流されし聖なる血潮
半歳を雪に埋もれた北海道の天地も、巡り来る春の暖かさに、久し振りの土の香をただよわせて、庭のそここ
こには、昨年の秋に落ちた薄黒い葉の積まれている間から、黄色な芽がふくよかな姿をして顔を出して来まし
た。やがて葉を拡げて花を咲かすでしょう。延びて行く草木の有様を見入るならば、そこには生命が一時も、一
刻も停ることなく進んで行くことを知るのである。かくのごとく天地の万物は皆進化し発達し変化してやまない
のである。水の流れのごとく、風の吹き、雲の行くように。かく語りつつある私も諸君も、夜となく昼となく人
生の旅路を進みつつあるのである。流されつつあるのである。我々はどこへ行くのであるか。そもそもこの人生
に何のために生まれ、どこを目標として進んでおるのであるか。我らの知り得るところでは行く手には確かなも
のが一つある。それは墓であり死であります。現実はかく教えるのであります。しかし死はすべての終りである
か。墓場の彼方(かなた)に何らかの世界がないか。あると明答を与え得るものがここに何人ありましょうか。
行く先も知らず、目的地もわからず、あたふたとして毎日を夢の如くに暮す生涯の終りは甚だ悲惨なものに相
違はない。或人はいう。日進月歩、日々に新らしい活動がつづき、競争の激しい生活難の只中にあって、諸君ら
においては受験地獄にあって、その日の予習と復習に、運動に追われているものにとって、そんなことを考える
余裕が無いという。
一体目的も行先も不明な多忙が何の益があるのでしょうか。行手のなんたるかも知らずして競争し戦いつづけ
る人生、死のために競争してなんの得る処があろう。ナポレオンのごとく欧州を征服しても、セントヘレナにお
いて彼は彼の霊の行くえを失ったときには、その人生はむなしきものであったのであります。
人生における最悪の力は死であり、墓であります。
死の前にいかに花やかな人生も色あせて、いかに盛んに見ゆる活動も要するに空ではないか。
アレキサンダー大王がペルシャに遠征してペルシャの建国者クロス大王の墓の前に立ったときに、墓の表に
「後に来りて此地を取る者よ、そは誰れなるにもせよ、われに墓だけの土地は与ふるを惜む勿れ。そは後世必ず
此地を領する人の立つを知れば也」という事が書きしるされてあった。其の後に来るものを知ってアレキサンダ
ー大王は今更に人生の果敢なさを嘆じたという。
仏国の文学者フローベルは死に直面して人生の空(くう)にして惨澹(さんたん)たることを痛感して「私が人生に於て求めたもの
は墨で汚すための幾重ねかになった紙片のみであった。私は果しない砂漠に当てもなくさ迷うているように感ず
る。今私をささえている希望はやがてこの世に別れを告げることであるが、私にはあの世が分らない。悲惨はこ
の世だけで十分だ。」暗黒な死の力にぶつかるときに、人生の種々相をその霊筆に躍如たらしめし大文豪も、自己
の生涯はただ単に幾首枚かの原稿用紙を墨で汚すために書いたに過ぎなかったと嘆ずる外になかった。死が人生
の最後であるならば、人生とはとどのつまりは砂漠の旅に疲れほてて、のたれ死をするに等しいというより外は
ないのである。
大学病院に試験用にされるために多数の野良犬が一定の囲いの中に飼われて一緒に遊んでいます。ほえるもの、
じゃれるもの、飯を喰うもの、水を飲むもの、雑然百態であります。しかも毎日のごとく順番が来て、段々に彼
等は解剖台でメスの下に死んでゆくのです。それも知らずに犬どもは暮しているのである。人間どもはどうであ
るか。札幌という市の中に十六万人が入れられて毎日順番が来るなれば豊平の焼場に蒸し焼にされて一片の煙、
一かけの石灰質となって行くのである。
毎日のごとく悲しみ限りなき死の現実が繰り返されて、ここに集っている我らの順番に迫って来ているのであ
ります。
私たちは実際に自分の死顔を見たか。自分の死の姿を切実に経験したろうか。他人が毎日死んで行くというこ
とを知り、また聞かされてはいる。人間はいつか死ぬものと思ってはいる。「どうせ死ぬんだ」などと軽軽しく
口をきく。しかし、それは単に死という事、葬式の様子などを頭の中で思い浮べたに過ぎない。東京の大火を新
聞で見るくらいで、熱くもけむくもないことである。実感として死を感じたか。知らぬ間に、いつか死んで行く
のでない。死の正体をハッキリと見きわめて、勇敢にこれと戦い、ごまかさずに死の全体を味わわんとしたこと
があるか。死線に足を踏み入れたことがあるか。札幌商業学校の昨年度の幹事長であって、本年三月三日目出度
く卒業した深谷三六郎君は思いがけなくも三月三十日午後一時四十五分、病のためにたおれました。
彼は二年のとき剣道の時間、友だちが悪戯をして、しないの先の割れたもので彼の腕をついた傷から結核菌が
入り骨髄炎となり入院治療をなすこと三度、頭脳明噺の秀才でありながら病気のために学校を一ヵ年休むなど、
絶えず死の恐怖におそわれつつも昨年春五年となり、衆望を荷って開校満十週年を迎える札商の幹事長として病
躯もいとわずに情熱誠心をもってその職責をつくし、九月の記念日を心待ちに待っていたのである。しかも如何
なる不幸か八月初旬からまたまた足の骨が痛んで、四ヵ月の長い間大学病院に入院したのである。
何度か手術台上にのせられて死に直面した彼は、私の所に来て何度となく死の問題を語りまた熱心に聞いて行
ったのである。其の問いの深刻痛切なる、私も思わず冷水をあびるの思いをした。「おれも死ぬんだな、どうし
ても死ぬんだ。不思議だ不思議だ」と言っていた彼の言葉は今もなお私の耳に響いて来るのである。病院を退院
して一日、私の当直の日に夜一人で彼は私を尋ねて来た。色々と死の問題を話したときに彼はこんな告白をして
いる。「もう大丈夫、病気にならぬと思った矢先、八月またまた病気になり切角春から力を尽くした学校の記念式
にも出席出来ず、自分はほんとうに残念で泣いていました。そして余りにも神は無情だと思ったのです。先生は
神ほ愛だ、愛だというけれども、僕には余りにも冷酷残酷だとうらんだのです。しかし手術の日が来てまた足を
切られる日になると、神はない、神ほない、と思いつづけると不思議にも天地が真暗になってきて、しまいには
死の恐しさが圧倒的にわが身に霊におそって来てどうすることも出来なくなりました。私はたまらなくなって、
また心では否定したつもりの神の名を称(よ)んだのです。そうすると私にはまた輝かしい光や希望が心にさして安心
して手術をしてもらうことが出来、こうして先生とお話も出来るようになったのです。しかし、いつかほんとう
の死が来ると思うと、もっと信仰を深くしたいと思う」と申すのです。しかもついに彼は死んで行ったのです。
今は彼の姿を地上に見ることは出来ません。なぜ人には生きたい生きたい、いつまでも生きたいという希望があ
り要求があるのに死ぬのであろうか。なぜに目的の分からない行先不明の旅をつづけねばならぬのであろうか。
それは人間が罪を犯しているからであります。罪とはなんであるか。すなわち人は万物と共に神によって造ら
れ神によって生き、神によって永遠に生くべきはずであったのである。しかるに人はおのれを中心としておのれ
を天地の主としたのである。神を捨て、神に逆らい、また神を忘れ、遂には力にもならぬ者を力とたのみ自ら完(まつた)し
と称(とな)えて愚かとなり、すべての事が人によって逆になった結果である。神に逆らうことこれ罪である。
「罪の価は死なり」もしも罪がなかったならば死はないのである。罪を犯さぬ人間があろうか。一人もない。
しからば死をまぬがれる人は一人もないのである。
先ほど読んでいただいたヨハネ伝第八章の物語を諸君と共に一度考えて見よう。
おのれを中心として他人ばかりを審(さば)かんとする学者パリサイ人らは実に自己の罪を知ることが出来ない。しか
もそれだけ罪は深いのである。かくてイエスの一言は彼らの肺腑(はいふ)を貫き彼らの良心を射通した。イエスの御言(みことば)に
接して彼らの心の罪は凡(すべ)て明かにせられ、ロは閉じ石は手から落ちたのである。イエスは山の上で教えられた教
の中に、「姦淫するなかれ、と言えることあるを汝等きけり。されど我は汝らに告ぐ。すべて色情を懐きて女を
見るものは、既に心のうち姦淫したるなり」と。何という鋭い言葉であるか。神の正義は我らの心の中の淫(みだ)らな
念いをも見逃し給わないのである。
私は中学の三年、四年のとき丁度諸君と同じ年頃にはかなり不良の性質で満ちていたものである。今日この席
上からお話をするの資格さえないものである。私は何べん人目をさけねばならなかったか知れない。心にちかい
もし、決心もしたけれども、私は罪を犯さぬわけにはいかなかったのである。良心がせめ、不愉快が残っても、
一時の誘惑を退けることが出来なかったものである。肉慾の奴隷であった。「色情を懐きて女を見るものは既に
心のうちに姦淫したるなり」その言葉はグサリと私の良心の真中を射通した。逃れる術もなく私の罪は明かであ
る。
嘘(うそ)をいわぬ人間があろうか。私は今度入学した二二〇人の一年生に聞いて見た。だれか今まで一度もうそを言
わなかった人がありますかと。その人は手を上げて下さいと言った。けれどもだれも手を上げるものはなかっ
た。大人になって罪を知るのではない。小児の中でも罪はチャンとあるのである。自分の我、自分というものを
通さんとするとき、神を忘れ神を離れ、そこに罪があるのである。
罪があれば死があるのである。罪を犯した、それがどうしたのかと、のんきにしている段ではない。罪を犯す
ところに必ずや最悪のさばき、死がくるのである。罪の処分、それは即ち死の解決であるのです。一度犯した罪、
それは永遠にこの宇宙に記録せられずにはおかれない。それは丁度一度口外した言葉をまた口に吸い込むことが
出来ないと同じである。静かに澄んだ池の表に石をなげて御覧なさい。一度起った水上の波紋は円い輪をなして
段々と拡がりついに他の岸全体に及ぼし、岸にはえている葦さえもゆるがすであろう。我らの犯した一つの罪は
隣人から隣人に社会から社会に、地球全面に及ぼさずにはいない。人の世の何たる浅ましき姿であるか。戦争が
起り、虚偽が横行し、収賄が行われ、風俗が乱れ、さいぎと怨嗟(えんさ)と呪(のろい)に渦まく人の世は、かくて阿修羅の現実世界を形造るのである。
しかも人々はその罪を互いになすりつけて平然としているのである。他人を責めて自己の罪を忘れているので
ある。姦淫の女を責めて自分を清しとするパリサイ人である。すべてが神を忘れそのさばきを恐れないのであ
る。世の罪と言わせ世の責任と言う。何ぞ知らん、それは自分の犯した罪の拡大せるものなるを知らないからで
ある。かくて天下に義人なし、一人もあるなし。当然のごとく死は世界の全面を支配しているのである。ああ、
されど人間は、世界は、否自分はこのままでいいのであるか。罪あるままで死の運命に迫られて、目的を知らざ
る人生を歩んでそれで自分はよいのであるか。多くの人間は罪たることも知らずにいたのである。しかるに天地
の造り主なる神はこれを見逃しにし給わなかった。神は人類を愛し給うために、人の子の罪をそのままにし、す
べてを死において滅ばし給わなかったのである。
ここに不思議にも、神は人間の形に於て神の独(ひと)り子、キリストを世に遣わされたのである。ナザレ村の大工ヨ
セフの長子として、母マリヤより生れ給えるイエスこそはその人であったのである。
イエスが神の独り子であり、我ら人間の中にありて我らと異るところはイエスは罪を犯さなかったことであ
る。イエスの人格には罪がなかったことである。古今東西、罪なき人格はイエスの外にはないのである。である
からイエスは先ほどの物語の中にあるごとく、姦淫(かんいん)の女に向って「われも汝を罪せじ」と、彼には女を石にてう
つべき資格を持ちながら、これをゆるされたのである。
何のために神は罪なき独り子をこの世に遣わし給うたか。それは彼を信ずる人間たちの罪をイエスに由って打
消し、人間たちに死を越える永遠の生命を与えられんとしたからである。罪あるもの同志でお互に罪を取消すこ
とは出来ぬ。真黒な色と眞黒な色をどんなにしても白くはならない。眞黒な色はその色を清めさらす無色の特別
な薬品を要する。
人類の積み重なる罪を清め、ゆるされるためには、罪なき神の独り子なるイエス・キリストが降り、罪のあが
ないとして十字架にかかりその生命を与えらるる外はなかったのである。
「人の子の来れるも事(つか)へらるる為にあらず。反って事(つか)ふることをなし、またおほくの人の贖償(あがない)として己が生命
を与へん為なり」とキリストは申されたのである。
罪なきものが罪のさばきなる十字架上に釘づけにされ苦難の血を流さるる。この外には人類の罪すなわち私た
ち一人一人の罪は消えないのである。
神の独り子が人類に代り、我々に代り、身代りとなられたときに我らこれを信ずるものは救われるのである。
「人の子の栄えを受くべき時いたれり。一粒の麦、地に落ちて死なずば只一つにて在らん。もし死なば、多くの
果を結ぶべし。」「我もし地より挙げられなば凡ての人をわが許に引きよせん」今を去る一九三〇年の昔、春まだ
きカルバリの山上に、二人の盗賊の間にはさまれて罪なき神の小羊は、彼を十字架につけるのがいかなることで
あるかも知らざるはどに、罪に満ち、憎悪と残虐に支配された人類(我らもまたその一人であり実に彼らと同じ
罪である) にあって、むごたらしくも釘づけにせられたのである。
頭にはいばらのかんむりがひたいにくい入り、髪にまつわり、ひたいと両手の甲と重ねられた足の釘あとか
ら、したたる聖なる血潮は流れつたって大地にポタリポ夕リとおちてゆくのである。我ら人々の罪は彼を刺し彼
の血を流させたのである。しかもその時イエスの口から出でし言葉はなんであったか。
「父よ、彼らを赦し給え。その為す所を知らざればなり」と。罪なき自己を十字架につける人類に対し、イエ
スはそれを神にとりなしたのである。何という絶大の愛であろう。彼こそは神であったのである。されば心なき
ローマの軍人、その刑場を率いる中隊長も「げにこの人は神の子なりき」と叫ばざるをえなかったのである。
神はこのイエスの十字架によって、死せるイエスを復活せしめ給うたのである。死を越えて、墓の彼方に而も
輝かしい世界を開き給うたのである。彼キリストを信じ彼の十字架の血潮に清められた人類に、神は死を越えて
永遠に生きる道を与えたもうたのであります。罪の問題はキリストの十字架によって解決され、それを信ずるも
のには死はないのである。永遠の生命が約束せられたのである。そこに信仰の生活が生ずるのである。
自己を中心とした生活をうちくだかれて、地獄におつべき身がキリストの愛にすくわれその喜びによってキリ
ストの心を心とし、キリストの愛にあずかり彼と等しくおのれの十字架を負い、また他人の十字架や運命に関係
を持つて神の御命令のままに人生を送ることが出来るのである。
そのとき我らは永遠から永遠にあり給う神と共なる生活、すなわち死も墓もなく、輝かしい希望、美しき愛、
言い知れぬ平和を心に受けつつこの人生を喜び感謝し楽しく愉快に生活することが出来るのである。
短時間では言いつくせないので残念でありますが純真なる青年諸君よ、ナザレのイエスは如何に罪なき人であ
り神であるか。十字架の救いはなんであるか。どうか真面目に、自己の死と運命に立場を置いて、それを知るた
めに忍耐して教会の研究会に来られるよう切望してやみません。
(一九三四・四・一八 於札幌北一条教会)

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