愛の奉仕としての伝道
 
 
今晩私は愛の奉仕としての伝道という事についての祈りの題目に応じて、お話になるか否か知りませんが感じ
たところを率直に述べて責を果したいと存じます。
 人生の原動力は愛であることは何人も異存のない所です。そして愛は長久までも絶ゆることなしで、感情的に
申しましても、愛の永遠性ということは信じられなければならない根本的な人生の事実であります。それ故に、
「愛は神より出ず、おおよそ愛ある者は神より生れ、神を知るなり」とヨハネは書いて居ります。即ち、愛は永
遠の神の御心であり、神より生れたる作用であります。それ故に真実の愛は神によって確かにせられ、神に支え
られ、神と共に在るものでなければなりません。
 この世の愛は、如何に親子、兄弟、夫婦、恋人、親友、同志であってもそれきりのものであります。私たちの
家庭内の愛し合っている者も一度死という事に於てはその愛は此の世的には断絶してしまうのであります。泣い
ても、騒いでも、絶叫しても、死は永遠の別離であり、一切の闇黒の幕は生ける者と死せる者とをシャット・ア
 
ウトしてしまうのであります。泣き悲しめどもその甲斐なく、一族眷属嘆くともその甲斐あるべからず、であり
ます。
 それは死は罪の価だからであります。死は存在の消滅であり、亡びであります。死の解決即ち、死から永遠の
生命に入るためには、悔改めと、罪の許しがどうしても必要であり、その赦しを経験して初めて真の歓喜を経験
するのであります。その歓喜が即ち福音であり、福音を伝えることが伝道であります。
 若し伝道が此の世的のものであるならば、それは真実でも真理でも知恵でもありません。生命がけで宣べ伝え
るなどということはコケのサタで馬鹿馬鹿しい限りであります。また実際に単なる伝道の効果が或は人を信者に
し、世を救い国を興すとは思われません。
 然し伝道は此の世限りの事業でも仕事でもないのです。これは永遠の世界に関する事業なのです。「是わが福
音にいえる如く神のキリスト・イエスによりて人々の隠れたる事を審き給う日に成るべし」(ロマ書二・一六)。
 人は何人と雖も、活ける神の前に生活して居る事を目が覚めて知る日が来るのです。世の終りに於ては万人が
万人、一人もかくるるところなく審かれるのであります。「即ち律法の命ずる所のその心に録されたるを顕し、
己が良心もこれが証をなして、その念互に或は訴え、或は弁明す」 (ロマ書二・一五)。神の最後の審判のとき
は、表面の一切のものは露出され、我らの良心に鋭い刃が向けられて、何人も罪人たるを免がれないのでありま
 
 
 
 かかる大事を、神の愛は「キリストの血、すべての罪より我らを潔む」という福音を信仰によって私たちに与
えて下さったのであります。それですからこの歓喜を伝えない訳にはゆかないのです。愛する家族に、友人に、
国人に、世界の人たちに、悲しみ、泣き、病み、死を怖れている誰彼に述べないでは、私たちの愛は此世限りの
不真実のものとなってしまうのです。親子の愛も夫婦の愛も、不真実となってしまうのです。それ故に愛の現わ
れとして、福音の伝道は効果があるもないもどんなに悪く思われても誠と忍耐を以って宣べ伝えるのであります
 コリント前書第九章十六節「我福音を宣伝うとも誇るべきところなし、やむを得ざるなり。福音を宣伝えずば
我は禍害なるかな」。
 コリント後書第四章二節「恥ずべき隠れたる事を捨て、悪巧に歩まず、神の言葉を乱さず、真理を顕わして、
神の前に己を凡ての人の良心に薦むるなり」、私たちは愛の奉仕を国家にせねばなりません。政治、経済、社会
事業、何れも奉仕であり、これに携るものは公僕であり、志士、国士、仁者であろう。然し、我らは時には無用
の長物の如く扱われ、又、いやしめられ、毛嫌いされている。然れども私たちキリスト者の社会奉仕、愛の奉仕
は何であるか。「活ける神は、罪ある者を人も国も滅ぼし給うぞ」という信仰によって、日本国民の良心革命を
促す警鐘を打ち鳴らし、その救国の至誠を隣人に至すことである。この神の刃と十字架の旗を高くかざして、悪
魔と世界とに闘うのであります。
 腐った良心、悪魔を喜ばせる唯物思想を以っては、日本国は救われないのです。
 ヨハネ伝第八草四十二節−四十七節に今日の日本や世界がキリスト・イエスを信じないその状と同じ姿がハッ
 
キリ書いてあります。キリスト者の伝道、愛の奉仕は、この良心の奉仕によって日本民族をキリスト教民族にす
ること、それに依って、愛と平和と戦争なき国を来らせるのであります。私たちは肉身を愛し、隣人を愛し、国
家を愛する。然しそれが単に此世的のものならば、それ限りである。真の愛の奉仕をなさんとするならば、イエ
ス・キリストの福音を伝道する外ありません。
 神は私たちの教会と教会員をそのために、日本人の中から選んで、この教会に属せしめ給うたのであります。
 教会の内外のことの一つでもこの愛の奉仕、真実の愛としての伝道、この外に出ずるものはないと存じます。
                               (一九五二年一○月八日、札幌北一条教会にて)


アクロバットファイル