V アジアの七つの教会

1.歴史的概観

  聖ヨハネの黙示禄の第二章、第三章において、聖ヨハネによって手紙が書かれた七つの教会は、西トルコにある。そして、その命運と

試練とは、この小アジアの歴史と密接につながっているのである。

 小アジアにあっては、偉大なヒッタイト文明(紀元前約紀元前約一八〇五〇-一二〇〇年)の後には、フリギア時代(紀元前約一二〇〇

−七〇〇年)が続いた。小アジア西部のギリシアの植民地化は、このフリギア時代に始まったものである。紀元前約七〇〇年から五〇

〇四六年にかけてのその地域の歴史は、カリア、リシア、リディアといった土着の国と、エフェソ、ミレトス、サルディスといった新しいギリ

シアの植民地との関係に関するものである。有名なクロイソス王の支配下にあったリディアは、ペルシア大王キュロスが、紀元前五四六

年に、クロイソス王を破り、小アジアをペルシアの支配下におくまでは、その地域における最も強力な国となった。

  小アジアにおけるペルシアの支配は、アレキサンドロス大王が、紀元前三三四年に、ヘレスポントを横切って、驚異の戦いを押し進め

るまで続いた。アレクサンドロス大王の進攻は、ギリシア文化を前面に持ち出すことになった。それは、約千八百年続いたのである。小

アジアにおけるアレキサンドロス大王の直接の後継者は、アレクサンドロス大王の将軍の一人のリシュマコスであった。彼はリディア、ミ

シア、それにギリシアの都市のほとんどを支配した。リシュマコスは、紀元前二八一年に敗北を喫し、その領土はセルジューク王国の手

に渡った。セルジュークの勝利によって、独立をかちえたギリシアの都市のペルガモンは、最後には、そのセルジュークの敗北に貢献す

ることになるのである。ペルガモンは、強力な都市に発展し、紀元前二三〇年に、ガラテヤ人の進攻を食い止めた。ローマの同盟者とし

て、ペルガモンは、紀元前一九〇年のマグネシアの戦いにおいて、その結果を左右する援助をあたえ、そのお陰で、ローマの将軍シビ

オ・アフリカヌスは、アンティオコス三世を打ち負かし、小アジアにおけるセレウコス王朝を終焉させたのである。ローマは、この時代から、

この地域において、優勢を誇るようになった。ペルガモンのアッタルス三世が、この王国をローマに贈った紀元前一三三年以降は、わた

したちが関心をもっているこの地域は、直接、ローマの支配下におかれ、紀元前一二九年には、アジアのローマの属州の一部となった。

 しかしながら、小アジアでのローマの存在は、何の抵抗もなく進められたわけではなかった。小アジアにおけるローマの支配は、大きな

犠牲を払って買い取られた。だからこそ、後の国家の宗教にあらわされたローマの政治的な忠誠に対する関心が理解できるというもので

ある。その紛争の主な源泉は、小アジアの北東にあるポントス王国であった。その王国は、紀元前一一一年から、並外れた才能をもって

いたミトラダテス六世の支配下におかれた。ミトラダテスは、世紀の変わり目の少し後から、ローマの支配への反抗をはじめ、ローマを悩

ませ、それはつぎの五十年もの間、中断することなく続いたのである。

 紀元前九二年には、スラの支配下にあったローマ軍が、ミトラデテスの支持者であるカパドキアを掃討した。しかし、紀元前八八年に

は、ミトラダテスは、アジアのローマの属州を蹂躙し、反ローマの十字軍を組織した。そのために、その属州において、約十万のローマ軍

が殺戮それた。スラは、紀元前八七年に、別のローマ軍とともに引き返し、その地域からポントスの勢力を追い出した。紀元前八五年に

は、ミトラデスと講和した。しかし、この戦いによってもたらされた荒廃は、恐ろしいものであった。紀元前七四年には、ミトラダテスは、再

びローマの勢力に対して戦いを挑み、新しいビテニアのローマの属州を占領し、カルケドンでローマ軍を打ち負かした。ローマ軍は、ルク

ルスの下に再結集し、ミトラダテスの進攻を押さえ、つぎの二年間で、その軍隊を壊滅させたのである。ミトラダテスは敗走したが、紀元

前六九年に、ポントスに戻り、ローマの占領軍を悩ませた。ローマの元老院がポンペイウスの手に、東地中海の強力な海賊を根絶するだ

けの十分な勢力を集中できてはじめて、ミトラダテスを抑えることができたのである。その後、ポンペイウスは、今や孤立してはいるもの

のなお危険なミトラダテスを攻めた。ミトラダテスは、再び逃走したが、今度は、コーカサスを横切ってクリミアに行き、紀元前六三年に、

そこで六十歳代後半に、イタリアの侵略を計画しながら亡くなった。

 今や、ローマの支配は確立されたけれども、中央の権力は、属州のローマの官憲によって、繰り返し、転覆させられてきた。ディオクレ

ティアヌス(二八四-三〇五年)が帝位につくまでの五十年間に、約二十人の皇帝が帝位についており、平均して、約二年半しか在位しな

かった。二九七年になって、ディオクレティアフヌスは、大きな属州を、昔の地域の名前をとって、多くの新しい属州に分割し、その脅威を

和らげた。そこで、アジアの属州は、六つの新しい属州に分けられたのである。

  ローマ帝国における東方の地域の重要性は、三三〇年のコンスタンティヌス大帝によるピザンチンに新しいローマの首都の建設によっ

て明らかである。ピザンチン帝国として知られるようになって間もない頃、小アジアは、ゲルマン民族による大侵攻を経験する。それは、

紀元前三世紀に、以前ガラテヤ人がしたように、バルカンと小アジアを破壊した。にもかかわらず、ビザンチンは、短期間、その後を継い

だペルシアと、その後の回教徒の勢力の増大によって、彼らをアナトリアに追い返すまでは、七世紀まで、東地中海全域にわたって、そ

の帝国を維持した。初めはペルシア、その後、アラブの侵攻が成功し、小アジアに大打撃をあたえた。皇帝ヘラクリウスは、その地域を

テーマとして知られた大軍事地帯に分割した。七つの教会をふくむテーマは、トラキア人のものであった。

 他では成功したにもかかわらず、アラブは、小アジアの支配をもちこたえることができなかった。ビザンチンの中核地域は、その敵対す

る軍事力があっために長く支配できなかったのであり、やがて、トルコがやってきた。小アジアへのトルコの侵攻は、一七一一年のマーチ

ンカートでのセルジュークの勝利ではっきりした。皇帝ロマヌス・デセィオゲネスをはじめとして、皇帝の軍隊のほとんどが殺戮された。数

年で、セルジューク・トルコは、小アジアの広い地域を支配し、イコニオンを首都とした。このセルジューク・トルコは、十四世紀に、オスマ

ン・トルコにとって代わられることになった。この容赦しない激しいトルコの侵攻の前に、既に、ビザンチン帝国は、次第に衰退していった

のである。その状況は、十字軍により、とくに、一二〇四年にコンスタンチノープルを攻略し、ビザンチンの領土であったところに多くのラ

テン王国をつくった第四回十字軍により、複雑きわまりないものになった。十五世紀初期に、タマーレインが小アジアを掃討し、あらゆる

反対勢力を撃破し、オスマン・トルコを王位継承の争いに投げ込んだのである。このような妨害にもかかわらず、オスマン・トルコは、十四

世紀の終わりまでには、七つの教会の全領域を支配した。一四五三年には、オスマンは、最終的には、コンスタンチノープルを攻略し、

その首都としたのである。

  オスマンの支配はもキリスト教はその支配的な地位から排除されたけれども、七つの教会のあるものは、その下で存在し続けた。スミ

ルナを始め、幾つかのものは、ギリシアの社会とともに繁栄し、成長したが、他のものは次第に弱体化し、あるいは、完全に消失してしま

ったものもある。小アジアにおけるすべてのキリスト教会の転覆ということが、オスマンの領土に対する第一次世界大戦の余波のなか

で、トルコ、ギリシア、アルメニア、それにヨーロッパの諸勢力の戦いの間に起こった。現在の若いトルコは、小アジアにおけるあらゆる試

練を駆逐するという、革命という手段によって、国民的な悲痛な感情を呼び覚ますことになった。それが、多くの暴力と、罪のない無辜の

民の受難を伴ったことは、今世紀最大の悲劇とされる。そこから逃れたギリシア人は、ギリシアに再定住し、その社会を新スミルナ、新フ

ィラデルフィアと名づけた。その二つの都市は、今まで経験したことのない繁栄を享受しており、それはアテネの一部になっている。

2.七つの教会への手紙

 聖ヨハネの七つの教会への手紙は、使徒パウロの七つの教会に宛てたものの模造であるというエドガー・グッドスピードの見解を認め

るか、(ラオデキアの教会に宛てられたとするフィレモンへの手紙と、回覧の手紙としてのエフェソエの信徒の手紙とあわせて)それとも、

七つの手紙として、聖ヨハネの黙示禄が、別の七つに分かれている資料に基づいて書かれたのかは、わからないとしても、そのこととは

関係なく、七つの手紙は、明かに宛てられた教会に対して、別々に送ることを意図したものではなかった。これらの七つの手紙は、別々

のものではない。それらは、殉教の死を遂げても、キリストに忠実であるように、迫害を受けているキリスト教徒を励ましたものである。

ヨハネ黙示禄の主要部分は、つぎのごとくである。1.七つの海の幻、6・1-8・6, 2.七つのラッパの悲しみ、8・7-11・5, 3. 七

つのドラゴン王国の幻、12・1-13・18, 4.七つ羊と礼拝者の幻、14・1-20, 5.七つの神の激怒の杯の幻、15・1-16・21, 6.

七つのバビロンとローマの堕落の幻、17・1-19・10、 7.サタンの時代の終わりと、神の正義の時代の始まりの七つの

幻、19・11-21・8.

 手紙は、著者がそこに宛てて書いたそれぞれの教会の状態を熟知していたことを示している。彼は、その幾つかの教会の人たちを知っ

ていた。また、教会を取り巻く地利歴史にも詳しかった。彼は、エフェソでのアルテミス崇拝、サルディスの有名な歴史、ラオデキアの近く

にあるヒエラポリスの生温い水のことを知っていた。聖ヨハネは、教会はある意味、教会は都市であり、その会衆は、その都市や住民か

ら離れて、生活しているのではないと考えていた。ウイリアム・エム・ラムゼー卿が、「教会は、その都市そのものである」と言っていること

を信じていた。著者は躊躇うことなく、限定されることのない権威をもって、書いていることから判るに、小アジアのキリスト教徒に対する

深い責任感を持っていた。彼の権限は、使徒のそれを遥かに超えていた。その言葉は、明かに、聖ヨハネのものではあったが、七つの

手紙において語っているのは、キリストであるとしている。

  これらの手紙が書かれたときは、七つの教会は、すべてローマの属州にあり、その二百年以上にわたる統治下にあった。アジアのロ

ーマの属州は、カリア、リディア、フリギア、ミシア、それから、トロアド,アイオリス、イオニアの沿岸地域をふくむ小アジアの西半分のほ

とんどを包含していた。アジアの属州の諸都市は、ギリシア風の生活様式を採用しており、ギリシア語が、土地の言葉に取って代わって

いた。国家宗教は、ローマと皇帝の礼拝であった。けれども、幾つかの場合には、皇帝の礼拝は、その土着の神と結びついていた。

  アジアには、もちろん、聖ヨハネによってあげられている七つの教会以外の他のキリスト教会があった。コロサイには、使徒パウロが、

ラオディキアとヒエラポリスにあった教会のことを書いている手紙をだした教会があった。(コロ4・13) トロアスにも、教会があった。(ニコリ

2・12,使20・7-)キリストの福音が伝えられた大きな要路にあったシジクスについてと同様に、マグネシアやトラレスにも教会があった。

 選ばれた黙示禄の七つの教会が、アジアの属州の最も多くの人が住み、富み、かつ重要な都市を結ぶ環状道路上にあったということ

は、大きな意味を持っている。さらに、その属州が七つの手紙を配達する地区に対応して、七つの管区に分割されていたようである。そ

のセンターとして、七つの都市が存在していた。トロアス、アドラミティオン、おそらくは、シジクスのあった北部地域に対しては、そのセン

ターは、ペルガモンであったであろう。一方、サルデイスは、中部のヘルマス渓谷に対するセンターであった。フィラデルフィアは、上部リ

ディア地域に対する「開かれた門」(黙3・8)であり、ラオディキアは、リカス渓谷と、フリギアの中心に対するセンターであった。エフェソは、

ケイスター渓谷南部と、北イオニアの沿岸に対するセンターとなった。

 このことは、アジアの属州全体にわたって広まっていたのであるが、七つの教会のすべてに対して、教会生活を脅かす二つの敵対する

勢力が存在した。ヨハネ黙示禄は、このことを問題としているのである。その一つは、教会内部にも巣くっていたニコライ宗の秘密の勢力

である。もう一つは、皇帝礼拝を要求するローマ帝国の勢力である。七つの教会のうちの二つは、これらの勢力に屈服したものとされて

いる。サルディスの信仰は、死んでしまったものとされ、ラオデキアは、駄目だとしてはねつけられている。それに対して、スミルナとフィラ

デルフィアは、称賛と叱責とが、混じりあっている。一方、エフェソは、高いところから落ちるとされているのである。

  著者にとっては、これらの七つの教会に対して、特別な関心があったのであるけれども、にもかかわらず、七つの手紙はすべての教会

に宛てられたものであり、すべてのキリスト教徒に対する公開の手紙となつているのである。それらは、あらゆる世代に対して、力と慰め

を与えた。けれども、黙示禄の役割としては、悲しいことには、黙示禄全体に対する自らの偏見のために、あらゆる種類の過激な人々に

よって、悪用されてきたことがないではないのである。

 はじめの表題「イエス・キリストの黙示」を含む簡単な序文の後に、聖ヨハネは、説明のための手紙をつけて、七つの教会に手紙をだし

ている。(黙1・4-20) その中で、聖ヨハネはその意図を説明し、その手紙の実際の著者である天国のキリストの幻を描いている。恩寵と

平安とは、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」から、「七つの霊」から、そして「誠実な方、イエス・キリスト」からあたえられるも

のである。パウロや、その他の使徒と同じく、ヨハネは、キリストの再臨が間もなくあることを期待していた。というのは、彼は現在形を使

って、「見よ、その方が雲に乗って来れる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは」(黙1・7)と書いていめから

である。ヨハネは、使徒の一人であるとか、十二弟子の一人であるとかといったことを書くことを避けている。反対に、手紙のあて先の兄

弟に、仲間入りをしているのである。神から授かった幻を見た彼の経験については、「ある主の日のこと、わたしは"霊"に満たされていた

が、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。その声はこう言った。『あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペル

ガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオデキアの七つの教会に送れ』」(黙1・10-11)と簡単に書いている。彼の幻は、昔

の黙示文学の語彙を使った象徴によって言い表されており、教会外の者が、聖ヨハネの意図が何なのか曖昧なままにしており、同時

に、キリスト教の信仰をもった読者への訴える力を高めているのである。

 「振り向くと、七つの金の燭台が見え、燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、腕には金の帯を締めておられ

た。その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声

は大水のとどろきのようであった。右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

  わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いていわれた。『恐れる

な。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持って

いる。さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。あなたは、わたしの右の手に七つの星と、七つの金の燭

台を見たが、それらの秘められた意味はこうだ。七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である。』」(黙1・12-20)