跋
今年になってから西村長老と出会う機会が多かったのも思えば地上の別れを急ぐためであったので
あろうか。一月には札幌に於ける中会修養会で、二月には道南の森と東瀬棚の伝道に同行し、三月に
は遠軽で北見地区の青年修養会に講師として又一しょであった。そこから札幌に帰って又中会で一し
ょになり、定山渓の温泉にも一しょに入った。
受難週中四月一日の水曜日、私を電報で予め足留めしておいて突如函館に来られた。この度は公の
使者であると断られて、北一条教会を代表されての私に対する牧師招聘のためであった。即日帰られ
るといわれるのを無理にお願いして一泊していただくことにしたが、恰度その夜は受難週の祈祷会で
もあったので一場のお奨(すす)めをしていただいた。
こう考えて見ると今年は殆んど毎月西村長老にお目にかかっていたようである。ただ五月の御殿場
に於ける修養会には東京までゆかれた長老がそこで臥床してしまわれたので、残念ながらお目にかか
れなかった。あの盛んな修養会に委員である西村長老の顔は是非とも欲しかったし、恐らく当人とし
てもこれに出席出来なかったことは千載の恨事であったであろう。でもこの時まで、まだ札幌ゆきを
躊躇していた私に、東京から夫人を使者として遣わされ、その決断を促がされたのであった。
私は御殿場からつづいて関西伝道旅行をすまし、六月八日に西村長老のお宅に伺った。中会常置委
員会が開かれることになっていたからである。この時氏は床に臥せって眠っておられた。ややあって
目醒められた時には汗ばんでおられたようだった。それでも着替えをして委員会に出て来られた。西
村長老は中会の会計を担当しておられたのである。
その翌日再び西村長老宅で北一条教会の長老方と会見した。この時にも氏は病床から起きて来られ
たが顔面蒼白であったにも拘らず、絶えず会談のイニシアチーヴをとって居られた。
その後手紙の往復は何度かあったけれども、地上に於てお会いしたのはこれが最後であった。
七月十二日の日曜日、礼拝を終ってまだ会堂にいた時、西村長老急逝の電報を受けとった。ショッ
クは大きかった。とも角も午後の急行で立つことにした。
越えて十三・十四両日中会議長の近藤牧師と協力して葬儀に奉仕させていただいた。棺前祈祷会に
は四百人、告別式には八百人を超える会衆であった。皆西村長老との地上の別離を悲しむ人々であっ
た。
七月三十日に私は十七年間の函館に於ける牧会生活に終止符を打って、札幌北一条教会の牧師とし
て赴任した。駅頭には病癒えられた小野村先生はじめ、教会の兄弟姉妹多数が出迎えて下さったが、
その中にあるべき西村長老の顔のないことは人間的には言い難い寂しさであった。併し考え方によっ
ては余命の少い西村長老が、私のような者にあれほどの熱心を以て迫られたのも何か深い意味があっ
たように思われて、私としてはただ西村長老の後に続く者となる外に、生きる道がないように思われ
てならない。
それにしてもあの人間らしい人間、基督者らしい基督者であった西村長老の面影とその逞しい伝道
精神とを何とかして世に留めたいものと願っていたところ、幸にも氏が生前各所に於て語られた説教
の草稿が十冊ばかりのノートになって残っているとのことを歌子夫人から承った。そこで早速それを
拝借して読んで見ると、曽って承った話が殆んどそのまま文章として残っていることを発見した。私
はそれらの中から、特に自伝的要素のあるもの、伝道的要素の強いもの十数篇をピックアップしてこ
れを夫人に写しとっていただくことにした。西村長老の草稿は元より自らの覚え書きとして綴られた
ものであって、敢えて世に問うなどは考えても見られなかったものであるだけに、その細かい字のジ
グザグの草稿を浄書することほ並大抵の仕事ではなかったと思う。これを短時日になし遂げられたの
はひとえに夫人の御主人に対する尊敬と愛情の然らしめるところであると共に、実に夫君の伝道の志
をいかにして世に生かしたいとの熱意によるものである。私はここに読者諸君と共に夫人のこの労に
対して深い感謝を捧げたいと思う。
長く西村長老の牧師であった小野村林蔵先生、晩年の知己であった植村環先生からそれぞれ序文を
いただけたことは故人の光栄であると共に編者などの心から感謝するところである。
願くばこの書が神の嘉し給う所となり、西村長老終生の願いであったイエス・キリストの福音の証
詞として、ひろく同胞の間に用いられんことを切に祈るものである。
一九五三年一一月三日
(日本基督教会札幌北一条教会牧師)
森 好 春

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