U パトモス島
1.歴史的概観
南北に十六キロ、東西に十キロの島であるパトモスは、エーゲ海の島の中で最も小さいものの一つである。火山島であって、植物は
生えず、岩ばかりの島である。聖ヨハネがそこに流され、そこで聖ヨハネによって書かれた黙示禄が聖書の中に入れられることがなかっ
たならば、その゜島は、単に、小アジアの沿岸から離れて存在する多くの島の一つにすぎなかったであろう。けれども、聖書との結びつき
があるために、パトモスはキリスト教の聖地に変わった。
パトモスの歴史の始めについてはほとんど知られていない。ミケーネと幾何学様式の時代の陶器のかけらが、紀元前十四世紀から八
世紀にかけて、人が住んでいたことを証明している。考古学的調査の結果、アルトミスやアポロの祭儀のあったことが確認されている。
また、紀元前五世紀には、トゥキュディデスにより、さらに紀元前一世紀には、ストラボンによりよって触れられている。わたしたちは、聖ヨ
ハネのこの島での経験から知るように、ローマの官憲は、そこを流刑の場所として用いた。七世紀から十一世紀にかけて、おそらくアラブ
の海賊の侵略によって荒廃したようである。十世紀の初期に牢につながれた主教の説明によると、パトモスの島は、「わたしたちは、真
に痛ましい試練に耐えなければならなかった。というのは、その場所は雨が降らず、渇きが囚人を苦しめたからである」と言っている。一
〇八八年には、聖クリストドウロスが、ネスティア港の近くに、有名な聖ヨハネ修道院を建てた。しかし、幻しによって警告されたために、
その修道院を島の第二番目に高い地点に移し、要塞化した。
クリストストドウロスは、ビティニア州にある今のイズニクであるニケヤに一〇二〇年三月一六日に生まれた。彼はブルサの近くのオリ
ンパ山で隠遁生活に入り、その後、ユダヤの荒れ野で世捨て人の生活を送った。コンスタンチノープルの大主教であったニコラス三世(一
〇八四-一一一一年)は、彼を修道院々長に任命し、ミレトスの近くにあるラトマス山の二十の修道院の責任者とした。ところが、これらの
修道院は、セルジューク・トルコにより蹂躙されっぱなしであったので、パトモスに一つの修道院を建てることを決意した。彼は、皇帝アレ
キウス一世コムナスによって、財政上の援助を受けた。それだけでなく、その皇帝は、そ修道院々長に、一般の人たちと一緒に住み、修
道院生活の厳しさを和らげるように勧めた。クリストドウロスは、一九一三年に、エウボイア島で亡くなった。しばらの経ってから、その聖
骨がエウボイアからパトモスに移された。そこで、その聖骨が、まもなく癒しの奇跡を働くということで評判になった。その聖骨をパトモス
に移したことのお祭りが、十月二一日に祝われるのである。
その修道院は、まもなく、ビザンチンの皇帝と総大主教との財政的な援助を受けたために、エーゲ海における最も著名な宗教、文化、
学術の中心となった。修道士は、皇帝からの許可によって、「永遠にわたる絶対的支配者の権限」をもつパトモスの支配者になった。た
びたび海賊に脅かされたり、働く人が不足したり、近隣の青磁か主教の妨害があったけれども、修道院はその世紀を通じて存続した。一
二〇七年に、ベネチア人がビザンチンからパトモスを奪い取った。一四五三年のオスマン・トルコによるによるコンスタンチンノープルの陥
落後は、一四六一年には法王ピウス二世、一五一一三年には法王レオ十世が、それぞれ島と修道院に対して、保護の手を差し伸べ
た。一五三七年には、パトモスは、トルコによって占領された。その後、修道院はトルコに一年毎のみつぎ物をおさめることになった。けれ
ども、一般的には、オスマン・トルコの支配下にあって繁栄したといえる。修道院の威信は、ローマ法王やマルタの聖ヨハネの騎士団との
良好な関係により、パトモスの船団は、騎士の旗をひらめかせながら、地中海や黒海を何の妨害もなく航行できた。修道院は、エーゲ海
の島々であるサモス、パロス、ミロス、ナコス、シフノス、イカリア、アモルゴス、そして、イオニア海のザキントスから、多くの財宝を獲得す
るにつれて、その富も威信も増大した。一六九五年には、フランシスコ・モロシニに率いられたベネチア人が、島に侵入し、コーラを奪取し
た。その被害が大きかったので、島の繁栄していた海洋貿易は絶滅に瀕した。その打撃から回復するために、数年を要した。聖ヨハネの
修道院にある聖バシル礼拝堂の壁には、一人の修道士があらゆる形と大きさの船を示す戦争の絵を描いている。ある船は、装備がな
く、帆も巻かれ、錨をおろしたままになっている。これは、港に停泊している間に、奇襲によって捕獲されたことをあらわしている。
このようなベネチアの奪略がうまくいったにもかかわらず、島は一八二一年まで、トルコの支配下にとどまっていた。そして、一八二一
年に一時的に独立した。そのことに尽くしたエマヌエル・クサントスとデメトリオス・テメリスに感謝しなければならない。しかし、一八三二
年のコンスタンチノープル条約によって、再びトルコの島になった。一九一二年にはイタリアに併合されたが、第二次大戦後は、一九四七
年のパリ講和条約によって、ギリシアの一部になったのである。
2.黙示禄の修道院
島は、古代の町のあった峡谷によって、ほぼ同じ面積の二つの部分に分かれる。現代の町、スカラは小さな港から、島の金融と観光
の中心へと発展した。スカラから道を登ってゆくと、黙示禄の洞窟のある修道院につく。その洞窟の北に、クリストドウロスが十一世紀に
聖処女と、アレキウス一世コムメナスの母とを記念して、聖アンナ礼拝堂を建てた。一七〇二年に、エム・ド・ターネホルトが洞窟を訪ね
たときには、みすぼらしい住居にしかすぎなかった。その洞窟は、聖ヨハネ修道院の大修道院長によって、サモスの主教に贈られてい
た。大修道院長は、旅行者のターネフォルトに洞窟の岩の断片を手渡し、これは悪しき霊を追い払い、病を癒すことを告げた。数年経って
から、洞窟はパトモスの人たちに返された。というのは、リチャード・ポコックが一七三九年にその島にやってきたときには、洞窟は大きな
修道院に付属する神学校になっていたからである。
一七一三年に、マカリオス・カロゲラスによって黙示禄の修道院の中に、パトモスの学校が造られた。この学校は、まもなく優秀である
という評価を獲得した。その理由は、一七三一年に、バジル・グレゴリー・バスキィが、パトモスにきたときに、「トルコのくびきの下にある
ギリシア人にとって、古代ギリシアの役割を担っている」と書いたからである。近隣の島々では、パトモスは、「エーゲ海の大学」として知
られ、ギリシアの人たちは、ここで勉強させるためにその子弟をここに送ったのである。十九世紀の中葉になって、主に、他にできた学校
との競争に耐えられなくなったという理由により、廃校になった。第二次世界大戦後になって、新しいパトモスの学校が建てられ、そこに
神学校も併設された。
洞窟の近くには、聖アンナの礼拝堂だけでなく、聖ニコラスと聖アルテミウスの二つの礼拝堂がある。現在、聖ヨハネの修道院の大修
道院々長をしているアーチマンドライト・テオドリトス・ボーニスは、聖なる洞窟について、つぎのように書いている。
聖アンナの教会の右に、聖ヨハネが啓示をみ、それを書き表したもの凄い洞窟がある。畏れに満たされて、この聖なる岩に
近づく。わたしたちは、岩から削られた小さい半円形の天蓋を見分けることができる。偉大な幻をみた聖ヨハネは、頭をそこ
に休めるために使った。その天蓋の上には、刻まれた十字架があり、それに視線を後ろに走らせると、聖ヨハネの聖なる手
が置かれていたであろう個所がある。聖ヨハネが跪いて祈ったり、立ちあがろうとしたときに、その支えとなる刻まれた柄を
みることができる。右手の柄の上に、岩でできているブックスタンドがあり、そこでプロコロは、先生の口述した黙示禄を書い
た。最も大きな感動を覚えるのは、岩の中の物凄い裂け目である。それは、聖ヨハネが休んでいた上の南から北にかけて
伸びてり、岩を三つにわけている。この岩は、聖ヨハネが「わたしはアルファであり、オメガである」という神の声を聞いたとき
にできたものである。
洞窟の中の最も目立つイコンは、聖ヨハネにあらわれた啓示を示し、正面にある恍惚状態になって、使徒がキリストの御足に横たわっ
ていることを描いているものである。(正面)イコンの上部には、王座についたキリストが示されている。「足まで届く衣を着て、胸には金の
帯を締めておられた。その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬された真鍮のよ
うに輝き」 (黙1・13-)と述べられている。右手には七つの星をもち、左手には死と陰府の鍵をもっていた。その口からは鋭い両刃の剣が
でていた。キリストの周りには、その手に七つの教会をもつ七人の天使と、その前には七つの燭台があった。
3.聖ヨハネの修道院
黙示禄の修道院の向こうに、新しいパトモスの学校がある。そこで、ロバに乗ってゆく小道が、大通りを歩いてゆくと、まもなく、コーラ
の村に到着する。そこには、東地中海における最も印象的な修道院の一つである要塞の聖ヨハネの修道院がある。
こここにある聖ヨハネ教会は、真中の中庭のすぐ左にある。玄関先の外側は、十七世紀から十九世紀にかけての壁画で飾られてい
る。そのうちの最も古く、最もよく保存されているものは、外典にある聖ヨハネの生活の状態を描いているものである。左から右へと順番
に、エフェソでの若いドムヌスを立ち返らせた奇跡、エフェソからパトモスへの船旅で海に落ちた若者を助けた聖ヨハネ、パトモスの魔術
師キノップスの死が描かれており、南側には、眠りに陥っている聖ヨハネが描かれている。玄関先の外側の右、すなわち、南側のドアか
らは、聖クリストドウロスの小礼拝堂にゆくことができる。そこには、大理石の石棺の中の木製の棺に、クリストドウロスの聖骨が納められ
ている。十八世紀の銀でメッキされた装飾は、スミルナの鍛冶屋がつくったものとされている。
聖ヨハネ教会の玄関先は、十九世紀初期の聖書の新約の状況をあらわす壁画で飾られている。ここで注目すべきは、ヨハネによる福
音書を手にしている大きな十一世紀の聖ヨハネのイコンである。また、十七世紀-十九世紀の壁画で飾られている祭壇には、多くの貴重
なイコンがある。
その建設から今日まで、聖ヨハネの修道院は、約九百にもおよぶ写本と、二千以上の古い印刷された本のある図書館で有名である。
最も古いテキストは、写本のコーデックス67の紫色の羊皮紙に書かれた六世紀初期の聖マルコによる福音書の断片である。この断片
は、三十三枚あり、その残りの部分は、レニングラードやウイーンの図書館、大英博物館、ヴァティカン、アテネのビザンチン博物館にあ
る。その他の古い時代の貴重なヨブ記の八世紀のテキスト、コーデックス171や、神学者である聖グレゴリウスの論文をふくむ十世紀の
コーデックス33などがある。精巧なイコン、服地、衣服、刺繍などが蒐集されている修道院の宝庫は、ロシア、モルダビア、ワルシャワ、
アトス山、イタリアからの贈り物とあわせて、世界における最も優れたビザンチン芸術の総結集である。
聖ヨハネの修道院は、イディオリスミックと言われる。これは、修道士は、それぞれ個人の財産を持っており、自分の部屋で食事をと
り、修道の程度を自分自身で決めることを意味している。修道院は総大主教の下にある建物であり、コンスタンチンノープルのギリシア正
教会の下にある。この修道士の人々の中には、ティアティラとイギリスの大主教であるエッチ・ビー・アセナゴラスや、フィンランドのヘルシ
ンキの主教であるエチ・ビー・ジョーンといった著名な人々もいる。
4.パトモスへの旅行家
十六世紀にはじまって、西欧の人々は、パトモスに魅力をカンズルになった。ラインホルド・ル-ベナウが、一五八九年に、ポルト・ドミテ
ィアノとして知られていたパトモス港に着いたときに、ジョアニティ・ド・パティナという名の修道士の出迎えを受けた。彼は、修道院で福音
書と黙示禄とを書いた聖ヨハネの手を示された。そして、この手の爪が今でも伸び続けるので、時を決めて爪を抓むことが告げられた。二
十年後に、サンディズがその島を訪れた。十七世紀には、この島は小アジア、ロシア、エジプト、キプロスといった多くの都市と商業取引
をするようになっていたことから、このときは、修道士は船長であり、承認でもあることの責任を負わせられていた。サモスの大主教のヨセ
フ・ゲオギレネスは、一六七七年に、パトモスについて書いたものを残している。フォーカスの荒れ果てた村で、彼は廃墟のはざまに、一
つの教会をみた。
みんなは言っています。それは、聖ヨハネの時代に建てられたものだと。そして、説教壇のようなものを示しました。・・・・・・
ディアコプティの港の傍に、非常に高い険しい岩があり、それはキノップスと呼ばれています。ここで、悪魔にとりつかれた
魔術師キノップスが大きな洞窟の中に住んでいました。好奇心で、彼らは一人の人を洞窟の中に、何があるかを見るため
に、ロープにつるして下ろしましたが、引き上げると、その人は死んでいました。
一七〇二年に、パトモスを訪れたピトン・ド・ターネフォルトは、修道院の鐘に驚かされた。というのは、質問に対して、トルコ人もまた聖
ヨハネを預言者として尊敬し、そのため、修道士が鐘をつくことを許しているということであったからである。このときには、修道院の中に
は、六十人を超えることはなかったが、外部の人も含めると、修道院に約百人位の修道士がいた。一般の人たちは、ターフネルトの推定
によると、パトモスでは、男性はやっと三百人ということであった。そして、一人の男性に対して、少なくとも、二十人の女性があったという
ことである。しかも、「女性たちは自分の意志によったわけではないが、生まれつき美しいのに、余分なお化粧をし、ぎょっとさせられるよ
うなものであった」ということである。「伝染病のために死んだ」ので、二百五十の礼拝堂があるのに対して、聖職者は十人しかいなかっ
た。パトモスには、トルコ人も、西ヨーロッパ人もいなかった。
一七三九年までに、修道士は二百人にもなり、そのうちに十人は、聖職者であった。リチャード・ポコックは、その年には、人頭税は百
六十人しか納めていなかったが、コーラには、約七百の家屋があったと推定している。一般的にいって、その島の財産は、特に修道院の
財産は、海賊によって絶えず脅威に曝されていたために、一七二七年に、ハプスブルク皇帝チャールス六世ノ差し伸べた保護により、部
分的ではあるが、守られたものである。
十九世紀には、修道院図書館の名声が高まり、聖書や古典の批評的な研究に対して、写本をえることに興味を持った西欧の蒐集家
をひきつけはじめた。その宝物と写本を打って、利益をえようとする修道士の誘惑に気づいた大修道院々長は、つぎのような文書を、図
書館のドアに張りつけた。
ここにある注目すべき写本は、どんなものであれ、賢明な人にとっては、金よりも尊重すべきものです。だから、あなたの
生命以上に注意して守りましょう。というのは、これらのものがあるからこそ、この修道院は、全世界の注目を集めているか
らです。 一八〇二年八月
一八一〇年に、エドワード・ディ・クラークが、この図書館を訪れた。そして、「いろいろな大きさの本が、乱雑に詰め込まれているのを
みてた。」彼は非常に貴重な写本の幾つかをイングランドに持って帰ってしまった。そんなことがあったにもかかわらず、シナイ写本を発見
したコンスタンチン・ホン・ティッシェンドルフは、四十年も後になって、「この図書館は、東方での議論の余地のない最も豊富なものの一
つである」と指摘している。ホン・ティッセンドルフは、キリスト教オリエントにあるほとんどすべての修道院図書館を調査した結果、そうい
う発言をしているのである。ホン・ティッセンドルフは、二つの黒い岩を示された。その一つは、その母親の呪いによって、岩になった不従
順な娘であり、もう一つは、聖ヨハネの確信に満ちた目によって、形を変えた偽の預言者であるという説明があったと。十九世紀の中葉、
ミュティレーネで、イギリス副領事をしていたシー・ティ・ニュートンによると、オスマン・トルコのミュディルは、パトモスの名前だけの支配
者であって、パトモスに住んだことはなかった。事実は、島は、「最も豊かであり、最も不正直である」三、四人の大金持ちのギリシア人
の経営するデマルキアという会社によって支配されていたということである。
パトモスを訪ねた旅行家のほとんどは、異口同音に、聖ヨハネの修道院の屋根から見られる、全くユニークな眼下に繰り広げられてい
る光景のことを取り上げている。北西には、イカリア島の低い水平線があり、その北には、サモスの頂きとマイケールの岬が見られる。さ
らにその南東には、レロス島があり、その先には、カリムノス島の五つの頂上を見渡すことができる。南西には、アモルゴス島が横たわ
っており、遠くのサントリーニやテラの火山島が展望できる。海は無数の小島でちりばめられており、深い青い海水がその間に見られ、そ
のような光景が全体を形づくっているのである。
このような光景が、太陽の光に照らされているかと思うと、嵐へとめまぐるしく変わることによって、聖ヨハネを感動させた光景であった。
ある旅行家は指摘するのである。このような光景こそが、聖ヨハネに感動をあたえ、「天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島
も、みなその場所から移された」。(黙6・14) あるいは、「すべての島は逃げ去り、山々も消えうせた。一タラントンの重さほどの大粒の雹
が、天から人々の上に降った」(黙16・20-21)と書くときに、黙示禄の幻しに写し出されたのであろうと。一八八八年のテオドール・ベント
の書いたものによると、さらに一歩すすめて、黙示禄は、実際のテラ島の火山の爆発をもとに、書かれたものであるという。聖よはねは、
これを「一匹の獣が海の中から上って来る」(黙13・1)と表現したのであると。