教会形成の決意(感謝と奉仕)
 
                          −受難週の祈会にて−
 
 月曜日以来毎夜私たちはここに集って、否教会に集められて祈りを共にして来ました。今夜はその最後の夜を
迎え、明日の復活節の輝ける希望を既に心に感謝しつつ祈らんとしております。それ故もう一度心を静めて、主
の御受難のことをその最後の段階に於て深く心に感謝せねばなりません。
 使徒信条には、ハッキリと「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り」と書いてあります。
 昨日の日も暮れて、金持ちのアリマタヤのヨセフはピラトに請うて、既に午後三時に呼吸は止り全く死に給う
たイエスの屍を請うて、女たちや弟子たちと、泣く泣く十字架から降して浄い亜麻布に包み、岩に掘ってある自
 分の所有している新しい墓に納め、即ち埋葬したのであります。イエスはここに、「死んで葬られた」 のであり
ます。聖書には明らかに、人間イエスの死を普通の私たちの死と全く同様に記しておるのであります。一切の生
きていた、生活していた、事の終りが死であります。死は私たちの力で可能な凡ゆる事を為し尽し、汲み尽した
終りなのであります。死はどの様に人々が解釈し、諦め、悟ろうとも、それと無関係に現実に起り得る一切の人
間の営みや行為の最終のものであります。その先はないのであります。今存在し継続しているものとしては終り
なのであります。これでおしまいなのであります。楽しかったか、つまらなかったか知らないが、人生は終った
のです。一切の人間の力はそれで終ったのに間違いはありません、その瞬間から、その人の一切は過ぎ去ったも
ので、何か思い出が残るとか、その人の形見になるものがあるとか、記憶している者が、即ち普通は子孫が遺族
としているとしても、やがて、百年か五百年か千年も経てば、何が何だか不明になってしまうのであります。若
し死後に何かあるとしても、今生きている事とは全く別の何かであるに相違がなく、事実に於ては死は一切の終
りなのであります。唯一つ、葬られることしか残っていません。平岸の火葬場に大型のバスで乗って行った者の
中で、唯一人本当に唯一人骨になって、小さい箱に納められて我家に抱かれて帰ることに始って、やがて納骨堂
に入れられるか、何がしの名の刻まれた墓に納められるに過ぎません。
 生きている人間の世界から余計な邪魔ものが取除かれて、無常と死滅が、その人は既に消え失せたという印象
をもって、一人の人間がもう見ることも話すことも出来ないのに、世の中は知らぬ顔で残った者が生きるのに忙
しくて、そんな事を何時迄も考えたり、悲んだりしていられないのであります。やがては自分の番が来るからで
す。
 人生とは何であるか。墓に向って急いでいるのに外ならない。人間は過去だけしか与えられていないのであり
ます。
 どんな偉大に見えている人間でも同じことであります。人間が墓の中に閉じこめられるということが、神の人
間に対する審きであります。葬られ、忘れられる、ということが罪ある人間に対する神のお答えであります。
 そしてその罪は墓の中に孤独であるだけでは済まない「陰府に下り」であります。陰府とは苦悩の場所であ
り、自己の存在のないただ陰として神から隔離されている処なのであります。神の御顔を仰ぐことの出来ない、
神から除外された、神を礼拝し讃美出来ない、状態なのであります。人間が神から分離されていること「嘆き、
歯がみ」しても及ばぬことであります。「神なしとする者」 への想像だも出来ぬ、神の正しい審きであります。
主イエスはかかる意味に於て「死にて葬られ、陰府に降り給うた」 のであります。主は実に人類の代理として、
否私に代り給うて、我らの罪のために、十字架につき給うたのであります。神の独子が「死にて葬られ、陰府に
下る」何故であるか、あり得べからざることがあるのであります。「それ神はその独子を賜うほどに世を愛し給
えり。そは彼を信ずる者の、亡びずして、永遠の生命を得ん為なり」 (ヨハネ三・一六)。イエスは神の独子、
まことの神なればこそ、まことの人となり給うて、我らに代りて「死にて葬られ陰府に下り給うた」 のでありま
す。それは唯父なる神と子なる神との恵の故に外なりません。そして、そのことを信仰として告白するに至った
事は聖霊の神の御業であります。我々に帰すべき「死にて葬られ、陰府に下る」 ことを一切引受け給うて、我々
 
の為に、神の聖前に立ち給うたイエス・キリストは、神の正義と愛を同時に、十字架にかかって全うし給うたの
であります。神はこの事を忍び給うほど、創造主として、造られたるものを愛し給う愛を現わし給うたのであり
ます。
 「我キリストと偕に十字架につけられたり、最早我生くるに非ず、キリスト我が内にありて生くるなり。今我
肉体に在りて生くるは、我を愛して、我が為に己が身を捨て給いし神の子を信ずるによりて生くるなり」 (ガラ
テヤ書二・二〇)
 私たちは唯この神と独子イエス・キリストの御恩寵によって生きているのである事を深く深く思わねばなりま
せん。
 この恵みは、私ひとりのためのみではありません。これは神の召し集め給うた、選び給うた群、エクレシアの
為であります。このエクレシヤ即ち教会の群の一人として神は私たち一人一人を贖い給うために、イエスを十字
架につけ給うたのであります。それ故に教会は主イエス・キリストの体なのであります。
 使徒たちの歴史的教会は主イエス・キリストの復活により聖霊によって、地上に出現したものであることは聖
書に明かであります。シモン・ペテロは三度も「我を愛するか」と問われ、「わが羊をやしなえ」と命ぜられた
のであります。この羊の群こそ、使徒伝承の眼に見ゆる教会であります。この北一条教会はその教会の一つであ
り、ここに神のただ一つの公同の教会が実現されなければなりません。その証拠としては、決して我が教会が立
派な信条をかかげているというだけのことではなく、たとえ現実の我が教会は欠陥だらけで、しみとしわのある
教会、幾多のボロを出し、罪に満ちている教会であることが事実であるとしても、それ故にこそ私たちは復活
し、活きて働き給うイエス・キリストのみを主と仰ぎ、彼にのみ従うことによって存在せしめられるのでありま
す。イエス・キリストの治め給う教会でなければならないということは「聖書」に忠実な教会でなければなりま
せん。聖書以外の一切の言葉はこの教会を支配してはならないのであります。又この教会はこの聖書の御言葉を
宣べ伝える事以外の一切の事が第二段にならなければなりません。教会への奉仕は、その外のことではありませ
ん。礼拝も聖典も献金も一切は「福音を宣べ伝えよ」に帰一するのであります。この世と教会との出会い、会合
点は福音を宣伝える場に於てのみあるのであります。この点に於て教会は戦闘の教会であります。この戦闘は伝
道であります。伝道に於てのみ教会は世と闘い、世は我らを憎み、肉は我らに逆うのであります。かく闘いつつ
我らは神の国を待ち望むのであります。我らは毎日の祈りに於て神の国の実現を祈るのであります。教会の群の
外に出るのではなくして教会の群の中にあってのみ、神の国の来るを切に待つのであります。これが一切のもの
を新たになし給う者を待つ者の立場であります。
 「我今なんじらの為に受くる苦難を喜び又キリストの体なる教会のために我身をもてキリストの息難(なやみ)の欠けた
るを補う」 (コロサイ一・二四)。今も尚教会の形成のために働き労し給うイエス・キリストの御息難に私たち
はこの教会の場に於て与るため、今日も明日も、この教会が聖旨に適うために労し苦しみ祈らねばなりません。
日々に迎うる諸教会の息難を負わねばなりません。
 そこに真実の教会は世界のただ一つの教会として姿をあらわしているでありましょう。人間の妥協や申合せで
世界の教会は出来ない。我らが教団を離脱して、新しく、日本キリスト教会を形成しつつあるものは実にかかる
意味に於てであります。私たち自身体当りで当らねばならないのでありますから他の国の財力などによっては真
の教会は形成されません。
 新しい日本キリスト教会の形成、北海道中会への負担と責任、それは光栄として、我が北一条教会に与えられ
たもの、その会員一人一人の生甲斐として受くる神よりの御命令なのであります。
 
                                       (一九五三年四月四日、札幌北一条教会にて)


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