序
小野村 林蔵
一
今から三十余年前、西村久蔵君が小樽高商の生徒であった頃であった。或る日同君が、札幌北一条
の牧師館に私を訪ねて来て、思いつめた様子で、「伝道者になりたい」と、私の意見を求めた。
当時西村家ではキリスト者は久蔵君ただ一人であった上に、同君は一家の長子であり、かつ当時の同家の
家庭の事情を思い合わすと、同君が伝道者になることには色々と困難があると思われた。
それで私は「高商を卒業するまでにはまだ年月もあることだから、その時まで、結論に到達することを延ばして、
その間によく祈って、慎重に考慮するように」とすすめた。この私の自重説がはたして正しかったかどうかは、
今も私に問題となっている。もしこの時私が同君の志に賛同して、これを励ましたなら、同君はきっと伝道者に
なっていたろうと思われる。この私の自重説は、私の伝道者生涯中の一つの大きいミスであったかも知れない。
だがその故に同君は、専門伝道者ではなし得られない面で、福音のために貢献ある生涯を送ってくれられた。
神は私の愚かを用いて、これを聖なる御経綸に活用し給うたのである。そう思うて、私はいささか自らを慰めている。
二
高商卒業後、君は先づ札幌商業学校という私立学校に教鞭を執るようになった。
当時同校は風紀が良くないという評判があって、一般からあまりよく思われていなかった。
その札商に赴任した西村君は、教育者として実にすばらしい力を発揮した。
教鞭を執りはじめてわづか四、五年の間に、同校の校風が一変してしまった。
彼は生徒の一人一人に真実の兄のように畏れられ、敬愛された。
「我らの兄貴」というのが生徒らから同君に捧げたニックネームであった。
それは親しみと敬慕との表象であった。彼は生徒の一人一人の健康に、学業に、操行に、
常に細心の注意をはらい、母のような愛情をもってこれを守った。時には怒った。泣いた。
怒鳴りつけた。貧苦の家庭のためには涙こぼれるような親切を、ひそかにつくした。
「兄貴」を中心とした「正義派」の一団が、兄貴みづから求めないのに、生徒の中におのづから生れた。
彼らはいずれも学業操行ともに優秀な者たちであった。この一団が当然に校風の中堅となった。
そしてその大部分がクリスチャンになった。
三
西村家の事情は、同君が学校の教師に留っていることを許さなくなってきた。
それが同君に商人としての新しい出発を決断させた。
折角教育者として、立派な業績を挙げつつある西村君が、商人として再出発して、果して成功するだろうかとの
懸念が、同君を敬愛する友人たちの間にあった。私もまたその一人であった。だが間もなくそれが杷憂であること
が実証された。「洋生の西村」という名はまたたくうちに北海道に知れ渡り、札幌駅前の同店は、常に顧客で混雑する
ようになった。
かくして行くとして可ならざるなき同君の業績は人々の眼を見張らしめるものがあった。
だがそうした教育者として、商人として、すばらしい業蹟に輝きながら、西村久蔵長老の真実心は、三十年前、
私の書斎で「伝道者になりたい」と申し出た青年西村君の、その若き日の志にあった事をしみじみと感ぜしめられる。
君は教育者として教壇に立つ時も、商人として東西に奔走する日も、一日一刻としてキリスト・イエスに負うている
福音の負い目を忘れることがなかった。君の渾身はこれ伝道精神で満ちていた。
かくして長老としての西村君は、実に忠信な教会の奉仕者であった。事いやしくも教会のためとあるなら、
別してそれが、伝道のために必要とあるなら、時も物をも惜しみなく捧げて逡巡することを知らなんだ。
教団時代、日基時代を通じて、例年冬期酷寒の時に道内各地で数ヵ所に開催する慣例になっていた農民福音学校の如きは
場所の設定、講師の依頼、経費の捻出等あらゆる面倒を一人でやってのけ、決していやな顔をせず、みづから多忙な事業を
持ちながら、東西に奔走して、実に忠実に尽してくれられたものである。
この人ひとりにこれだけの物的、精神的負担を負わせることは余りだと、同君の牧師として、しみじみと思うたことは、
そも幾度であったろう。だが同君は事いやしくも神の国のためであると信じた場合は、殆んど無条件に諸教会の要請を受け
入れて、躊躇しなかった。その死を早めるに至ったのも、こうした心構えに原因するところ少くなかったと信じる。
私は牧師として同君のこの心構えに対して、必要なブレーキをかけ得なんだことに責任を感じている。
四
西村君は既に中学時代に雄弁で知られていた。かつ読書家であった。物事の要領を巧みに掴んで誤らぬ点で、
すぐれた頭の持ち主であった。君は平信徒である。神学者ではなかった。
しかしキリスト教信仰の本領を正しく会得して、その書く所、述べる所、決して誤る所なかった。
君の神学は主として高倉君の「福音的キリスト教」に基盤を持っていたようである。
勿論バルトのもの、ニーバーのもの等をはじめ、広く諸書を読んでいたようである。
だが青年の一群を前にして「福音的キリスト教」を解読敷衍する場合は、縦横自在、よく同書を会得、消化していて、
その解説は平易明快、しかも興味津々たるものがあった。私は時々それを傍聴して、その巧みさに感服したものである。
君は実際伝道の舞台に立っても堂々第一流陣に列し得たことを私は信じて疑わない。
こうした天性の伝道者とも謂うべき同君の能力と志とを同長老亡き今日に適当な方法によって、世に残すことは
教会のため、はた同君の志のために我ら同君の知友らが負う責任とも思われる。
幸にも同長老が所々の教会からの依頼に応じてなされた教話の原稿が、中版のノートブックに実に一〇冊残されて
いることが発見されたので、ここに遺稿刊行の議が起こり、本書の刊行を見るようになった理由である。
一九五三年一一月
(札幌郊外琴似にて 日本基督教会札幌北一条教会牧師)

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