T パトモスの聖ヨハネ
1.七つの手紙の著者
「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになった」
(黙:1:1)のこの著者ヨハネとは、誰のことか。彼は、自分のことをキリストの僕と言っており、自らをそのあてて書いている人たちの
兄弟とも言っている。(黙1:9)明かに、著者とそれにあてて書いている人たちとの間には、区別がない。そこで、彼はローマの官憲
の前でその信仰を告白し、キリストを主と信ずる者であり、パトモスに追放され、そこで試練に遭遇し、忍耐をもって神の国の到来を
待望していたと想像する。(黙1:9)彼は、「預言の言葉を朗読する人」(黙1:3)であり、神よりあたえられた霊感によって書いたことを
主張する。(黙22:18)このような文章から、わたしたちは、彼はある程度、ヘブル語を知っていた。したがって、ユダヤ人のキリスト教
徒であり、おそらくディアスポラでぁったと思われる。彼は、ほとんど引用していないが、旧約をよく知っていた。また、使徒パウロの
書いたものもよく知っていた。そのパウロの書いたものによって、七つの教会への手紙を書くのに霊感をあたえられたものであろう。
聖ヨハネは、皇帝礼拝が際立った宗教であった時代に生きた。それによって、「ローマの湖」といわれる地中海の周囲に住んでい
たさまざまな人々のローマに対する忠誠をためすことができた。キリスト教徒は、この皇帝礼拝に加わることを拒絶した。というの
は、それは市民に誓いをたてさせ、像の前の裁断の上に皇帝を神と崇めるために、香とお神酒を捧げることを要求したからである。
ローマの官憲にとっては、この拒絶は、不忠と謀反を意味した。キリスト教徒たちが、暗いときに、こっそり会合をもっていたため、官
憲の疑惑はなおさら増幅した。
小アジアのキリスト教徒の行動をめぐる、官憲の困惑ぶりが、その時代に書かれたものに残っている。これは、ビテニアの地方総
督であった弟の方の小プリニウスが、皇帝トラヤヌスに送ったものである。それには、こうある。
「わたしの主君よ、わたしはおかしいと思うことは、何でもお尋ねすることにしています。それで、悪いことをしていて
も悔いればゆるされるということは、疑問の余地がないものと思います。また、キリスト教徒が、キリスト教徒であるこ
とをやめると、利益になることも当然のことだと存じます。犯罪を犯していないのに、ただキリスト教徒という名前だけ
で、罰せられたりすることはないということも、疑う余地のないものと信じております。わたしの取り扱ったキリスト教徒
として責められた人々が問題とされているのは、他愛もないもので、定められた日の朝集まったり、神としてのキリス
トに讃美をかわるがわるに捧げたりするにすぎません。また、罪を犯すことのないように、他人のものを盗んだりしない
ように、約束を破らないように、求められるならばお金を喜んでだすようにと、神に誓約します。このどこが悪いのです
か。それが終わると、わかれて、一緒に食事をします。その食事は、全く普通のものです。そして、彼らは言いまし
た。こんなことすら、あなたの集会を禁止するご命令によりまして、やめましたと。そこで、わたしは、執事とよばれて
いる二人のお手伝いを拷問にかけることによって、何が本当のことかを明らかにすることが必要であると思いました。
その結果、わたしはねじまげられた余分な嫌疑以外、何も見出すことはできませんでした。それで、詮索を延ばして、
ご相談申し上げる次第でございます。わたしにとりましては、このことは慎重にしなければならないと思われるからで
す。」
彼は、キリスト教徒であると三回いい続けたものは、処刑した。それ以外は、キリスト教徒であることを認めたとしても、問われた
ときに、キリストを呪い、神々や皇帝の像に礼拝を捧げたものは除かれた。というのは、小プリニウスの考えによれば、真のキリスト
教徒はそんなことはしないからである。
聖ヨハネが、小アジアの海岸から離れたところにあり、エフェソの南西約百キロ近くのところにあるパトモスの島に流されたのは、
そのような政治的風土においてであった。エーゲ海の小さな岩の島への追放は、当時としては、ごくありふれた処罰であった。そ
のことによって、市民権を喪失するばかりでなく、財産を全部奪われることになったのである。皇帝ドミティアヌスは、新しいキリスト
教の信仰をもった廉で、姪のフラヴィアドミティアラをポンティアという小さな島に流し、その夫を処刑した。兄の方の大プリニウスに
よると、パトモスは、ときどき、追放の場所に使われたにすぎないと言っている。処罰は、罪人の一生をかけて継続された。通常
は、島に住んでいる人々との間のゆききが認められていたが、ある場合には、強制労働につかせられた。多くのキリスト教徒の経
験したのは後者であった。そのうちで、最も重い罰は、足枷をはめられ、わずかなものを身にまとい、食べ物はろくにあたえられず、
暗い牢獄の中でじべたで眠り、兵士の監督の下で鞭たれながら仕事をさせられるという恐ろしいものであった。聖ヨハネが言ってい
る「苦難」がアジア全体のものであるかどうか、パトモスの島における特定のものかわからないけれども、その「苦難」の内容は、以
上のようなものであった。
キリスト教徒であることは、常に危険なことであった。ローマの官憲は、国の中において行われている祭儀をリストにあげていた
が、キリスト教はその一つに過ぎないのではなく、特別なものであった。イエス・キリストの時代から、ステファノ、ヤコブ、ペトロ、パ
ウロといったキリスト教の伝道者たちは、みんな殉教の死を遂げた。生き残るためには、キリスト教徒は、自分を隠さなければなら
なかった。一世紀の終わり頃までに、皇帝礼拝がすべての人に要求された。パトモスの預言者ヨハネが、エフェソ、スミルナ、ペル
ガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアといったローマの属州にある七つの教会のキリスト教徒に「妥協す
るな」と決然としたメッセージを送ったのは、まさに、この点についてであったのである。
黙示禄にでてくる小アジアのフラウィウス家帝統の一世紀後半の迫害は、キリスト教徒を絶滅しようとする組織的な試みであっ
た。したがって、二世紀に起こった激しくはあったが、散発的な迫害とは異なるものである。けれども、それは九六年に中止された。
皇帝ドミティアヌスが処罰し、寡婦になった姪のドミティラ解放奴隷ステファナスにより暗殺されたからである。キリスト教徒は、それ
に続く皇帝ドミティアヌスの法令のすべてが廃止されることによって、大いに恵まれることになった。皇帝ドミティアヌスによって定め
られたものではないにしても、迫害は、その皇帝の名前と考えとに密接に結びついていた。聖ヨハネに対する処罰は、明らかに皇
帝ドミティアヌスによるものであった。そこで、その法令がすべて廃止されるとともに、聖ヨハネは釈放された。
2.聖ヨハネについての言い伝え
二世紀の中葉を過ぎてまもない頃、百三十五年にエフェソを訪れた殉教者のユスティノスは、黙示禄は,「キリストの使徒であっ
た聖ヨハネ」によって書かれたと述べている。この意見は、初代教会においては広く受け入れられるようになっていた。そして、今で
も、その支持者がいる。ところが、二世紀の頃、ヒエラポリスの監督をしていたパピアスは、アジアには聖ヨハネという同じ名前が二
つあり、エフェソにその二つの墓があり、そのことは十分注意しなければならないが、今日まで、両方とも聖ヨハネの墓と言われて
いるといつている。にもかかわらず、キリスト教の伝統は、聖ヨハネという名の一人の人物に限定し、それはゼベダイの息子であ
り、ヤコブの兄弟、キリストの最愛の弟子であり、使徒であり、伝道者であり、神学者であり、長老であり、パトモスの預言者でもあ
ったとする考えを無批判に受け入れてきている。
ここでの課題は、一人の人に結びつけられたいろいろな特徴を解明したり、すべての集められた聖ヨハネにまつわる言い伝えを
記録することでもない。ここでは、パトモスの聖ヨハネの流刑と、エフェソでの牧会とに関することに限る。その主な聖書以外の文献
は、外典であるヨハネ行伝と、その弟子であったプロコロによって書き留めたとされている「神学者、使徒、伝道者、聖ヨハネの旅と
奇跡」である。
言い伝えによると、聖ヨハネはエフェソにやってきて、そこで三つの手紙と福音書を書いたとなっている。ある資料では、十字架上
のイエス・キリストによって言われたことにしたがって、主の母マリアを伴ったとする。
イエスは、母とそのそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取
った。(ヨハ19・26-27)
別の資料によると、聖ヨハネは、母マリアが六十七年にエフェソに住居を定めてから、エフェソにきたとなっている。
スポと、ローマの総督であったその夫の二人を回心させることとなった。聖ヨハネの使った昔から伝わる洗礼槽が、スカラにある聖
ヨハネ教会の近くに柵で囲まれて残っている。
パトモスの島のアポロの神殿の祭司たちは、聖ヨハネが島の指導的な役割を果たしている市民たちをキリスト教の新しい信仰に
導いたことを知ったとき、島の有名な魔術師であったキノップスに、使徒がこれ以上の働きをしないようにしてくれと頼んだ。それ
で、キノップスは、パトモスの大勢の人の前で聖ヨハネに挑んで、自分の魔術の力を誇示しようとした。キノップスは、これまで何度
かやったように、海に飛び込み、それからまた再び、姿を見せようとした。けれども、使徒は、その両腕を十字架の形にして伸ばし
て、「おお、アマレク人を負かした力を与えられたモーセのときのように、おお、主イエス・キリストよ、キノップスを海の深みに沈め、
二度と太陽を見ることができず、生きている人たちと交わることのないようにしてください」と大声を出して祈った。使徒が語りおえる
と、海はどよめき、キノップスの飛び込んだところには渦がまいた。キノップスは海底に沈んでしまって、再び現れることはなかっ
た。パトモスの言い伝えによると、スカラ港には、埠頭から三百メートル離れたところに岩が沈んでいるということであり、呆然自失
したキノップスかのごとくに、白いプイがあり、その岩の位置を示している。漁師によると、この岩の傍でとれた蛸は、キノップスの邪
悪によって、味が悪くて食べられないということである。また、パトモスの南部の岬の一つのゲノウパスには、その魔術師の名前が
つけられている。そこは、荒れ果てた、険しい場所であるが、そこの洞窟にその魔術師が住んでいたということである。
グリコーへの途上のコーラの南東数キロのところに、シカミアに、聖ヨハネの白い礼拝堂がある。忠実に守られてきたその地方の
言い伝えによると、ここで聖ヨハネは、島の人たちに洗礼を授け、病を癒し、人を食べる怪物から解放したと。
聖ヨハネによって回心したパトモスの人たちは、聖ヨハネがそこを去ろうとしていることを知ったとき、それによって、堅く信仰に留
まるように、聖ヨハネが神の子についてみた奇跡と、聖ヨハネが聞いた主の言葉を書き残すように願った。そこで、聖ヨハネの弟子
のプロコロは、町から1キロ離れた静かな場所に、使徒と共に行った。長い断食と祈祷をして、使徒は、紙とインクとを持ったプロコ
ロを傍らに座らせ、立ちあがり、しっかりと天を仰ぎながら、福音をプロコロに口述した。「初めに言があった」(ヨハ1・1)と。
スカラ港と修道院の間にある洞窟は、第四福音書の書かれた場所でもあるとする言い伝えがあるが、そこは黙示禄が書かれた
場所である。中世初期から今日に至るまでのギリシア正教会がうみだした神聖とされるものをすべてが収められているが、十二世
紀の修道士ディオニシウスによって書かれた「中世へのビザンチン案内」は、つぎのような説明をしてくれている。
福音を書くにあたって、「伝道者の聖ヨハネは、洞窟の中で恍惚状態になって座っていた。聖ヨハネは、天に向かって
後ろにをもたげ、右手を膝におき、左手は聖ヨハネの前に座っているプロコロの方に差し伸べていた。」黙示禄を書くに
あたって、「聖ヨハネは洞窟に座し、後ろをみ、恍惚状態にあった。彼は雲の上に座り、白い衣をつけ、金の紐のつい
た帯を締めているキリストを見ている。キリストの右手の中には、七つの星があり、その口からは尖った剣がでてい
る。彼のまわりには、幾つかの金のランプがあり、彼から大きな光が放たれている」と。
言い伝えによるヨハネの流罪の期間は、まちまちであるが、多くの資料は、十八ヶ月としている。二世紀のリオンの主教であった
イレネウスによると、五年間としており、七世紀の「クロニコン・パスチェル」の匿名の著者によると、十五年としている。ペタウの聖
ヴィクトリヌスは、聖ヨハネは、パトモスで鉱山に送られて働いたとしている。ドミティアヌスの死と、それに伴う流罪からの釈放後、
聖ヨハネはエフェソに戻った。そして、四世紀の教会史家のエウセビオスによると、「アジアでの教会を治めた」としている。イレネウ
スは、「アジアでの長老はすべて主の弟子ヨハネにはかり、それは皇帝トラヤヌス(九八-百十七年)の時代まで続いた」と書いてい
る。アレキサンドリアのクレメンス(二世紀)は、エフェソ近隣地域の主教を任命し、全く新しい教会をつくった」と書いた。ある日、新し
く建てられた教会の一つを訪問して、「立派な身なりをしており、品位のある顔つきの熱心な気性の若者」をある主教に委ねた。主
教はその若者を教育し、最後には、洗礼を施した。ところが、その若者は教会から離れ、遂には盗賊の頭にまでなってしまった。聖
ヨハネは、この教会に戻り、聖ヨハネが任せた若者のことを主教に尋ねた。すると、主教は、「その若者は神に対して死んでしまっ
た」と答えた。このことを聞いて、年老いた使徒は、馬を駆り、でかけていって若者にあい、若者の信仰を回復させた。
国は外部から教会を脅かしていたが、異端は内部から教会の安定と一致とを損なうものであった。エウセビオスは、つぎのように
書いている。ある日、使徒ヨハネはエフェソで公衆浴場に入ったが、そこで異端者のケリントスを見た。それで、使徒は跳び上がっ
て逃げた。一緒に同じ屋根の下にいることが耐えられなかったからである。聖ヨハネは一緒にいる人たちに、同じようにするように
薦めて言った。「逃げよう。真理の敵であるケリントスが内にいるかぎり、公衆浴場が倒れるといけないから。」
聖ヨハネの死については、わたしたちはあまり知らない。初代教会は、「聖ヨハネは、主の御胸にいこい、主の聖なるものであ
り、(出39・30)また殉教者であり、教師であった。エフェソに眠る」とする。