ぎて、二年目の春も遅い五月末の出来事であった。私の家によく遊びに来ていた栗山町の
小谷という子供の突然の死に逢った。その時教育者にとって、人間にとって、一番根本の問題は何であるかとい
う事が観念や理屈でなしに分ったのである。天地の不思議(夜が来て又朝が来るような)以上に自己の存在、即
ち生死の問題こそ、人生の根本問題であり、このことを覆い隠しては只動物的、社会的に生きることの無意義を
深く感じたのである。
 私達は観念的に或は哲学的に、理智に於て神と自己との対決、即ち永遠と我々との問題にどうしても目を塞ぐ
訳にはゆかない。何となれば、人間は、生きているものであり、病の器であり、老ゆるものであり、死ぬもので
あるからである。その有限と無限、絶対と相対の解決は如何に分析し、説明されても、二者の解決にならないも
のである。一尺はどれ位延しても無限という数は出て来ない別の概念であり、絶対と相対とも又そうである。し
かも、有限で相対の人間は無限絶対なるもの、即ち神を考えずしてはおれないのである。パスカルのいう「人間
は考える葦である」六尺に足らぬ身体を持って宇宙の、又字宙以上を極めんとして焦慮しつつ、これを悟らんと
しつつ、明日をも知れぬ生命については何も分かっていないのである。
 東大内科医長柿沼先生の死(一・七〇〇瓦の脳)を知って、私は今更驚いている。去年の初夏私は柿沼内科で
 
自分の高血圧と肥大心臓に就ての診察を受け「先天性高血圧大動脈弁閉塞不全症」という診断を下されたのであ
った。そして「人の1/4程度しか動いていけない、その程度なら天寿を全う出来るけれどもそれ以上活動すると、
直ぐ生命を失う」と注意を受けたのであった。その先生が危機に於て無思慮な学生達に囲まれて急変急死された
のである。全く感慨無量である。ここにおいて、信仰という、神と人間の邂逅の世界を、私は只一つの解決の鍵
としてこれを確信して人生を歩み、若かりし私は、札幌商業学校十二年の教育者生活を悔いないのである。
 信仰の生活に於ては、神は生けるもので、観念化された、静かな、死んだ、意識対象の神ではないのである。
 神の生きて居給う事を私は次の如くに確認しているのである。
 (1) デカルトは「我考える、故に我在り」といった。私達は自己自身を胡魔化し逃避する事は出来ない。
その自己の内的な経験として何人も、神の存在を知っても知らなくても、認めている、という事である。生物学
的にいっても、私は私の両親によってこの世界に生れて来、今現に生きているに相違ない。これを疑う者は、精
神病者ならいざ知らず、あり得ないのである。この私には即ち、独りで決断して独りで行うところのものがあ
る。表面は何であっても、自己のうちには自己の中にある考えを自由に持ち、ある行為を行わんと決断する『我』
がある。これを或は我が魂ともいい、我が霊性、我が存在の足場、である。「一寸の虫にも五分の魂」と人は虫
にさえ感ずるのである。
 他の言葉でいえば、私の父母や、私の周囲の社会とは何の関係もない我があるのである。これは私自身であ
り、私の人格なのである。「人間の基本的人権」という根拠も又ここにある。それは直接に神の前に独り立っ
 
て、見ゆる世界に関係なく、見えない世界に属しているものである。何人も私に自白させたり、圧迫したり出来
ないけれども、永遠の神はその我を見て居られるという事実、罪を犯せば罰し給う人格として神が居り給う。ド
ストエフスキーの「罪と罰」のラスコリニコフが如何に完全犯罪をしても、そのままに看過し給わないのが目に
見えない活ける神である。
 自分の肉体が変遷しても、いつも変らないもの、死をもってこの肉体の動物的生命を断ったとしても、我に人
格ある以上、その責任はいつ迄も消えないで、肉体は朽ちてもそれは朽ちることなしに、自我の中心として残る
ものが自分自身のうちにあるのである。
 即ちその我が中に、かかる説明出来ない事実と経験がある以上、如何に幻想と思っても自己の行為を指導して
いる、決断させている、ある者が存在する限りに於て、自己自身を信ずることは即ち、その我を知り給う神の存
在を信ずること、即ち、この我を知り給う神の存在を信じない訳にはゆかぬし、まして、自己の存在を許し、自
己の生命を保ち、支え給うその神を疑うわけには行かない。宇宙、世界、私の生きているこの場を取り消すこと
は出来ない。この天地、この自然を打ち消す何者も私達は持っていない。神のみ創造者としてその上に君臨し給
うと考えざるを得ないのである。
 (2)それであるからといって、私は神を会得し、その全体を窺い知っているわけではない。有限な我が、無
限の神を認識し得る道理がない。然し私はこの自然界の存在の中で、一番高貴な美しいもの、価値あるものが同
じ人間であり、特に人間に見えない心の作用であり、その価値(文化的価値)が人間の人格であり霊性であり、
 
あらゆる芸術はその一点を如何に表現せんかとしている時、イエスは、「人全世界を得るとも己が生命を損せば
何の益あらんや」と言われた。人間が永遠の存在を望んで止まない生命であるとするならば、神は少くとも、こ
の人間の生命、人間の霊、人間の人格以下である筈がない。神の霊は人間の霊以上でなければならぬ事は明瞭で
ある。何となれば、神は明らかに私達を見逃し給わない、審き給うであろうからである。
 私は宇宙万物に煩わされないあるものを内に持っている。というのは、私の魂を生むために如何なる物質も、
太陽系もこの地球も何も与ってはいない。まして試験管の中で、人間の魂や、人間の人格や、人間の霊を造れる
ものではない。万物は私の霊性を生むためには何の力も持っていないのである。人間が自然の子であることは他
の動物と変りないが、人間のみは現に自然の子以上であって、神をわきまえ知る神の子であるという外はない。
 (3)かかる事に於て人間はいつも霊性の巡礼者であり、人生の探求者である。
 人間は神を慕い求め、我が魂の故郷を求めてやまないのである。
 長かるべき自然の子の人生を短くしても神の子としての探求を血みどろに求めて止まない。そして遂に神の
言、永遠の生命の言にめぐり合うのである。
 聖書を通して人間は人間を求め給う神に対決するのである。
 聖書を通じて我を捕え給うもの、その動因は何であるか。それは愛であるか。人は己の生きている原理を何に
求めているか。それは愛である。愛には色々質の違いがある。肉的なもの(エロス)。人格的のもの(フィリア)
から遂に贖罪的なもの (アガペー) に至るまで、種々雑多である。「愛すればこそ」も「人間失格」も「多情仏
 
心」も「狭き門」も「異邦人」も文学のあらゆる問題は愛なのである。正義といい、自由という、これも愛に外
ならない。自己自身のうちに、人間のうちに、もっとも力強く又生死を決する、根本的な、そして尊貴なものは
愛に外ならない。
 「愛ほ何時迄も絶ゆることなし」 「げに信仰と希望と愛とこの三つのものは限りなく在(のこ)らん、而して其うち最
も大なるは愛なり」 (コリント前書十三章)と記されたことに於て、我が魂は全宇宙に宿り給う神も亦愛なるこ
とを知って、魂は満足し躍るのである。「神は愛なり」その愛は決して人間以下ではあり得ない。至高至聖の愛
であることを信ずる。神の愛は宇宙大であり、愛そのものであるはずである。
 (4) かくて聖霊は私の魂の、谷川の水を慕う如く、渇ける霊を潤おし給うのである。
 何となれば神はその愛を如実に人間の歴史の中に現わし、彼自身をその愛の故に人類に与え給うたことを、聖
書に於て啓示し給うたのである。
 即ち世界人類の紀元元年、一九五二年の昔ユダヤのベツレヘムに神の独子イエス・キリストは人間として生れ
給うたのである。
 彼こそは神の愛子であり、神の心であり、神そのものである。ここに信仰に於て、活ける神を見るのである。
「未だ神を見し者なし、ただ父の懐裡に在す独子の神のみ之を顕し給えり」 ヨハネ第一書一−四節に於てヨハネ
は聞き、見、手触りしもの、と書き初めている事実に照して第四章の七節を読んでみると、私の内なるものは全
き安心をもって疑う事をやめ、之を信ずる外はないのである。
 
 「愛する者よ、われら互に相愛すべし。愛は神より出ず、凡そ愛ある者は神より生れ神を知るなり。愛なき者
は神を知らず、神は愛なればなり。神の愛われらに顕われたり。神はその生み給える独子を世に遣し、我らをし
て彼によりて生命を得しめ給うに困る……」
 かくてイエス・キリストの言と人格と行為即ち、彼の愛を魂が吸いつく様に慕いまつるを得ない。両親より
も、恋人よりも、親友よりも、祖国よりも、あらゆる一切の有限で相対の世界の何者よりも、この有限で相対の
世界と人生とにあって、イエスにある永遠の生命と絶対の愛に没入する活ける切れば血の出る関係に召されるこ
とこそ、信仰なのである。一切のものを捨て、これを塵芥の如くに捨つるパウロのロマ書第八章三十五節以下三
十九節の如き告白を為し得る信仰となるのである。
 (5)此世は消え失せるかも知れない。けれども、私自身が、自己の全存在をかけて、肯くこの信仰による神
とイエス・キリストへの愛は最早、神と宇宙と偕に存在し、その愛によって清められた人間同志の愛も、永遠の
生命として存在するのである。
 かくて今日一日の仕事にも根拠があり、特に人格と相接する愛の業なる教育に於て歓喜がある。
 このニヒルの凡ゆるものを疑っているものの上に、何の教育の意味があろうか。人間の人格は神、活ける神を
信ぜずしては不徹底にしか関係づけられない。
 人は活(い)ける神イエス・キリストに巡り会わず、聖書を知らず、神の言を知らずしては、自己を知ることは出来
ないし、又自己を深く探求し、人間を深く知り、その矛盾に泣き、絶望し、遂に自己自身の霊性と愛の尊貴を知
 
るに至れば、自ずから活ける神を信ぜずには居れぬであろう。そしてその活ける神こそナザレのイエス・キリス
トであることを識るであろう。
                 (一九四五年五月一二日、北海道学芸大学YWCAにて)



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