人 生 の 真 相
 
 
 今朝の礼拝に私は何をお話したらよいか、静かに手を胸にあてて聴いてみましたが、何をお話しても私は今の
心境から申しますと自信を持つ事が出来ないのであります。然し強いて私の心の底をはたいて告白するならば、
ただ懺悔があるのみであります。
 私は取りまとめることも出来ない懺悔ではありますが、この懺悔を礼拝に於て、神の前に告白するのが、一番
真実であると思って、その意味で御話をすることにいたします。
 私はこの春以来教会に起こった事や、自分の生活の中に起こった事柄からも、又世界大戦の様相の数々人道地
に落ちたる悪徳常なき各国の戦争のありさまを見せつけられるとき、自然に主イエス・キリストに対するユダの
反逆、裏切りも裏切り、主を売った裏切り、聖書の事実に思いを至さざるを得ません。ユダが何故に主を売った
かという訳を調べるというのでないのですが、この人生の大悲劇、この人生の最大の矛盾を思わざるを得ないの
であります。
 
 私が十七、八歳のときキリスト教のお話を聞き始めた頃、私はイエス・キリストの御人格と御言葉にどんなに
感動し、又反省し、深く自分の本体を示されたか知れませんが、かかる全き人格と愛そのものなるイエス・キリ
ストを何故十二弟子の一人なるユダが売ったのであるか、全く遺憾に堪えませんでした。残念で仕方がありませ
んでした。少し頭脳のいい友だちがその点で鋭く質問して来ると、タジタジとなって何と答えていいか分りませ
んでした。果てはキリストの人格と他の聖人と呼ばれる人たちとの間を比較されて、ユダの反逆は何としても、
聖書記事中の忌わしい記事であり、出来ればこれを抹殺してあった方が、神の子イエスの御人格にとっても、世
人にとっても、どんなにか望ましい事かの様に考えられました。青年時代京都に宗教博覧会のあった時にこれを
見ましたが、キリスト教の室は殆んどカトリックの色々な宗教行事、祭壇に関係するものが陳列されておって特
に十字架上の基督の痛々しい像や、胸から血が流れている聖画が沢山ありました。田舎のお爺さんお婆さんたち
がその室に入るなり、大きな声で「何でまあ、ヤソの仏様はこったら惨(むご)たらしいもんだあべな」と驚愕したのを
聞きましたが今も忘れません。金色燦爛たる慈悲の相に輝く仏像や仏画に比較してそう思うのは無理もありませ
ん。その主を十字架に懸けるべく売ったのが十二弟子の一人のユダであったという事を聞いたら、善男善女たる
その人々は何と思うことかと私は思いました。
 きっと、若かりし日の私と同じ事を今の青年の方々は考えられるであろうと思います。然し辿々しい歩みなが
ら、それから三十年の生活を基督教を信じて参りました今日の私は、ユダがキリストを売った理由はともあれ、
ユダがキリストを売った様な事が人生の真相であるという事を、自分の心の生活に於て、又自分の仕事や社会生
 
活に於て、また教会生活に於て、マザマザと体験するものであり、また特に日支事変から世界戦争にまで至っ
た、この全世界の動乱に於て、基督教国と基督教国、民族と民族、その間にまた反逆常なき、国際状勢におい
て、ハッキリと分かるのであります。
 キリストの御足跡に従わんとする者に於てある時はその肉身からある時はその親類一家、使用人から、裏切ら
れることが必ず生ずるものであります。教会の中に於てさえ、いつの間にか分裂を生じて、キリストを売ること
が起きたのであります。ましてや国家の正義が、民族の生存と利害とに対して、又基督教国間に於ても表裏常な
きものであるという様なことは毎日の報道に於て嫌という程知らされているとしても仕方のないことではないか
と思うのであります。神の独子なるキリスト・イエスが十二弟子の一人なるユダに売られたという聖書の記事こ
そ、人生の真相、人心の深く暗い罪の所在を示しているのであります。聖書はこの意味で全く胡魔化すことな
く、人生の真理と人生の真相と人間の本体とを、神の独子主イエス・キリストの御人格と愛と十字架によって、
ハッキリと示しているのであります。
 私は自分は自分なりにこの人生の暗い真相に度々ぶつかって、どうしたらいいか分からないことがあります。
特に戦争以来思いもかけぬ難儀や、困難なことが、仕事の上に、社会生活の上に起きて来ます。而して家族に対
し、事業に対し、教会に対し重い責任を感ずるときに寝られぬ夜、朝早く目覚めて床の上に転々と夜の明けるの
を待つ日が重なるのです。
 世相の険悪と、社会生活の混乱と矛盾が、いよいよ深くなる許りであると共に、一方経済生活の変転が激し
 
く、私は戦争前に経験したことのない罪を感ずることが増して来るのを如何とも出来ないのであります。
 第一に私は何故か神を正面に見ることが出来なくなるのであります。自分の反省が鋭くなって、自分の罪に対
する意識が針の様になっているからではない。罪に嘆くに先だって私の心が何よりも先ず神の前から逃れようと
する。無意識に私は神を避けていることに気がつくのであります。情ないけれども仕方がありません。創世記の
アダムとエバが神の顔を避けて樹の間に身を隠したという事を、今明らかに体験することは如何とも出来ない悲
しみです。私の一番の禍は神の前から遠ざかる苦痛であります。一切の光明が私から消えて、歓喜は私の胸に跡
形もなくなり、生きていることが地獄の苦悩と等しいことになるのであります。自分自身が地獄にあるのであり
ます。
 神から遠ざかることは罪を重ねることになるのです。罪は犯せば犯す程、罪の感じが鈍くなるものでありま
す。その罪が直ちに我が良心に深刻に苦痛となる程のものであったのが、いつしか事もなげに済んでゆくことは
恐ろしい事であります。戦慄を覚えた程のものが慣れてしまって平気になることは何という堕落でありましよ
う。罪は繰越される程、悔い改めることが困難になるものであり、神に叛いて我が心は頑くなに進んで行くので
あります。神より遠ざかる禍はかかる結果を生じ来つつあるのであります。
 神を信じながら、キリストの霊を受けながら、いつ迄も同じ事を、今なお古き罪を犯すということは自己の滅
亡を暗く予感せしめられるのであります。以上のごとき心の苦痛は磐石の如く我が良心を圧迫して来ます。これ
より大いなる苦痛はないのであります。
 
 かかる絶望の谷を歩みながら、私は一方に全一家一族の生活を負い、あるいは思わぬ反逆さえも受けて生きて
行かなければならないときに、何とはなしに私はユダの事を思ったのであります。ユダの最後を思ったのであり
ます。私の中にユダを感じたのであります。
 意識しつつ主イエスを売り、自分の意図していた事とは反対の結果を見た時に、ユダはがく然として我に返っ
たのであります。
 「ここに、イエスを売りしユダ、その死に定められ給いしを見て悔い」とあります。ユダの心の様が見える様で
あります。その狼狽と己を責める良心の力が分ります。彼は祭司長、長老らにかの三十の銀を返して言いまし
た。「われ、罪なきの血を売りて罪を犯したり」彼らは冷然として「われら何ぞあずからん。汝みずから当るべ
し、彼その銀を聖所に投げ捨てて去り、ゆきて自ら縊(くび)れたり」と。ユダは確かに後悔の心にみちて祭司長、長老
らに銀三十を返して、自己の良心を救わんとしました。けれども、それは許されませんでした。万事は窮してし
まって、自分で自己の罪を処理するという事になってしまったのです。ユダは主を売るの罪と反逆とを犯したの
ですが、最後にただ一つ残されていたところのキリスト・イエスの十字架の下に身を投げて詑びる道を取らなか
ったという事はどうしても彼が主を神の独子、救主なることを信じていなかった証拠であります。他の十一弟子
も「主を知らず」といったけれども、主の十字架に縋ったことによって救われたのであります。ユダは祭司長、
長老などの処に行かずにキリストの十字架の下に行くべきであったのです。
 私たちは自分の中にユダ的な反逆を見ます。神の御顔が段々と遠くなることは悲しいことです。このままなれ
 
ば、ユダと共に人生に絶望し、自己に行詰って自ら縊(くび)れる外はないのです。
 「人は、基督か、絶望か、必ずこの二つの中の一つを選ばねばならぬ」という事をある人が申しました。本当
にそれは真実であります。而も私たちは尚、シモンペテロの如く「主よ、我ら誰にゆかん、永遠の生命の言は汝
にあり」 といわざるを得ないのであります。
 神を離れ、罪を重ね、人生の重荷を負い、人情のしがらみにとりつかれ、生きて行く苦難に耐えて行かねばな
らぬ時、ただ頼るものは十字架の上なる主イエス・キリストであります。このことの説明は余りに真実で、深く
説明が出来ません。私の霊、私の良心、がそこに歩んで行くからです。
 主の十字架こそ、罪人の霊と罪人の良心にとって、如何ばかりの光、如何ばかりの幸なる実在、真実である
か、神の独子が十字架上に苦しみ給うて、我らに限を向け、憐れみ給うこの一事が、私ごとき心情の罪人にも尚
勇気と心の平和を取り戻して神の前に今日も礼拝を守ることを得しめ給うのであります。
 主イエスに縋らずばどうしてかかることが許されるでしようか。
 私はここにおいて頑なな心が砕かれ、滅亡の恐れをすて去って、希望を、復活の日につないで今日の一日の生
活を歓喜と平安に生き貫き、矛盾に満ち、偽瞞に溢れた戦乱の世界に御意(みこころ)のなる日を期待することが出来るので
あります。
 私はユダの最後の過失を取らずに十字架上の悪人の道に生きようと思います。「イエスよ、御国に入り給う
時、我を憶え給え」 「我らは為しし事の報を受くるなれば当然なり」 の信仰を以って、主の十字架の下に行くよ
 
り外はないのであります。この時代にあって贖罪の説明はともあれ、私の良心にとって、主の十字架は絶対に必
要であり、主の十字架なくして私たちの道徳生活の要求を如何にして許して頂けるか、十字架こそ不思議な神の
愛であります。十字架こそ生きる力であります。ただ一つの真実であります。我らはユダのごとく主を売って
も、ユダのごとく祭司のもとに行かずに主の十字架の足下に平伏して罪を七十度も許して頂かねばなりません。
人生の真相に徹し、自分を深く知る時に、この外に人生の希望はありません。世界の救われる永遠の平和はただ
主の十字架にのみあるのです。
 「それ十字架の言は亡ぶる者には愚なれど、救わるる我らには神の能力なり」とあります。
             (編者註、本篇は終戦一年前結核の再発で除隊療養中北一条教会で語ったもの)

アクロバットファィル