はしがき

  ここにでてくる状況は、使徒パウロの活躍したときから約半世紀のへだたりがある。使徒パウロによって、その基礎が築かれたものの、ロー

マ帝国の迫害に加えて、初めの情熱が、教会内部の軋轢や異端の働きらより脅かされていた。一世紀の最後の十年間に、全く新しい状況が

発生しつつあった。パトモスの預言者ヨハネは、そのような状況の中で、それぞれの教会にあてて手紙を書いた。

 わたしたちの時代も、似たような状況がなくはない。一世紀の終わりに、ニ、三世代を経た教会は、何ともし難い恐怖にさらされていた。ロー

マ皇帝のドミティアヌスの治世に先立っていくつかの大災害があり、人々の記憶に新しかったのです。紀元七九年四月二三日のイタリアのナ

ポリ東方の火山ヴェスビオの噴火は、ポンペイやヘルクラネムの破壊だけではすまなかった。というのは、火山灰が風に乗って、エジプトやシ

リアにまで運ばれるにつれて、その大災害のニュースは、古代ローマ世界全体に決定的な影響をあたえたからである。噴火の後に、地震があ

った。さらに、神のお告げを云々する人々によって、これらの災害が、数年前のエルサレムの陥落に結びつけられた。また、紀元六八年に自殺

したといわれるネロは、実際はローマを攻撃していた現在のイランにあったパルティア王国の軍隊を鎮圧するために東方に向かったとする風評

もありました。紀元八十年には、ローマは三日三晩大火に見舞われ、続いて恐ろしい疫病がはやり。紀元八一年まで続いた。そして、その年

に皇帝ティトゥスが死に。その弟ドミティアヌスが帝位についた。この皇帝こそ、自らを「主らして神」と呼ばせた最初のローマ皇帝であった。

1.ドミティアヌス皇帝

 今日、人類は自らの生存を考えなければならなくなっている。この一世紀の聖ヨハネの書いた文書に、今日何かわたしたちに訴えるメッセー

ジがあるのか。このパトモス島の霊感に満たされた預言者による手紙が、地球大の政治的、経済的。社会的危機とたたかっていうるものに、

何の関係があるのか。当時と比べて現代では、福音のメッセージを通して。慰めを見出し、希望と勇気をあたえられる人は少ない。とりわけ、ヨ

ハネ黙示禄は、聖書の新約の中で研究されることが最も少なく、また最も多く誤解されているものである。悲しいことには、自らの考えに基づい

て、宗教的、政治的、社会的な状況を曲げて利用し、そこに溢れる永遠の真理を剥奪してしまった人たちもいる。

 ここでは、メイナードスに従い、黙示禄の中にある霊感に満たされた幻と、エーゲ海のパトモス島のことと、七つの教会という三つの事柄がと

りあげる。聖書にでてくるヨハネという名前は、いろいろな思いを呼び起こしてくれるが、パトモスという小さな島のことは、余り知られていない。

このパトモスの聖書において重要であるということは、何世紀もの間隠されたままであった。十一世紀になってやっと再発見されたものである。

それは、一人のびざんちん教会の大修道院々長が、東ローマ帝国の助けを借りて、その島に立派な要塞のような修道院を建て、それを聖ヨハ

ネに捧げたからである。

 また、十六世紀になってはじめて、西欧のキリスト教徒がその島に大勢でかけてゆくようになった。パトモスについての最近の学問的な関心

は、聖ヨハネがいたことによって神聖視される洞窟よりも、その傍の著名な図書の宝庫である図書館に集まっている。

 小アジアの七つの教会の物語は、信仰と不信仰、確信と動揺を示すものである。初代教会は、聖書における七つの教会の重要性を知ってい

たが、より後のビザンチン帝国の時代や、オスマンの時代になると、使徒との結びつきがだんだん思いだされなくなってしまった。教会のあるも

のは無くなり、それらの位置は、十七世紀中頃になってやっと再発見された。はじめコンスタンチノープル、つぎに、スミルナのトマス・スミス牧

師は、つぎのように言っている。スミルナに住むあるイギリス人の紳士が、熱烈な信仰と、それに加えて、このことは称賛に値するのだが、好

奇心とから、古代の歴史において著名な都市の壮大な遺跡を発見するために、そこに航海を試みたのが始まりであったと。一六七一年四月

に、二人のアルメニア人をふくむ十二のパーティを組んで、スミスはスミルナを出発して、残りの六つの教会を訪ね、それらの位置について明

かにしようとしたのが始まりである。数年遅れて、スミルナのイギリスの領事ポウル・リカウト卿が、スミルナの在外商館のドクター・ジョン・ルカ

牧師に伴われて、スミスのパーティの足跡を辿った。リカウトとルカとは、ほとんど忘れかけられていたティアティラとラオディキアの位置を明か

にした。ティアティラは、アクヒサールというトルコの町になっており、ラオディキアは、廃墟と化していた。一六九八年に、スミルナのエドモンド・

チスハル牧師が、エフェソ、サルディス、ティアティラを訪ねた。十九世紀の始めに、コンスタンチノープルのイギリスのエッチ・リンゼー牧師が、

七つの教会を訪ねた。数年遅れて、一八二一年から、一八四〇年まで、スミルナのフランシス・ブィビィアン・ゼー・アランデル牧師が、はじめて

七つの教会の考古学と歴史とについての学問的説明をなした。その他の十九世紀の旅行家としては、エッチ・クリスマスと、エー・エス・ノーロ

フとがあげられる。しかし、これらの昔の教会を考古学的に研究し、「アジアの七つの教会への手紙」という著書を、ウイリアム・エム・ラムゼー

が出版したのは、二十世紀になってからのことである。第一次世界大戦前では、これらの七つの教会の霊的状況や精神的な強さは、オルガ

女王の秘書ジョージ・ラムキパスの「黙示禄の七つの星」に、巧みに述べられ、解説されている。一九六三年には、イスタンブールのオランダ

教会のバーノーン・ビー・フリン牧師が「今日の七つの教会」という説教のシリーズを出版した。

 ギリシアやトルコにおける考古学上の遺跡への観光旅行が増加するにつれて、七つの教会の歴史と考古学について知ろうとする多くの旅行

者がでてきた。不幸なことには、上述の説明の中にある業績は、大抵の旅行者にとってたやすくは利用できない。というのは、多くは絶版にな

っているからである。そこで、歴史に関心のある聖書の学徒や旅行者にとっての手引きになることを、メイナードゥスは願って、一つの著書をま

とめ、これを、ここで紹介しようとするものである。

  わたしどもは、パトモスには、二回訪ねた。一回目は、一九九一年八月二十三日から九月一日のエーゲ海クルーズにおいてであり、二回目

は、関谷定夫先生をリーダーとする「七つの教会とパウロの旅」においてであった。したがって、一回目は、アテネのピレウス港を出て、ミコノ

ス、クサダシを経て、パトモスに寄港したものであり、二回目は、ミレトス、クサダシを経て、サモスから、パトモスに上陸した。七つの教会の遺

跡は、専用車で、関谷先生の解説を受けながら、イスタンブールを振り出しに、ダーダ-ネルス海峡を横断し、ペルガモン、ティアティラ、スミル

ナ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアノの順に訪ね、最後にエフェソに着いた。