コリント教会の問題


今日は
昨日は
2005年1月10日より

1.コリントと地中海




図 1 ローマ時代の陸海交通図 




図 2 コリントの位置



図 3 コリント周辺



図 4 コリントの中心部

はじめに、コリントについてみることとする。コリントは、ギリシアの南部、ペロポネ
ソス半島の北部にあります。人口は、1982では、2万8000人の町です。まず、図
1により、ローマ時代の陸海交通の状況をみてみますと、ずっと東には、パレスチ
ナがあり、その西にトルコ、さらに、その西にギリシアがあります。さらに、その西
にイタリアがあります。つぎに、地中海の島を見てみますと、一番東にキプロス、
つぎがロドス、その西が難破の旅で立ち寄りましたクレタ、それからずっと西にシ
シリー、その南に、小さな島のマルタがあります。
さて、このコリントは、紀元前146年に、ローマにより攻略され、完全に廃墟と化し
ました。それから、102年の間そのままの状態でしたが、紀元前44年になりまし
て、ローマは、その植民地として、昔の街の同じ場所に、コリントを再建しました。

2.パウロが手紙を書いた理由

パウロはこのコリントに、1年と6ヶ月滞在しました。その滞在の間には、ふれな
かったことをそこを去ってからいろいろなことについて、薦めをしたのかということ
について疑問がでてきます。その理由は、パウロがコリントを去って後に、事情
が変わったのだということだ思います。どう事情が変わったのかといいますと、つ
ぎの五つのことがあげられます。約200の経過の後、イストミアの競技が復活した。連合の皇帝礼拝が行われるようになり、ユダヤ教徒、キリスト教徒は次第に厳しい管理体制のもとにおかれるようになった。

そこで、コリントの教会の人たちは、一体、どんなことをパウロに尋ねたのでしょ
うか。それに対して、パウロはどのような回答をしたのでしょうか。それを項目に分けて説明します。
まず、手紙の質問部分は、六つつありました。それはつぎのようなものでした。@夫婦の生活、A結婚、B偶像への供え物、C異言を語ること、Dエルサレム教会に対する献金、Dアポロを呼びよせることです。クロエの人たちと、その他の人たちからの口づての問題は、@党派争い、A近親相姦、B教会員同志の裁判、C娼婦のこと、Dベールの問題、E聖餐、F快楽主義の問題でした。

2.奉仕(ロマ16:1-2)

奉仕ということについて考えてみます。ロマ16:1には、「ケンクレアイの教会の奉仕者である、わたしの姉妹フェベを紹介します」という言葉があります。これは、パウロのローマ教会に対するフェベについての推薦状です。パウロは、彼女を迎えいれてくれるように頼んでいるのです。




1.ケンクレアイの教会跡1



2.ケンクレアイの教会跡2



3.ケンクレアイの教会跡3



4.ケンクレアイの港


5.貨幣
Meinadus.Otto F.A..,"St.Paul in Greece,"p..86.より転載



6.ケンクレアイの海辺



7.海水浴場1



8.海水浴場2

当時、奉仕ということが、一般社会において、どのようになされていたか見てみたいと思います。43年に、コリントに住むユニア・テオドラという女性に対して与えられた、他と比較して最大の碑文が残っています。この碑文には、彼女の徳を最高に称える言葉が刻まれています。テオドラは、コリントの人たちだけでなく、パタラ、ミラ、テルメッソスといった街に対しても、貢献しました。それらの街々に対して寄付などをしたのでしょう。また、それらの街々からやってきた人たちを、コリントにある自分の家に迎え、歓待いたしました。そのようなことに対する感謝の言葉が刻まれています。
ところで、ここで取り上げたフェベはどうでしょうか。彼女も、テオドラと同じころに、コリントの郊外のケンクレアイに住んでいました。パウロは、テオドラに使われている奉仕という言葉を、彼女に対しても使っています。パウロは、そのフェベの奉仕を受けました。その奉仕がどのようなものであったのか、分かりません。フェベは、自分の家をパウロに提供したりはしませんでした。その奉仕は、金銭的なものであったのかも知れません。あるいは、教会と教会との間をつなぐ連絡網をつくったのかも知れません。彼女は、パウロの宣教を助けた唯一の女性ではなかったのですが、パウロが奉仕者という呼び方をしたのは、彼女だけでした。その奉仕は、天に宝を積むための奉仕でありました。言い換えますと、パウロは、一般の奉仕の考え方を180度方向転換させたのです。エリートの男性は、奉仕を行うことにより、自分の支持者をつくり、選挙ともなれば、その人たちの票により
自らの社会的な地位を高めることを目的にしていました。




9.テオドラの碑文

3.競技(一コリ9:24-27,一コリ6:12-16)

はじめに指摘しましたように、パウロがコリントを去ってから生じたことの一つは、個々の街においてだけでなくて、州における全体としての連合の皇帝礼拝がなされるようになったということでした。このことが、ユダヤ教徒やキリスト教徒を悩ませることになりました。
もう一つのことは、紀元前582年の昔からあったイストミアの競技場が、2世紀もの長い空白の期間をおいて、50年代に、イストミアの元の場所に競技場が再建され、そこに戻ってきたことがあげられます。ギリシアのコリントが、紀元前146年にローマにより攻略されて、それ以降、このイストミアという場所では、競技はなされなくなりました。他の場所でなされていました。大きな競技は4年に一度、小さな競技は2年に一度なされていました。この競技は、皇帝礼拝の保護の下になされたのですから、これら二つは、密接に繋がっていました。




10.イストミア競技場1



11.スタートライン



12.ポセイドン神殿跡

さて、つぎは、スポーツの選手が競技に勝って、エウテケという女神から、勝利のセロリの冠をもらっているところめの絵があります。この絵は、コリントの広場から発見されたものです。コリ一9:24-25に、つぎのような言葉があります。「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。」この言葉、この絵にある状況をパウロが知っていて書いたものでしょう。



13.運動選手



14.セロリの冠

そのイストミア競技の復興の第一回の大会委員長は、レグルスという人でありました。その地位は、選挙で選ばれました。しかも、それはコリントの行政長官よりも、上でした。その大会委員長は、コリントに住むローマの市民権をもった人々を接待しました。そのために、莫大な出費となりました。何度も豪華な宴会がもたれました。コリントの教会の人の中にも、少数ではありましたが、その接待を受けた人がいました。
つぎのような絵が発見されました。これは、以上のような宴会に招かれた人たちが、宴会の後、女性と親しくしている状況を描いたものです。当時、コリントに限らず、ローマ社会にありましては、男性は、18歳になり、成人に達しますと、トーガという式服を着て、宴会に出、ご馳走を食べ、お酒を飲み、さらにそれが終わると、女性と親しくするということが、公然と認められていました。そのことが、聖ならざる三位一体(Unholy Trinity)と言われます。ご馳走と酒と女性の三位一体というわけです。コリ一6:12-18にあります「『わたしにはすべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『わたしにはすべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない。食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか・・・・・・・・」このように書かれていることは、当時、コリントの社会のエリートの間で、三つすべてが許されていたご馳走と酒と女性との聖ならざる三位一体の考えを背景において、読みますと、よく理解できます。



15.聖ならざる三位一体


4.市場(一コリ10:25-27)

コリントでの肉屋の表示が発見されました。ルキウス・肉屋と書かれています。ルキウスは名前であり、肉屋は文字はギリシア語ですが、言葉はラテン語です。コリントは、当時ローマの植民地であったので、バイリンガルということでした。たとえば、わたしたちはスーパーマッケットと言っていますが、これは、言葉は英語ですが、文字は片仮名の日本語で書くようなものです。キリスト教徒は、この看板の前に立って、ここで売られている肉は、異教の神殿に捧げられた肉であるかもしれない。これを買って食べてもいいものかどうか悩みました。そこで、そのことについて、パウロに相談をもちかけました。



16.肉屋の看板

Meinardus,Otto.F.A.,"St.Paul in Greece,"p.90.より転載
どうして、パウロはコリントに一年半もいたのに、そのときには、相談をもちかけず、そこを去ってエフェソに行ってから尋ねたのかということが疑問になります。結論は、事情が変わったのだということではないかと思います。どう変わったのでしょうか。
当時のユダヤ教徒に対するローマの政策は、だんだん厳しくなってきました。たとえば、皇帝クラウディウスのときに、ローマの秩序を乱したという廉で、ユダヤ人がローマから追放されました。そして、ついに。紀元70年には、ローマはエルサレムを攻略いたしました。そういった状況を知るために、その具体的な状況を説明します。
さて、ローマ帝国の中の小アジアにサルディスという町がありました。そのサルディスについての記録が残っております。それは、ローマの元老院の決定に基づいて、その町の行政長官がユダヤ人にある特権を与えました。それは、コリントが再建された紀元前44に先立つ紀元前47年のことです。サルディスのユダヤ人に対して、その民族の持っている風俗、習慣に基づいて生活することを保証するものでした。たとえば、一定の場所に集まって住むとか、週一回の安息日を守るとか、ある程度の自治を認めるとかいうものでした。その中に次のようなことも決められていました。ユダヤ人にとっては、異教の神殿に捧げられた肉は穢れたものであり、食べてはいけないものとされていました。そこで、神殿に捧げられていない肉をコーシャーと言いますか、それを売るための売り場を特別に設けて、お役人が管理するととう定めもありました。そこで、ユダヤ教徒は、異教の神殿に捧げられていない肉を、安心して買うことができました。当時は、ユダヤ教徒の一つの党派としてしかみられていなかったキリスト教徒も、その特別に設けられた売り場で、神殿に捧げられていない穢れていない肉を、安心して買うことができした。以上の記録は、サルディスのものですが、コリントについては、記録がないのでわかりません。けれども、同じローマ帝国内の町でありましたから、同じように、コーシャーを売る売り場が設けられていたと思われます。
ここで、ローマのとった異民族に対する政策の特徴を説明しておきます。以上のようなユダヤ人に対する特別扱いは、ユダヤ人に対してだけでなく、ローマは、それ以外の異民族に対しても、、その風俗、習慣を認め、寛容でした。しかし、飴と鞭の政策がとられ、ローマの秩序を乱すものに対しては、制裁を加え、特権を剥奪しました。ユダヤ人に対する制裁がだんだん厳しくなり、コリントでもその傾向にしたがうことが見られるようになった。そこで、パウロが去ってから後に、コーシャーを売る売り場が撤去され、パウロに相談をもちかけました。
このことに対するパウロの回答は、あなたたちがそう信じているように、異教の神なんて存在しないのだから、安心して何でも食べなさい。しかし、そのことで悩む人がおれば、その人を躓かせないために食べないようにしなさい。自分は、そのような人のために、これからは肉は一切口にしないと言い切るのです。


5.夫婦(一コリ7:1-5)                        




17.ディニッポスの碑文

パウロがコリントを去ってから、コリントの有力な市民のディニッポスに対して、表彰の碑が建てられました。ちょうど、時期がコリントの教会の形成にあたります。その碑文は、コリントの町のものだけでなく、十種族のものが発見されており、残りの二つは、まだ発見されていませんが、おそらく十二の種族のすべてから贈られているものと想像されます。それは、ディニッポスが、紀元51、52、55年の三回わたる飢饉に対して、その対策委員長としての功績によるものです。ディニッポスは、それだけではなく、イストミア競技の大会委員長や、コリントのもつとめました。パウロがコリントに滞在していました紀元51年にも、飢饉の対策委員長
をしています。一コリ7:26の「今危機が迫っている状態にあるので」と書いた危機とは、この飢饉のことをさしていると考えられます。そのようなことは、使徒言行録11:28のアガポの予言の中にも出ています。このような飢饉が、ローマ帝国のあたらこちらに広まりました。穀物の倉庫と言われたエジプトにも起こり、農家の人たちは税が払えず、逃亡するようなことがありました。ローマでは、穀物を無償で配給するというようなことをやっていましたから、それ以外のところにそのつけがまわってきました。当然、悪徳商人がはびこり、穀物の値段は跳ね上がりました。その結果、暴動が起こりました。そのため、行政長官の生命が危険に曝されるなところもでてきました。キリスト教徒は、そのにような状況を、マルコによる福音書13章にあるような終末の徴としてみたものと考えられます。コリントも同じような状況でしたから、対策委員長であったディニッポスの功績がいかに大きかったかがわかります。と同時に、そういった社会状勢ですから、小黙示録と言われてマルコ伝の13章に書かれているように、キリスト教徒は、妊娠したり、幼児に母乳を与えたりするときではないと考えていたと思われます。
そこで、コリントの教会の人たちは、パウロに問い合わせたました。こんな時は、終末の時期だから、禁欲の生活に入った方がよいのではないかと。それに対して、パウロは命令として、正常な夫婦の生活を送るべきだと言います。なぜなら、夫の体は妻のものであり、夫は売春婦と関係したりするなど、自分で勝手にはできない。妻の体は夫ものものであり、これまた、妻は勝手にすることはできない。今の危機のために、ときには、性的な関係を絶って祈りに専念しても、それは、一時的なものとすべきである。ただし、人には、それぞれのやり方が許されており、わたしの今のように独身でいてもよいと薦めています。

6.集会

コリントの教会の集まりは、当時の通常の宗教的な集まりとは、全く異なったものでした。まず、コリントの宗教的な行事は、個人的なものであり。集団での礼拝というようなものではなかったのです。つぎに、キリスト教徒は、きまって、週に一度の集まりをもっていたが、他の宗教的な行事ではそんなことをしませんでした。第三は、キリスト教徒の集会には、他の宗教的な行事と異なり、拝む像がありませんでした。したがって、一般の人には、キリスト教徒の集会には、拝む神さまがないので、奇異に感じられたものと思われます。
ローマ帝国は、一月に一度までは、集会を開くことを認めていましたが、それ以上、回数の多い集会は認めていなかったのです。それは、国の秩序を乱すことを企む可能性のあるものとされました。しかし、ユダヤ教に対しては、一週に一度の集会を特権として認めたわけです。ユダヤ教徒の一つの党派として見られていたキリスト教徒も、一週に一度の集会が認められました。しかし、その代わりにに監視の目が厳しかったようです。コリントの集会の人たちは、このような社会の目に曝されながら、礼拝を行なっていました。コリントでは、はじめはシナゴーグで礼拝を守っていましたが、そこを追い出されて、ユストという人の家で礼拝を行なっていました。とりわけ当時の家屋の構造が、容易に家の中に入ることができるようなものであったことが、一コリ14:23-25を読むとわかります。そこに、「信者でない人が入ってきたら」とありますように、家の中に自由に出入りすることができました。したがって、未信者の人や、中の状況を探りにきた人なども、そこにいたこわけです。



18.シナゴーグ碑文



19.シナゴーグ



20.ユストの家跡


7.騒動(使18:12-17)

この個所は、地方総督としてコリントにやってきたガリオンのところに、パウロが連れていかれたときのことが出ています。ユダヤ人たちが、一団となってパウロを襲い、彼を法廷に引き立てていきました。ユダヤ人たちは、「この男は、律法に違反するような仕方で神を崇めるようにと、人々を唆しております」と訴えたのですが、ガリオンは、あなたたちの仲間内の争いだから自分たちで解決しなさいとつっぱねました。すると、人々は会堂長のソステネをなぐりましたが、がリオンは知らん顔をしていたというのが、ここでの騒動の内容です。ここでの騒動についてのガリオンの処置は、重要な意味をもっていました。それは、キリスト教徒に対して、ガリオンは、ユダヤ教徒の一つの党派であるから、ユダヤ人に対して与えられていた特権をキリスト教徒にも与えることを改めて確かめたということです。たとえば、コーシャーの特別な売り場をキリスト教徒も利用できたということです。この地方総督のガリオンは、法律家でありましたし、哲学者セネカの兄弟であり、皇帝クラウディウスが良き友人だと言ったりした大変親しい関係にありましたので、ガリオンの処置は、当時としては皇帝の意志とも判断されたのです。しかし、パウロが去ってから、その売り場が取り払われたことは、今のべたところです。
そこで、この騒動を年表という観点から見てみます。ここに出てくる地方総督のガリオンは、51年7月から、12カ月という任期で、コリントに来ました。ところが、病気のために、任期をまっとうすることができませんでした。そのことを兄弟のセネカが書いています。7月から10月までコリントにいて、パウロがコリントを去る前に、この騒動がありました。このことは、一般の歴史の記録と、聖書の新約の記述とが一致する唯一の個所と言っていいかと思います。




21.ベーマ1

22.アクロコリントとベーマ

8.呪い一コリ12:2-3

鉛でできている呪いの碑文が、二十七、コリントで発見されました。そのうちの十四の碑文が、コリントの町の南にある高さが約600メートル位のアクロコリントの傾斜面にありました。このような呪いは、当時の世界にはかなり広まっていて、千をくだらないものがすでに発見されています。古代世界を薔薇色のように描く作家がいますが、そんなおめでたい状況ではなかったようです。どんなときに呪いの碑文を書いたかといいますと、(1)スポーツの競争相手、(2)恋がたき、(3)訴訟などの社会生活での敵対者、(4)商売がたき、でした。そういった領域で、自分の手にあまる競争相手に、神々の呪いを求めました。鉛の板に釘を打ち付けて呪いました。
このような呪いの碑文には、キリスト教徒の書いたものは無いと思われるかもしれませんが、さにあらず、あちらこちらに存在しています。ということは、新しくキリスト教に入信いたしましても、これまでの異教の習慣を完全に無くしてしまうことはできなかったと考えられます。これは、コリントで発見されたものではないのですが、たとえば、ある女性の虜になった息子の母親が、その女性が嫌いなために、その女性にすさまじいばかりの呪いをかけている碑文が発見されけました。神さまに見捨てられて悪魔のものとなるように、病気にかかり、女性としての働きがなくなり、死んでしまえと言うものです。それがキリストの名によってなされています。パウロは、コリントに滞在中に、おそらく、キリスト教徒の作った呪いの碑文を見たに違いありません。そこで、聖書の一コリ12:2以下を見ますと、ここでは、まずキリスト教徒になっていなかったときのコリントの教会の人たちの状況が描かれています。異教の神々の行進があり、祭司を先頭に、人々は行列をなして歩いてゆき、偶像を拝みました。そして、神々にいろいろなことを祈りました。その中には、自分の作った呪いの碑文の祈りもあつたでしょう。ところが、キリスト教に改宗しました。それで、今度は、いままで異教の神々にお願いしていた呪いを、これまでの習慣から抜け出すことができず、鞍替えして、イエスにお願いするような人たちがでてきました。パウロは、そのことを問題としました。ここで、「イエスはのろわれよ」訳すのは間違いではないか。「イエスよ呪ってください」と訳すべきではないか。聖霊により、キリスト教徒になった人は、人を呪ってそのことをイエスにお願いするようなことはしなくなったのだとパウロは、主張するのです。
これによく似た話は、イエスについてもあります。ルカ9:54-55にに、エルサレムに進んでゆこうとされたイエスに敵対しようとしたサマリア人に対して、弟子のヤコブとヨハネは、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言ったことに対して、イエスは、とんでもないことだと、彼らをひどく叱りました。



23.アクロコリント



24.アクロコリントから



25.アフロディテの像



26.アフロディテ



27.アフロディテ神殿跡

9.聖餐(一コリ11:17-34)

この個所を理解する前提として、初代教会においては、食事と聖餐式とが一緒になされていたということを知っておく必要があります。過越祭の伝統に従い、はじめに、パンを裂き、それから食事に入り、終わりに葡萄酒をいただきました。そのことに関連して問題があり、その解決について論じています。
ここで、普通にパウロがとったとされる解決策は、豊かな人たちが勝手に食べることをしないで、貧しい人たちの来るのを待ってから食べるということと、待つことのできないような状況にあるのなら、家ですませてきなさいということです。しかし、そんな読み方は間違いであり、これで解決にはなっていいません。まず、待ったら食べ物を持ってきた豊かな人と、食べ物を持ってこなかった人との差別が解消するのでしょうか。そのようなことはありません。つぎに、先にきた人が先に食べることが、遅れた人にどうして、そんなに恥をかかせるたことになるのかというのかという疑問がある。さらに、パウロは、単なるエチケットの問題としてこのことを扱っているのではなくて、聖餐式という共同に行なう食事において、豊かな人だけが食べて、貧しい人が食べることができないということを問題にしています。
そこで、パウロの解決は、食べ物を持ってきていない貧しいキリスト教徒のいる前で、食べ物を持ってきている豊かなキリスト教徒が、その食べ物をむさぼり食べていること、それは単なる食事においてではなくて、聖餐式においてて゜あることは、聖餐の精神の基本に反するということではないか。豊かな人は、その持ってきた食べ物を、貧しい人に分け与えなければならないということでないでしょうか。それらの事柄を、聖書に則して見てゆこうと思います。
まず、勝手に食べるという言葉のことですが、このギリシア語のプロランバノーという言葉は、パウロの時代には、時間的な意味は無くなっていました。したがって口語訳のように、先に食べると訳すのは間違っており、この言葉は、自分だけむさぼり食べると訳すべきです。
もう一つは、11:33のエクデコーマイという言葉です。これは、互いに待つと訳さずに互いに分かち合いなさいと訳すべきです。
このように訳しますと、パウロがコリントの教会の人たちに訴えたことが明確になります。聖餐式のはじめに、パンをいただきます。それから食事が始まります。ところが、食べ物を持ってきた豊かな人たちが、自分たちだけが、貧しい人たちを省みることなく、勝手にむさぼり食べています。キリストは、十字架にかかることによって、その体であるパンを与えて下さいました。それなのに、豊かな人たちは、自分たちだけが自分の食欲を満たすために食事をとっています。パウロは、これは、聖餐式のやり方がどうのこうのということではなくて、聖餐ということの精神に根本的に反するとして問題にしました。したがって、お互いに食べ物を分かち合って聖餐を守ることを強く訴えたのです。
パウロがコリントを去ってからどうしてこんなことになったのでしょうか。これには、二つのことがありました。一つは、教会の中での党派争いが起こったことです。自分はアポロにつく、自分はパウロにつくと言う人たちが出てきたことです。もう一つは、飢饉があったことです。パウロのいたときも一回ありましたが、パウロがコリントを去ってからも二回ありました。



28.アナプロガの家

新教タイムズ「聖書歴史地図」新教出版社、175ページより転載

10.教師(一コリ3:3-5)

これまで述べてきたことで、大体お分かりいただいたことと思いますが、ここでの研究の方法は、聖書だけで研究しようとするのではなくて、聖書が書かれ時代と社会において、聖書以外の碑文とか、貨幣とか、文芸上の作品とか、お役所の告示とかのありとあらゆるものを調べつくして、聖書に使用されている言葉が゜、どのように使われているかを研究することにより、聖書をその時代と、その社会の中で、読んでゆこうとするものです。聖書だけが、時代と社会に関係なく、真空状態の中で書かれた筈はありません。
ここでは、そのことを少し詳しく取り上げることとします。弟子マセーテースというギリシア語は、ユダヤ教徒の発明でも、また、キリスト教徒の発明でもありません。アメリカのカリフォルニア州のアーヴィンという都市にあるカルフォルニア大学の研究機関TLGがあります。このTLGは、ホーマーから現代にいたるまでの文献のギリシア語を収録しています。一番新しいは、2000年2月の7600万語収録されたものです。それによると、第一次のの運動が起こりました紀元前ソフィスト五世紀には、弟子という言葉が198回でてきます。次の紀元前四世紀には、85回に激減しています。さらに次の紀元前三世紀になると、ほとんど無くなってしまいました。ところが、それから500年位経ちましてから、第二次のソフィストの運動が起こってきた一世紀には、聖書の新約を除いて、弟子という言葉が181回でてきます。ということは、弟子という言葉は、ソフィストの運動とともに、使用されたのものと思われます。
それでは、このソフィストという言葉は、日本語では詭弁学者と訳されており、あまりいい感じを持たれていません。理屈っぽくて、うまいこと言って相手を煙に巻くことを詭弁を弄すると言います。ですから、尊敬に値するような人間ではないような印象があります。しかし、ここにでてくるソフィストというのは、そうではなくて、尊敬され、当時の社会のエリートでした。外部からやって来た人たちに、町を代表して挨拶したり、町の議会で演説したり、裁判で弁護したりしました。彼らは次の時代の後継者を作るために学校をたて、高い授業料を取りました。しかし若者たちの両親は、子どもの立身出世のために、こぞって高い授業料を払ってでも、高名なソフィストの学校に入れようとしたのです。そのソフィストである先生のところで学ぶ生徒を弟子マセーテースと呼びました。この先生と弟子との関係は、弟子は、先生の弁論について学ぶということだけではありませんでした。弁論はもちろん、服装や歩き方までも模倣しました。そして、その先生の立場を熱心に擁護しました。聖書の新約では、政治的に反ローマの立場をとる人たちの政治の上での集団を熱心党といっておりますが、この熱心という言葉は、一般的には、ソフィストの弟子たちが、自分の先生に対する態度を指したものでした。
どうして、ソフィストのことをここで持ちだしたのかといいますと、第二次のソフィストの運動が起こり、当時のコリントの社会に大きな影響を与えました。とりわけ、パウロが去ってからのコリントの教会に混乱を招きました。そこで、使徒パウロは、その自らの宣教は、このソフィストの活動と全く正反対のものであることを強く訴えようとしたからです。どう違っているのかということを以下見ます。三つのことを挙げることができます。
その一つは、自己推薦の問題です。つぎは、態度です。最後は、ソフィスト相互の争いのことです。
まず、自己推薦の問題を取り上げます。ソフィストがある町にやってきますと、町の人たちに、時間と場所とを定めて、招待状を出します。人々が集まってきますと、お世辞を言ってその町のことを誉め、それから控え目に自分の紹介を致します。パウロはそれを自己推薦と非難していますが、それから、何かお役に立つ話しをしたいのだが、希望のテーマはないのかと申し出ます。行政長官などの選挙の制度についてとか、女性問題についてとか、裁判の方法といったような、集まったム町の人たちがあるテーマを出します。その場ですぐに話すことができることもありますが、できなければ、用意のために一日待ってもらいます。その話した内容が皆に受け入れられれば、その町に留まることになりますが、つまらない話ということになりますと、そのソフィストは、町を出ていきます。受け入れられたソフィストは、それからその町で活躍することになるのです。しかし、使徒パウロは、そんなことをして、コリントにやつてきたのではないのです。広告して人を集め、皆に希望するテーマを出してもらって、受け入れられるように工夫しても宣教したのではありません。彼が言っておりますように、ただキリストの十字架のみを伝えました。
つぎの態度については、つぎのようなことを指摘できます。ソフィストたちは、弁舌が巧みであっただけでなく、容姿から、声音に至るまで、俳優が舞台で演技するようなものであったということです。ファション・ショウの聴衆のように、その姿を見て溜息をついたというのです。パウロの容姿について、聖書以外の外典の「パウロとテクラ行伝」の中に、大変有名なこんな記事があります。「パウロは体が小さく、頭の髪がうすく、両足は曲がり、胴体の格好はよいのですが、両方の眉毛がくっついており、鼻はやや鉤鼻であり云々」と書かれています。ですから、コリントの教会のパウロに対する反対者たちは、二コリ10:10にあるように、「実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」といったことがよく理解できます。パウロは、一コリ2:1にあるように、神さまの秘められた計画を宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかったのです。パウロの目的とソフィストの目的とは、全然異なっています。コリントの教会の中には、そのことを見抜けなかった否戸たちがいました。
最後に、ソフィスト相互の争いについてみてみます。ここで、指摘しなければならないことは、その争いは、大変厳しかったということです。まず弟子のことがあげられます。つぎに、コリントは、今のアメリカのように裁判が盛んになされる社会でありましたから、弁護を依頼する客を求めて、血みどろの競争をしていました。弟子となる生徒を多く抱えるほど、高額の授業料が多く入ってきました。弁護を依頼する客が多いほど、当然実入りがよかったのです。その活動に対して、町から表彰されました。金の冠りを貰ったり、像を造るようなこともあったようですが、そんなことは寧ろ例外で、一般には、碑文が造られました。そのような競争に負けたソフィストは、惨めなものでした。
さて、コリントの教会には、二人の伝道者がいました。パウロとアポロとです。教会では、パウロ派とアポロ派という二つの党派に分裂して争っていました。パウロは、コリントの町のソフィスト同士の争いを教会の中に持ち込まないように、厳しく警告を発しました。一コリ3:4-6において、つぎのように言っております。「ある人は『わたしはパウロに』と言い、ほかの人は『わたしはアポロに』と言っているようでは、普通の人間ではないか。アポロはいったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。」と書いています。ソフィストは、弟子をつくりました。しかし、パウロは、弟子をつくりませんでした。彼は、弟子という言葉を一回も使っておりません。パウロの育てたコリントの教会の人たちは、先生と弟子という関係ではなかったのです。皆が無紙の家族の一員であったのです。ですから、パウロは兄弟という言葉をその書いたものの中に、二十九回使っています。パウロが去ってから、ソフィストの運動の進展により、コリントの教会の人たちが、その影響を受けました。そこで、パウロは、教会の神の家族としての兄弟姉妹の交わりという性格を見失わないように、忠告をいたしました。




29.ヘロデ・アッチカと生徒

30.ソフィストの服装1



31.ソフィストの服装2

32.生徒の父親への手紙


11.神殿(二コリ6:16)

コリントには、いろいろな神殿があります。はじめに、アポロ神殿を取り上げます。ここに祭られているアポロンというギリシアの神さまは、ゼウスとレトの双子の子どもの一人として生まれました。アポロは男性ですが、双子のもう一人は、女性の神さまであるアルテミスでした。生まれたところは、デロスという小さな島でした。アポロは、太陽神であると同時に、芸術、弓術、医療、予言、牧畜、哲学などの神さまです。このアポロは、エロスという恋愛の神様により、金の矢を胸に打ち込まれます。鉛の矢が,ダプネの胸に打ち込まれます。アポロは、その矢のお陰で、ダプネを恋い慕うようになります。反対に、ダプネは、鉛の矢のお陰で、アポを決して好きになれません。アポロは、ダプネを追いかけますが、ダプネは逃げまわります。ダプネの父の河の神は、娘の願いを聞き、ダプネは月桂樹に変わってしまいます。そこで、アポロは、そばにダプネを置いておくために、月桂樹で輪をつくり、頭に飾りました。




33.アポロ1



34.アポロ2



35.アポロ神殿1



36.アポロ神殿2

つぎは、アスクレピオス神殿を取り上げます。アスクレピオスというのは、ギリシア神話における医術の神さまです。アポロとコロニスとの間に生まれるのですが、コロニスが妊娠中に不貞を働いたために、アポロに殺されます。そのあと、その体内から取り出されて、生を受けます。彼は医術をむ学び、名医となります。しかしその卓越した医術は、死者でさえも生き返らせる力を持ったので、ゼウスは、自然の理法が覆ることを怖れてアスクレピオスを雷によって撃ち殺しねそれで、彼は蛇つかい座の星になったということしです。動物では、蛇がその象徴とされ、供え物として、雄の鶏が捧げられました。




37.アスクレピオス神殿跡



38.神殿のきよめの場



39.神殿の食堂



40.奉納物



41.アウグストウス神殿・ガラテヤ想像図


ところが、パウロの時代には、ギリシアの神々と並んで、ローマ皇帝が神として拝まれるようになりました。すでに書いたことですが、パウロがコリントを去ってから、同じころに、相互に密接な関係のある事件が発生しました。第一は、アカイア州の諸都市ごとの地方の皇帝礼拝とは別に、コリントにおいて、連合、すなわち、州の皇帝礼拝が確立されたということです。54年からのその開始は、皇帝とローマ帝国とローマの元老院によって承認されたものでした。それは、皇帝のローマ帝国に対する忠誠を示す重要な行事になりました。この皇帝礼拝は、アウグストゥスの治世に栄え、皇帝クラウディウスの死去により衰え、ドミティアヌスのときに復活したという誤解があります。皇帝アウグストゥスと、その一家の礼拝に始まる皇帝礼拝の普及は、小アジアからギリシアの東部にかけて、急速に広まりました。それは、初期のキリスト教の浸透よりも、はるかに著しいものでした。したがって、コリントでの連合の皇帝礼拝は、コリントにとっての政治的、社会的、財政的な一大行事であったのです。
パウロが、コリントを去ってから後に生じたもう一つの事件は、イストミア競技の復活でした。この競技と皇帝礼拝とは、密接に繋がっていました。
さて、この皇帝礼拝は、すべての市民が参加し、そのためには、祭礼のための身支度をし、冠をつけ、月桂樹やランプがいえの扉に飾られ、お神酒やお香を皇帝の像に捧げなければなりませんでした。それらは、市民の有力な奉仕者により配られました。やり方は、市により異なっていましたが、市民はそれに参加する義務がありました。
このような皇帝礼拝は、ガラテヤ州において、キリストの福音の伝えられる約70年も前の紀元前25年に、皇帝アウグストゥスは、神とされていました。
このことに対して一般の市民とは別に、ある種の思想をもっていた人たちは、どのような態度を取ったのでしょうか。たとえば、スコラ哲学者たちはそれに反対でした。しかし、徹底して反対することはせずに、その信奉者たちには、妥協させ、深入りしないように警告しましたようです。ユダヤ人たちはどうであったかといいますと、パレスチナのユダヤ人も、ディアスポラのユダヤ人も、ともに、皇帝礼拝を拒否しました。しかし、もともとその免除が認められているときには、問題はなかったようです。
キリスト教徒の場合には、ユダヤ教の一派とされていたときには、問題はなかつたようですが、免除されました。しかし、ユダヤ教徒がだんだん特権を剥奪され、また、独立した歩みをはじめるようになりますと、深刻な問題になってきました。
そこで、皇帝礼拝は、皇帝だけではなくて、その家族をもふくむものでした。たとえば、オクタヴィア神殿についてみてみます。ここに祭られましたオクタヴィアは、皇帝アウグストゥスの姉です。最初の夫のまるけるすの死後、アウグストゥス派と、アントニウス派ととの仲の良いことを示す徴として、紀元前44年に、アントニウスと結婚させられました。ところが、二者の関係が悪化するにつれて、紀元前32年に、離婚させられます。彼女は、実子と、アントニウスがクレオパトラに生ませた子度も太刀を引き取って育てました。そのことから、彼女の情け深い行動は、当時の人たちに大きな感動を与えたということです。




42.オクタヴィア神殿



43.柱頭



44.オクタヴィア神殿想像図

12.近親相姦(一コリ5:1-8)

ローマは、わたしたちと同じように、刑事と民事との法律を区別していました。属州の首都であったコリントでは、ローマから派遣された地方総督が刑事の事件にあたりました。刑事において問題とされた犯罪とは、反逆罪、国家財産の横領、属州での強奪、殺人、毒殺、公的安全の侵害、遺言と貨幣の偽造、暴虐、姦淫、名だたる女性への誘惑、そして、ここで取り上げられる近親相姦です。
さて、この聖書の個所に出てくるのは、「父の妻をわがものとしている」ということです。これは、近親相姦であり、しかも、父がまだ存命であると思われますから、姦淫でもありました。このような場合、当時の法律では、島流しと財産の没収と市民権の剥奪という罰が科せられることになっていました。
このような重大な犯罪が、キリスト教会でもなされていました。パウロは、そのコリントの状況を叱責しているのです。しかも、その犯罪を犯した者を誇りにしていました。どうして、そんな人を誇りとしたのでしょうか。彼はエリートであったために、そのことを誇りにしたものでしょう。そのため犯罪の方は、大目に見られたものでしょう。教会の中には、数は少なくても、社会的なエリートがいました。しかし、パウロは、このような重大な罪を犯している人と食事をともにすることなく、教会から排除すべきことを厳しく命じました。

13.人物

(1) アポロ
アポロは、アレクサンドリア生れのユダヤ人です。パウロが、第二回、第三回の伝道旅行の間、シリアのアンティオキアにいたころに、エフェソに到着します。アポロと十二人の仲間は、ヨハネの洗礼を受けた教師でしたか゜、イエスの名においての洗礼は受けていませんでした。アポロ自身は、旧約に詳しく、雄弁な学者でしたが、キリスト教の活動と目的については、ほとんど知りませんでした。そこで、アキラとプリスキラは、「神の道」を説いて、コリントに送り込みます。メシアは、イエスであるとする彼の力強い説教が役立つことになりました。
しかし、コリントの集会は、未成熟な状況であり、アポロをパウロのライバルとみなすようになりました。パウロは、そのような状況が生じたことを憂えました。パウロは、一コリ3:4-9において、「わたしたちは神のために力をあわせて働くものであり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」と言ってさとしました。
聖書にでている個所としては、テトス3:13には、パウロはニコポリスに、アポロにきてくれるように依頼しております。
四世紀の聖書学者ヒエロニムスによりますと、アポロは、パウロとともに、エフェソで伝道した後、コリントの最初の主教になったと言っております。




45.聖アポロ


(2)アキラ
アキラとその妻のプリスキラは、パウロの伝道の同労の友でありました。、アキラは、小アジアのポントス出身のユダヤ人でありました。ローマに移住しましたが、皇帝クラウディウスのときに、ローマからの退去の命令によりまして、41年に、妻とともに、コリントにきました。そして、50年に、コリントにやってきたパウロとともに、テントづくりの仕事をともにしながら、伝道に励むことになりました。その後、パウロとともに、エフェソに行きます。パウロは、シリアのアンティオキアに参りますが、アキラとプリスキラは、そのまま、エフェソに滞在し、パウロの帰ってくるのを待ちます。パウロが帰ってきてから、2年3ヶ月伝道いたします。
アキラとプリスキラが、エフェソでの銀細工師の騒動、あるいは、何か他の危険に巻き込まれたのかどうかはわかりません。しかし、パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、「キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者になつているプリスカとアキラによろしく。命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています」と挨拶を送っています。




46.アキラ

皇帝クラウディウスの死後、追放令は、効力がなくなり、アキラとプリスキラとは、おそらくは、ローマに帰ってきたものでしょう。しかし、エフェソでも。テントを造りながら、伝道の励んだものと思われます。彼らは、ローマとエフェソの間を往き来したものと思われます。二テモの最後のところで、パウロが彼らに宛てて挨拶を書いていますのは、エフェソに残してきたテモテのところにでかけていたアキラとプリスキラに宛てたことが考えられます。
ところで、新約の中には、この二人は、六回でてきますが、そのうち、四回は、妻のプリスキラの方が先にでてきます。妻の方が重要視されていたのかも知れません。




47.聖プリスカ教会



48.内部



49.聖プリスカの受洗



50.教会内部から入り口へ


(3)エラスト
エラストという名前は、新約に三回でてきます。珍しい名前ですから、それらは同一人物ではないかと思われます。
まず、ローマの信徒への手紙の終わりのロマ16:23に、パウロとともに、挨拶を述べています。ガイオとクアルトの名前も一緒にあげられています。ここで注意しなければならないことは、エラストの市の経理係という名称があげられていることです。おそらく、ローマの教会の人たちは、その職名から、その社会的な地位を判断することができました。パウロは、社会的な地位にこだわることはしませんでしたが、立派な仕事をしていることを知らせたものと考えられます。
つぎは、パウロの第三回旅行において、エフェソてのパウロの伝道旅行を助けました。エラストとテモテは、パウロによってマケドニアに派遣され、パウロ自身は、エフェソにとどまりました。銀細工師の騒動の後、パウロは、テモテとエラストの後を追って、マケドニアに行きました。このことは、使19:22にでています。
さらに、パウロが東部への旅行から、ローマに向かった後は、エラストは、コリントにとどまりました。このことは、二テモ4:2にでています。


51.エラスト碑文1


52.エラスト碑文2

コリント



53.船



54.馬車



55.コリント運河1



56.コリント運河2



57.ディオルコス1



58.ディオルコス2



59.レカイオン通り1



60.レカイオン通り2



61.公衆便所



62.プロピュライオン



63.ピレーネの泉1



64.ピレーネの泉2



65.ピレーネの泉3



66.南柱廊



67.議会場跡



68.劇場



69.劇場跡



70.音楽堂



71.音楽堂跡



72.グラウケの泉