足 る を 知 る 生 活
足るを知る生活、知足の道という様な事は東洋人のよくいう言葉で、田舎の宿屋の欄間などに額にしてかけて
あります。孔子の第一弟子の顔回は一箪の食一瓢の飲を以て楽しみその中にありとしました。一汁一菜只一つの
托鉢のてごろの碗あれば草を褥にして天蓋を屋根とし、雲月を友として禅僧は瓢々と行衛を定めぬ巡礼の旅を歩
いたのであります。「焚く程は風が持ち来る落葉かな」と一茶は言ったそうであるが、私も東洋人であり日本人
であるから心を打たれるものであります。中学生の時漢文で「富貴も淫すること能わず、卑餞も移す事能わざる
処の者は大丈夫である」と学んだ事があります。裸で生れて来たのだから裸で帰るのだ。人間が寝るのには畳一
畳以上はいらぬ、人間を入れる棺桶は幅二尺長さ六尺で足りる、という様な考えは仏教の中にも所謂悟を開いた
という人々にハッキリしているのだという人もあるでありましょう。
ヨブ記一章二十一節には有名な言葉が書いてある。「ヨブいう我裸にて母の胎を出でたり又裸にて彼処に帰ら
ん、エホバ与えエホバ取り給うエホバの聖名は讃むべきかな。」
伝道の書五章十五節にも「人は母の胎より出で来たりし如くまた裸体にて帰り行くべし、その労苦によりて得
たる物を一つも手にとりて携え行くことを得ざるなり」、旧約時代からのヘブライの宗教にも斯く記されてある
のであってあらゆる宗教に多少ともかかる傾向のあることを知る訳であります。
然しテモテ前書六章六節から八節の「されど足る事を知りて敬虔を守る者は大いなる利益を得るなり、我らは
何をも携えて世に来らず、また何をも携えて世を去ること能わざればなり、ただ衣食あれば足れりとせん」とパ
ウロの申した言葉は多少違っているのであります。どうせ死ぬのだからどうでもよろしい、悟ってみれば慾も得
も金も物も一切が空なるかな、色即是空というのではない。また五節に「また心腐りて真理を離れ敬虔を利益の
道と思う者の争論起るなり」パウロは観念論やその遊戯に陶酔しているのではなく、信仰生活の事実について教
えているのであります。テモテ書にあっては敬虔という言葉を信仰という言葉と同意義に用いて居って、この点
で、テモテ書はパウロの書翰でないという学者さえある程であります。信仰を営利に使用して人から信用を得、
何でも経済的でケチンボで禁欲的で、信仰を利用して利益即ち金を貯めて安全な生活を楽しくしている者があっ
て皆からやかましくいわれているというのであります。心腐って真理から離れなければ出来ないことなのであり
ます。そこで、「されど」といって自分の考えと経験とを述べたのであります。即ち足るを知って信仰の生活を
守る者は真実の利益があるのであります。その利益とほ何であるか、九節十節の如く「されど富まんと欲する者
は誘惑と罠また人を滅亡と沈淪(ちんりん)とに溺らす愚にして害ある各様の慾に陥るなり。それ金を愛するは諸般の悪しき
事の根なり、ある人々これを慕いて信仰より迷い、さまざまの痛をもて自ら己を刺し通せり」というが如き事に
ならないというのであります。キリスト者でキリスト教信仰の故に少し信用が出来て成功すると、つい愚かにも
富むことに慢心し金を愛する者が出て信仰生活から落ち、目のあてられない様な生活になっていった人を私は沢
山に知っています。クリスチャンが金持になったり教団や教会に金や財産が出来るととんでもない悪魔の手に渡
されて行くのであります。
足るを知る生活というのは自分の分別という様な人間中心のものではないのであって神の恵によって与えられ
る生活なのであります。ピリピ書第四章十一節から十三節に。ハウロが「われ窮乏によりて之をいうに非ず、我は
如何なる状に居るとも足ることを学びたればなり。我は卑賎におる道を知り、富におる道を知る。また飽くこと
にも、飢うることにも、富むことにも、乏しき事にも、一切の秘訣を得たり」と強調して居り、十三節には「我
を強くし給う者によりて凡てのこと為し得るなり」ということが、足るを知るという事の結論なのであります。
キリスト者が如何なる境遇にも耐え、これを克服し、超然として感謝を以って喜び溢れる生活の出来るのは、
思想や、観念や、やせ我慢や、迷信ではなく、又自分の意志の力や、生活力ではなくて、与えられし恵による働
きであり、我を強くなし給う即ち生ける主イエス・キリストの恵によって為し得るに至るのである。ということ
が大切な事なのです。儒教や仏教の如き、死せる宗教、教えの道、という様なものにはないのであって、キリス
ト教が生命の宗教であるということの所以でもあります。
キリストに在る者はその所有している物や力量に影響されないのであります。敢えて哲人ディオゲネス (B・
C三二三年) の如く乞食になる必要もないし、アレキサンダー大王になる必要もないのであって、どんな境遇に在
っても同じ心持ちと如何なる場合、たとえ戦場であっても平常心を失わないで生活出来るものでなければなりま
せん。落目になって貧乏になったから恥ずかしくて教会に来られないとか、金が出来、地位が出来て教会に来る
暇もない、などというものはクリスチャンではないのであります。我らはイエス・キリストと共にあるものなら
ば、それで一切が足りるのであって、その他の事で左右される筈がないのであります。「我はわが主キリスト・
イエスを知ることの優れたるために、凡ての物を損なりと思い、彼の為に、既に凡ての物を損せしがこれを塵芥(ちりあくた)
の如く思う」 (ピリピ書三章八節)というパウロの告白の如く足るを知るの秘訣は主キリスト・イエスを知るこ
とによって、心も胸も、生活も、一杯に充たされて、衣食住のことが、余り問題にならないのであります。「汝
らの知らぬ食物あり」とある如く、子供が面白い所に連れて行って貰える喜びで何も彼も忘れてしまう様なもの
であります。又赤児が母の懐に安んじて眠っている様なものであります。
足るを知るの生活は即ちイエス・キリストを知り、彼と共に在る生活であって、それが信仰生活であり、祈り
の生活であります。それは「彼と常に語り、交る生活」であります。私たちは足るを知る生活を与えられんとす
るならば、先ず主イエス・キリストを一層知るために、聖書に親しみ、彼に交ることを許されている祈りの生活
を励まねばならないと思います。
(一九五一年七月四日、札幌北一条教会にて)

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