3.エフェソへの教会へ

(1) 古代エフェソについて

 聖ヨハネによって、手紙の書かれた七つの教会の最初のエフェソは、アジアでの七つの教会を思いだす過程で、訪れるすべてのもの

のうちで最も強い印象をとどめているものである。この都市の遺跡は、実にさまざまな連想を呼び覚ますのである。古典を勉強する人と、

歴史家は、古代都市イオニア、すなわちアジアにおけるローマの属州の首都のことを考える。聖書学者は、使徒パウロの牧会と文筆活

動のことを考える。その他の人々は、エフェソと、聖ヨハネや、聖処女マリアの最後の生活を結びつけるであろう。

  エフェソは長い間、宗教活動のセンターであった。ギリシア人が来る前には、エフェソでは、偉大な母である女神キュベレに犠牲が捧げ

られていた。このキュベレは、後には、ギリシアの女神アルテミスと同じとされた。イオニアの諸都市の黄金時代であった紀元前六世紀

に、古いアルテミスの神殿が建てられたが、それは、すべて大理石でできていた。大プリニウス (二三-七九年) は、この神殿は、地震

からその建物を守るために、沼地の土の上に建てられたと説明している。何世紀にも渡って、古代世界のあらゆるところから、女神に犠

牲を捧げるために、巡礼が、毎年エフェソに集まった。アルテミッションとして知られていたその神殿は、古代ギリシアの芸術と建築の最

も優れた偉業の一つとされている。

  紀元前六世紀中頃、エフェソは、リディア王によって、祭壇を美しくし、広げるために、円柱と金でできている子牛を贈られたのである

が、そのリディア王クロイソスによって攻略されてしまった。紀元前五四六年には、エフェソは、イオニアの古代ペルシアの地方長官の領

地の一部になった。紀元前四七八年に、クセルケスが顕著な功績をあげて帰ってきたときに、彼はアルテミス神殿に詣でた。しかし、一

方では、他のイオニアの神殿が略奪されるのに任せていた。紀元前四六六年のエウリメドン川でのペルシアの敗北後、エフェソは、アテ

ネの属国になった。これらの動乱によって、ひどく破壊されてしまい、紀元前四五〇年になって、やっと復元された。紀元前四世紀の初め

には、その都市は、しばらくの間ではあったけれども、再びペルシアの統制下に置かれた。

  紀元前三五六年に、アレクサンドロス大帝の生まれた夜、狂人のヘロストラタスは、名声を求めて、神殿に放火した。市民は、宝石や

自分の個人的な持ち物を処分して集められたお金で、以前の円柱に付け加えて、それにも勝る別のより立派な神殿を建てた。アレクサ

ンドロス大王が、三三四年に、エフェソにやってきたときになっても、まだ完成していなかった。そこで、このマケドニアの皇帝は、もしも、

神殿の台輪にそのことを書き入れてくれるならば、建物の完成のためのお金の提供を申し出た。けれども、エフェソの人たちは、神が

神々に供え物を捧げることは、適当ではないと、アレクサンドロス大王に答え、そのことは実現しなかった。アルテミツションは、非常に有

名になったので、紀元前二世紀に、シドンの風刺詩人アンティペーターは、エジプトのピラミッド、バビロンにあるセミラミスの空中庭園、

オリンピアのゼウスの像、ハリカルナッソスの墓所、ロドス島のコロッサス、アレキサンドリアのファロス灯台とともに、自らの「世界の七不

思議」の一つに加えた。

  アレクサンドロス大王の死後、エフェソは、リュシマコスによって支配された。彼は、エフェソに新しくギリシアの入植者を入れ、その都

市をその妻アルシノエという名前にしたがって、名前を付け直したが、古い名前の方がよく使われた。多くの建築計画をたてたリュシマコ

スは、都市を約十キロもある長さの壁でもって囲んだ。この壁の西の端にある塔は、言い伝えによると、使徒パウロの牢獄であったとされ

ている。その都市は、セレウコス王朝に支配され、繁栄し、小アジアでの最大の取引中心となった。そのセレウコス王朝りアンティオコス

大帝が、ローマに敗北してからは、エフェソは、ペルガモン王国のものとなった。紀元前一三三年に、ペルガモンのアッルス三世は、その

都市を、その財産の残ったものと一緒に、ローマに贈った。そこで、エフェソは、ローマ人によって、小アジアらおける最も豊かな州として

のアジアにおけるローマの属州の首都とされたのである。

 エフェソの人たちは、ローマの支配を好まなかった。ローマと、ポントスの王ミトラダテスとの間の戦争に際しては、エフェソの人たちは、

ミトラダテスに味方して、神殿にあたえられていた亡命者保護の権利にもかかわらず、アルテミッションに逃亡してきたローマ人を殺戮し

た。紀元前一世紀のローマの内戦にあたっては、エフェソ人は、二度にわたって、負ける側についた。はじめは、ブルータスとカシアス、

つぎにアントニウスに援助の手を差し伸べたのである。

  こういった困難にもかかわらず、その都市は繁栄し、ローマの支配するアジアの一大取引中心となった。ローマ人によつて、劇場、音

楽堂、ケルソスの有名な図書館、体育館、それに数多くの神殿といつた輝かしい建物が建てられた。大プリニウスは、エフェソを「アジア

の偉大な太陽」とよんだ。また、紀元前一世紀の地理学者ストラボンは、エフェソのことを、「アジアの最大の百貨店」ともいっている。そ

の逃亡者の住む範囲は、たえず変化したけれども、アルテミッションは、初期におけると同じように、逃亡者の場所として、なお見られて

いた。ストラボンは、逃亡者の住む範囲は、都市の半分にもおよぶように拡張されたと書いている。このことが、有害とされた。なぜなら、

都市を犯罪者の手に委ねることになり兼ねないからである。そこで、アウグストゥスは、この拡張を取り消した。

(2) 使徒時代のエフェソ

  エフェソにおけるキリスト教の始まりは、謎に包まれている。おそらく、二世紀の主教のリオンのイレネウスの使徒パウロが、エフェソに

教会を建てたという説明を受け入れるべきであろう。おそらく、イエスの最愛の弟子の聖ヨハネが、キリストの昇天の後、エフェソに主の母

マリアと一緒に住みついたという言い伝えを受け入れるとしよう。外典の聖ヨハネの旅と奇跡によると、その流罪前におけるエフェソでの

牧会のことが書かれている。とりわけ、ダイアナの町での若者ドムヌスをたち返らせた奇跡に触れている。キリスト教は、このようにして、

エフェソに到来したけれども、確立されたのは、一世紀中葉であった。

  使徒言行録によると、使徒パウロは、マケドニアとアカイアに行った第二回伝道旅行から帰る途中で、エフェソを訪れている。五一年の

秋、テントづくりのアキラとプリスキラに伴われて、パウロは、コリントの東の港ケンクレアイを船出して、エフェソに渡った。今日では、エフ

ェソには港はなく、内陸都市のような印象をあたえている。しかし、パウロの時代には、エフェソは殷賑を極めた港であった。上陸してか

ら、パウロは、道路の西の端にある壮大な港の門をくぐって、劇場の方に行った。この広い大理石で舗装されている道路は、その道路を

拡張し、改修した皇帝アルカディウス(三八三-四〇八年)を称えて、アルカディアン通りとして、最終的には知られるようになったものであ

る。

  エフェソでの短い滞在の間に、使徒パウロは、おそらく、人々の集まる安息日に、シナゴーグを訪れた。そして、「ユダヤ人と論じあっ

た。」(使18-19) そこで、ユダヤ人たちと、論じあった。」(使18・19)ユダヤ人たちは、もうしばらく滞在するように願ったのだけれども、船

出が差し迫っていたので、それを断った。西方写本によると、パウロがエフェソを去ることを決めた理由がわかる。「どうしてでも、エルサレ

ムでのお祭りにでなけれどならない」と。(使18・21)

  エフェソでのシナゴーグの存在は、十分立証されているけれども、その場所は判らない。おそらく、儀式上の目的のために、水を必要と

したことから、港の近くの町の北の郊外にあったと思われる。ギリシア・ローマ時代において、エフェソでのユダヤ人植民地があったことを

示す考古学上の遺物は、二世紀のケルソス図書館への階段に彫り込まれているメノーラである。それに、七人の睡眠者の墓地で発見さ

れたメノーラのついている幾つかのテラコッタのランプと、メノーラのついている左のショハールと、右のルラフの独特なガラスである。

  アジアの多くの都市には、スミルナ(黙2・9)、 ペルガモン(黙2・14)、ティアティラ(黙2・20)、フィラデルフィア(黙3・9)のような大きなユダ

ヤ人社会があった。それだけではなく、 ラオデキア、アパメア、ミレトス、その他の場所にも存在した。セレウコス王朝の支配者アンティオ

コス二世テオス(紀元前二六一-二四七年)は、バビロンからイオニアの諸都市に移住してきたユダヤ人に、完全な市民権をあたえた。エ

フェソでは、彼らは多くの特権を享受した。彼らはローマの市民であつたが、しかし、兵役は免除された。そして、自分たちに法律にした

がって生活することが許されていたのである。一世紀のユダヤ人歴史家フニヴィウス・ヨセフスは、以下のようなローマの布告を記述して

いる。

町のユダヤ人たちが、ポンティウスの息子の地方総督をしていたマーカス・ジュニアウス・ブルータスに、ユダヤ人が安息日

を守り、誰からも妨害されることなく、生まれつきの慣習にしたがって、すべてのことをなすことができるように嘆願し、地方

総督はその要請を認めた。そのために、市議会と住民とによって布告がなされ、その内容は、誰からも妨げられることなく、

彼らの生得の慣習にしたがって、安息日を守り、かつ、すべてのことを行なうということと、地方総督はそれを認めるようにと

いう請願に対して、そのことにかかわっている市議会により、ユダヤ人はだれも安息日を守ることを妨げられず、それによっ

て罰をうけることがないという布告がなされた。

  わたしたちは、同じような特権が、聖ヨハネが手紙を出した他の都市のユダヤ人にあたえられたものと考える。

 使徒パウロは、カイサリアに船で行ったが、アキラとプリスキラは、エフェソに留まり、そこでその地方の教会の柱石となった。エフェソの

キリスト教については、アジアの属州において、最初の教会を組織したのは、その二人であったとすることができよう。黒海の沿岸にある

ローマのポントス州から来たユダヤ人のアキラと、そのローマ人の妻のプリスキラとは、四一年の皇帝クラディウスによってだされた政令

により、他のユダヤ人とともにローマから追放された。彼らはコリントに行き、そこでパウロに出会った。「そこに行って、彼らに会った。そし

て、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。」(使18・2-3) 

  ある日、アレキサンドリアのユダヤ人であり、かつ雄弁家であったアポロが、エフェソに到着した。「彼は主の道を受け入れており、イエ

スのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞

いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明してた。」(使18・25-26)アポロは、何人かのユダヤ人をひきつけるの

に成功し、その人たちは、彼の教えを受け入れた。というのは、パウロが五四年の秋に、エフェソに戻ってきたとき、おそらくはアポロが、

その中心的代表者であるバプテスマのヨハネの信奉者の仲間であるものに会ったからである。ルカは、聖霊について聞いたこともなく、

イエスの名によって洗礼を受けていないのに、この人たちを「弟子」(使19・1)とよんでいる。「これを聞いて主イエスの名によって洗礼を受

けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、そり人たちは異言を話したり、預言をしたりした。この人たちは、皆で十二人ほどであ

った。」(使19・5-7)

  最初の訪問後、三年たってから、パウロは、神の国のメッセージを伝えたエフェソのシナゴーグに戻ってきた。ある所では、ユダヤ人社

会全体が使徒を拒むようなことがあった。しかし、エフェソでは、その中には、シナゴーグの指導者もいたが、一部の「ある者たちが、かた

くなで信じようとはせず」という状況であった。シナゴーグでの三ヶ月の宣教の後、使徒パウロは退去させられた。しかし、幸いなことに

は、その後は、ティラノという人の講堂を使うことができた。このティラノは、多分、彼自身が修辞学者であって、訪ねてきて、講義をする

人に講堂を貸したものと思われる。エフェソでの見知らぬ人にとっては、パウロは、その知識を教えるために、町から町へとわたり歩く多

数の巡回教師か、修辞学者の一人と見えたのであろう。西方写本によると、使徒は一日のうちの「五時から十時」、すなわち、午前十一

時から午後四時まで教えたと付け加えている。そこで、約二年にわたり、宣教がなされた。

  使徒パウロの宣教によって、キリスト教会が、アジアのローマの属州全体にわたって確立されていった。それらのものの中に、七つの

教会のうちの残りの六つのものがあった。わたしたちは,使徒パウロが、それらのいろいろな都市を旅したかどうか、あるいは、それらの

都市から人々が、パウロの説教を聴くためにエフェソにやってきて、帰ってから教会を組織したかどうか知らない。しかし、「このようなこと

が二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれ、ギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった」(使19・10)と言

っていることは、使徒言行録がルカによって編集された一世紀の後半には、アジアの属州において、キリスト教会が確立していたことを

示すものである。

 エフェソに滞在している間に、使徒パウロは、アカイア、マケドニア、そして小アジアにおいて、確立された教会を牧し続けた。ある日、

仕事をしているときに、コリントからの訪問者があり、彼を悩ませるニュースを伝えたのである。エフェソから書かれた手紙は、問題を抱え

たキリスト教徒に対する忠告である。さらに、コリントの改宗者を訪ねるために、少なくとも、一度は、コリントを訪ねている。

  「アジア全体、全世界があがめるこのこの女神」(使19・27)といわれたアルテミスの神殿のあるエフェソは、宗教やビジネスの目的をも

って、小アジア全体にわたるアジア地域から、人々がやってきた。ガラテヤ州からの数多くの訪問者の中に、パウロが第一回伝道旅行

でつくったピシディアのアンティオキア、イコニオン、リストラ、デルベといったガラテヤの地方の教会の間に、ユダヤ人キリスト教徒が、律

法主義的なキリストをひろめようとしていめことを、使徒に知らせた者がいた。(使13・14-14・23)これらのユダヤ人キリスト教徒、すなわ

ち、ユダヤ主義者たちは、アブラハムの子孫にならなければ、イエス・キリストの祝福を受けることはできないと主張した。そこで、教会に

入会する唯一の方法は、シナゴーグを通してであると言った。エフェソを去ることのできない事情があったために、パウロは、「ガラテヤ地

方の諸教会へ」という回状を口授したのである。その中には、救いへの信仰の地からと、律法への固執とを対比しているのである。

  ルカは、使徒パウロがエフェソで、牢獄に入れられたということを言っていないけれども、パウロ自身は、コリント、フィリピ、コロサイの教

会との文通の中において、繰り返し、自分の受難のことに言及している。コリントの教会に対して、パウロはつぎのように書いている。「兄

弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる

望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。」(ニコリ1・8-9) また、別の機会に、彼はエフェソで野獣

と闘ったことを述べている。(一コリ15・32) 

  外典のパウロ行伝には、使徒の投獄のことについて、より詳しく述べている。獄中で、地位の高いエフェソ人であり、パウロの忠実な

弟子となった二人の妻、エウボラとアルテミラが、パウロによって洗礼を受けるために、彼を訪れた。すると、奇跡的に、パウロの鉄の足

枷がゆるんで、誰にも知られずに、その弟子とともに牢獄を出て、海辺でその二人に洗礼を授けたことがでている。彼は見張りに少しも気

付かれることなく、また牢獄に戻ったと。

 さらに、別の外典の物語によると、「大きな立ち向かうことの到底できない一匹のライオンが、パウロを自由にし、競技場の中で、彼のと

ころに走って行って、足元に横たわった」とある。しかし、ライオンも、他のどのような野獣も、彼に触れなかった。最後に、おびただしい、

激しい雹が降ってきて、「多くの人々の頭を撃ち、」使徒の命を助けた。

  エフェソ地方の言い伝えによると、港の近くにある大きな正方形の塔は、使徒パウロの牢獄であったということである。その建物は、コ

レッソス山の西端にあり、リュシマコスによって建てられた壁全体の一部となっている。十七世紀から、今日までの西方からの旅行家

は、この建物が使徒の牢獄として、示されてきたという報告においては、皆一致しているのである。

 パウロは、投獄中に、数多くの訪問者を受け入れることを許されていた。彼の手紙からも明かなように、フィリピの教会からきたエパフロ

ディトは、マケドニヤのキリスト教徒からの贈り物を、獄中にいるパウロに届けた。それに対して、パウロは、フィリピの人たちに返事の手

紙を出している。同じ頃、おそらくラオディキアからきた若い逃亡奴隷のオネシモが、エフェソの牢獄にやってきた。彼は自分の主人のフィ

レモンに対して、盗みを働いた。そして、なんとかして、パウロが自分を奴隷から解放してくれることを期待して、やってきたのである。パ

ウロは、オネシモ自身のために、彼を悪いことをした主人のもとへ送り返すことが必要であるとしても、「福音のゆえに監禁されている間、

あなたの代わりに仕えてもらってよいと思った」(フィレ13)ということで、手元にひきとめておこうとした。けれども、結局は、送り返すことに

した。パウロは、オネシモをただ送り返すだけでなく、フィレモン宛ての手紙をオネシモにもたせた。その手紙の内容は、オネシモを信頼

できるキリスト教徒して誉め上げ、フィレモンに若い奴隷を赦してり、彼を愛する兄弟として受け入れるように訴えたものである。フィレモン

は、オネシモを取り返しただけでなく、彼を解放してやった。六十年位後、アンティオキアのイグナティオスが、スミルナからエフェソにある

教会に宛てて、一通の手紙を書いた。その手紙は、主教オネシモを絶賛した内容になっていた。わたしたちは、エフェソの三番目の主教

オネシモが、逃亡奴隷のオネシモであったかどうかは、確かではないけれども、十分考えられることである。

  おそらく、エフェソでへオネシモが到着してから間もなく、コロサイの教会のリーダーのエパフラスが、パウロのところにやってきて、コロ

サイのキリスト教徒の問題でパウロを悩ませた。コロサイの教会は、幾つかの混じり合った異端の教えによって脅威に曝され、教義上の

考えによって分裂していた。使徒パウロの書いたコロサイの信徒への手紙において、イエス・キリストの福音で十分なことを強調した。彼

はティキコに手紙をもたせた。(コロ4・7) そして、フィレモンのところへ帰る途次、オネシモを一緒に行かせた。

 その間、パウロを取り巻く周囲の状況は、悪くなっていた。エフェソで、彼を訪問する何人かのキリスト教徒が、ローマの官憲によって

逮捕された。それらの人たちには、テサロニケのアリスタルコ、バルナバの従兄弟のマルコ、イエス・ユスト、コロサイのエパフラス、最愛

の医者ルカ、それに、デマスなどがいた。(コロ4・10)

  牢に入っている間に、パウロは、内容豊かな手紙を書いた。彼は、それをアジアの諸教会に送った。これは、エフェソへの信徒の手紙

として、一般的に知られているものである。この手紙は、おそらく、多くの教会に宛てて書かれた回状であったと思われる。というのは、最

良にして、最古のギリシア語の写本、コーデックス・シナイとコーデックス・ヴァチカンの二つには、「エフェソ」という言葉が省かれているか

らである。エフェソの信徒への手紙は、使徒パウロの手紙のうちで最も一般的なものであり、全教会の一致と、それは神のものであると

ことを強調している。「愛する兄弟であり、忠実に仕える者である」(エフェソ6・21) ティキコがその手紙を携え、幾つかの会衆に読んで聞

かせ、そのときどきに、その教会名を挿入したものであろう。

  それでは、パウロは何時、釈放されたのであろうか。それは判らない。しかし、釈放後、すぐに、ユダヤ人と異邦人に対して、福音の宣

教に当たった。ルカは、パウロのエフェソの祈祷師についての対処の仕方が優れたものであったことを書いている。(使19・11-20)アジア

におけるあらゆる都市のうちで、エフェソは魔術やオカルトの研究で、最もよく知られていた。それゆえ、あるユダヤ人の巡回祈祷師が、

病気の治療と魔術とに効果があるように、試験ずみの主イエスの名を使ったということは、驚くべきことではなかろう。その結果は、ルカ

が記録しているように、さんざんなものであった。というのは、悪霊が祈祷師を圧倒し、ひどい目に遭わせたからである。この異常な出来

事が、祈祷師をキリスト教に回心させ、そのもっている魔術についての本を焼き捨てさせることになつた。エフェソの祈祷師が、悪霊によ

って圧倒されたことと、それに続く回心とは、使徒の宣教における著しい成功例であった。やがて、パウロは、エフェソでの宣教に限界を

感じ、マケドニアとアカイアに向け、エフェソを去ってもよいと思うようになった。

  けれども、彼が去る前に、パウロは、銀細工師の騒動に巻き込まれた。(使19・23-20・1) その騒動は、大理石通りとアルカディアン通

りの交差点にあるエフェソの劇場で起こった。騒動の動機は、パウロの説教が、アルテミスの神殿に奉納する銀の献納物を造っている銀

細工師の商売を脅かした限りにおいては、主として経済的なものであった。銀細工師デメトリウスは、仲間の職人を集めて、パウロは造

った像は無価値なものであると教えていると告げた。その後、銀細工師たちは劇場に行った。銀細工師たちと、それに加わった他の人た

ちは、「エフェソのアルテミスは偉い方」と二時間ほども叫び続けた。最後に、町の書記官が劇場に入ってきて、群衆をなだめ、説得した。

アルテミスの主権が危険に曝されているわけでも、キリスト教徒が神殿を荒らしたのでもなく、また、女神を冒涜したのでもないと。そし

て、誰かを訴えるのなら、法廷が開かれるし、地方総督もいると言った。そこで、一旦、騒動は収まり、パウロは仲間たち呼びにやり、別

れを告げてからマケドニア州へと出発した。

  パウロは、エフェソには戻らなかった。五十七年張るの第三回伝道旅行の終わりに、パウロはミレトスに立ち寄っている。それは、「ア

ジア州で時費やさないように、エフェソには寄らないで航海することを決めていたからである。」(使20・16) ミレトスでは、エフェソの教会の

長老に、使徒言行録に記録されている最も感動的な説教の一つを行なっている。(使20・18-3) 彼は、エフェソの教会の内部の一致に非

常に心を痛めていた。そして、目を覚ましているようにと警告した。最後に、パウロはエフェソの長老たちと一緒にひざまずいて祈り、皆激

しく泣き、自分の顔をもう二度と見ることはないとパウロが言ったので、悲しみにくれ、涙ながらの訣別をした。(使20・38)

 エフェソでの使徒パウロの伝道は、その影響は長く続いた。つぎのような想像が可能ではあるまいか。一世紀の終わりに、使徒パウロ

の指導を受けた人たちが、使徒によつて書かれたいろいろな手紙を集め、それらを七つの教会に宛てたパウロ書簡なるものにまとめあげ

た。そのもとになった手紙というのは、巡回したときの添え状としてのエフェソの信徒への手紙と、ロマ、コリント、ガラテヤ、フィリピ、コロ

サイ、テサロニケ、ラオデキア(フィレモン)への手紙) である。これらの手紙の蒐集によって霊感を与えられ、聖ヨハネは、アジアの七つの

教会に宛てた手紙をもって黙示禄を書き始めたのである。このパウロの手紙の蒐集をした人は、匿名のままである。 しかし、あるいは、

コロサイやフィレモンへの手紙を熟知していたエフェソのオネシモであるかもしれない。数年後、別の手紙の蒐集があった。イグナティオス

の七つの手紙、長老ヨハネの三つの手紙などである。

  使徒パウロは、「ある人々が異なる教えを説いたり」(テモ一1・3) しないように教えるために、テモテをエフェソに残した。四世紀の教会

歴史家のエウセビオスは、「テモテは、エフェソの初代の主教になった」と書いている。そして、ドミティアヌス皇帝の治世下に、ヨハネが

パトモスに流されていた間に、アルテミスの祭儀に関連した乱痴気騒ぎに反対した廉で、暴徒によって棍棒で殴られて、殉教の死を遂げ

た。六世紀に、エフェソのピオン山の上に、テモテの殉教碑が建てられた。

  エフェソは、女神アルテミスの祭儀の中心地であったけれども、それにあわせて、皇帝礼拝も盛んであった。アウグストゥスの治世の

始め、アルテミッションの聖域に、大きな皇帝への祭壇が安置された。後に、さらに皇帝礼拝の神殿が建立された。多くの都市は、皇帝

の許可をえると、競って皇帝礼拝のための神殿を建てた。それを建てることによって、「ネオコラス」、すなわち、神殿監督職という称号が

与えられた。エフェソでは、四回、それぞれの皇帝によって、その称号が与えられたのである。

  小アジアの他の中心におけるキリスト教徒と同じく、エフェソのキリスト教徒も、ローマの官憲による迫害を受けた。黙示禄につぎのよう

に書かれている。

エフェソにある教会の天使にこう書き送れ。『右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が、次のように言

われる。「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実

はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲

れ果てることがなかった。しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこ

から落ちたかを思いだし、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところにへ

行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。だが、あなたに取り柄もある。ニコライ派の者たちの行いを憎ん

でいることだ。わたしもそれを憎んでいる。耳ある者は、"霊"が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の

楽園にある命の木の実を食べさせよう。」』  (黙2・1-7)

  聖ヨハネのエフェソの人への手紙は、サルディスにある教会に宛てたものと同様、賞賛と叱責とが混じりあっている。エフェソの人は、

その行い、労苦、忍耐、それに間違っている教師に迷わされなかったことに対して、賞賛されている。しかし、全部が完全とは言えなかっ

た。初めの頃の愛から離れてしまい、若い教会の熱心さも、年を経るにつれ冷えてしまったことが非難される。けれども、この非難は、間

違っているニコライ派の者たちの行いを憎んでいることに対する使徒の賞賛で、差し引かれている。「勝利を得る者には」とあるのは、迫

害に耐えているキリスト教徒に対する言葉である。彼は「年に十二回実をむすび、毎月実をみのらせる」(黙22・2)命の木の実から食べる

ことができる。手紙は誉めてはいるものの、スミルナやフィラデルフィアへの手紙にあるような温情と慈愛が読みとれない。

  エウセビオスによれば、聖ヨハネはパトモスからエフェソに帰り、そこから異邦人の近隣の地域に旅し、主教を任命したり、新しい教会

を建てたりした。そして、皇帝(九八-一一七)の治世の間に、エフェソで亡くなった。

(3) エフェソにおける教会についての歴史上の覚書き

  ほぼ一〇五年ころ、アンティオキアの聖イグナティオスは、ローマに行く途中で、エフェソで、エフェソの主教のオネシモに会った。イグ

ナティオスは、彼のことを 「言いあらわすことのできない愛の人」と言っている。より後に、聖イグナティオスは、エフェソの人たちを誉め、

「あなたたちは真理にしたがって歩んでおり、あなたたちの間に、異端は入りこむことができない。・・・・・・・・・・・・・けれども、わたしは間

違った教えを信じている者が外からやってきて、あなたのところに滞在したということを知った。だが、あなたたちは、それを広めさせなか

った」と言った。二世紀の終わりごろには、エフェソは重要なキリスト教の中心となったと書いている。それは、エフェソのポリクラテスが、

アジアの管区の上級の主教として位置づけられていたことからも判る。

  四三一年に、第三回公会議が、エフェソで開催された。それは、コンスタンチノープルの大主教のネストリウスと、アレキサンドリアの大

主教のキリルとの間のキリスト論について、決着をつけるためのものであった。両者とも、東方正教会での優位性を主張していた。四三

一年一一月に、キリルは、ネストリウスのキリスト論を検討するために、アレクサンドリアで東方正教会の主教を召集した。その結果、そ

の教義が異端であることが発見された。そして、キリルは、「十二のアナセマ」を公けにしたのて゜ある。もしも、ネストリウスが、その教義

を承認しなかったならば、彼は主教を罷免されなければならなかった。ネストリウスは、それを拒絶した。そのために、公会議をどうしても

開かなければならなくなったのである。四三一年春に、皇帝テオドシゥス二世は、エフェソの処女マリアの教会での会議を召集した。その

遺跡は、今でも訪ねることができる。開会日には、百五十九人の主教が出席し、日増しに出席者の数が増えた。出席を拒んだネストリウ

スは、その管区から退けられ、その異端の教義のために追放された。

  言い伝えによると、宮殿の若い七人の王子が、エフェソでキリスト教の信仰に入った。それらの名前は、アキリデス、ディオメデス、ディ

オゲネス、プロバタス、ステファナス、サムバティウス、キリアカスであった。皇帝デキウス(二四九−二五一) の迫害の間に、彼らは公に

偶像に犠牲を捧げるように命令された。ところが、それを拒絶し、近くの山の麓にある洞窟に逃げた。ところが、悪者がその洞窟を閉じて

しまい、七人の若い王子は、約二百年間も眠る破目になった。四四六年になって、テオドシウス二世の治世に、若い王子たちは眠りから

目覚めた。王子たちを埋めていた壁が粉々になってしまった。そこで、そのうちの一人が使いに出され、一番近い村に食べ物を買いにや

らせられた。店にやってきた若者は、代価を支払うのに二百年前のお金を出した。それで、店主は吃驚仰天し、奇跡が起こったことに気

付いた。眠っていた七人の「復活」のニュースは、すぐに宮殿に広まった。そこで、そこで、皇帝は、その話しを確かめるために、エフェソに

までやってきたのだが、彼が到着しないうちに、若い王子たちは亡くなってしまった。この奇跡を記念して、テオドシウス二世は、若者の

洞窟を記念するバシリカを建てた。

  五世紀の中葉から後に、エフェソは、コンスタンチノープル大管区の第二の本山とランクづけされた。そして、六世紀の初めまでに、エフェ

ソの総大主教は三十六の管区にわたって、全体を治めていた。エフェソのよく知られた主教としては、五世紀のメムノン、バジル、そして、

エフェソに七十のベッドのある貧しい人たちのための病院を建てたバシアヌスなどをあげることができる。バジアヌスは、総大主教によって

任ぜられたのではなく、四十人の主教により、エフェソの主教に任ぜられたと伝えられている。このエフェソの教会は、五世紀と六世紀との

間に、単性論の信仰を告白した。 ― 単性論というのは、キリストに一つの性のみを認めるもの ― これは、アレクサンドリア派によって擁護さ

れた立場であった。それは、ローマやコンスタンチノープルによって擁護された両性論 ― キリストの人性と神性との二つの性を信するも

の ― と対立するものであった。

  六世紀には、皇帝ユスティニアヌスが、聖ヨハネの墓の上に、すばらしいバシリカを建てた。六世紀のビザンチンの歴史家であるカイサリ

アのプロコピウスは、 つぎのように書いている。皇帝は「廃墟のようになっていた小さい教会を地に引き倒して、それを大きな美しい教会

と取り替えた。簡単に言えば、ローマ帝国の中で、すべての使徒に捧げられた神殿に、あらゆる点で似ており、それに匹敵するものであ

った」と。

  このような発展にもかかわらず、その都市の歴史は、波瀾に満ちたものであった。六五五年と、また七一七年にも、エフェソはアラブに

よって、しばらく占領された。八世紀と九世紀とにわたって、イコン論争のために、イコンを拝むイコン崇拝者と、このような崇拝を偶像崇拝

とする反イコン崇拝者との両方の争いが生じた。二人のエフェソの主教ヒパティウスとテオフィラスとは、反イコン崇拝者の手にかかって

殉教した。この論争を通じて、大抵のエフェソの修道士は、イコン崇拝者として留まった。そして、六六三年には、将軍ラチャノドラコンが、

ビテニアにあるベレセト修道院の三十八人の修道士を、エフェソの公衆広場で死刑にした。

  一七一八年に退位を強制されて、ミカエル七世デューカスは、王権と主教権とを交換し、しばらくの間であるが、エフェソの主教になっ

た。一〇九〇年には、町はセルジューク・トルコによって占領され、略奪された。それからは、二度と以前のような隆盛に立ち戻ることは

なかった。

  アレキウス一世コムネナス(一〇八一-一一一八年) が、その都市の奪回に成功し、聖ヨハネに因んで、エフェソをハギオス・テオロゴ

スと名称を変えた。しかし、十二世紀になって、トルコは、繰り返しその町を侵略した。デウィルのオドーは、十二世紀の中葉に、聖ヨハネ

の墓は異教徒を入らせないようにするために壁で囲み、エフェソには廃墟しかなかったと報告している。十二世紀のアラブの地理学者イ

ドリシは、エフェソのことを廃墟の中の街と述べている。また、もう一人の訪問者は、聖ヨハネの教会は、儀式の最中に、モザイクの装飾

に嵌め込まれている大理石が、大主教の頭上に落ちてくるというような荒廃した状況にあると報告している。

  しかしながら、ビザンチンの時代を通じて、エフェソはキリスト教徒にとって好ましい巡礼地として残った。一六一七年には、ロシアの修

道院長のダニエルが、聖ヨハネの墓を訪れている。彼は、聖ヨハネの死の記念の日に、墓から聖なる埃が舞い上がり、信徒たちは病気

を治す聖なる薬として、それを集めたと報告している。彼は三百の教父や、聖アレキサンダーの聖遺物、七人の睡眠者の洞窟、マグダラ

のマリアの墓、聖テモテの棺を訪れた。さらに、彼はネストリウスを否定するために用いられた処女マリアの像も見ている。二百年後、ラ

モン・ムンタナー・ブコンは、聖ヨハネの墓で起こった奇跡について証言し、墓から浸み出たものが子どもの出生、熱に効き目があり、嵐

の海を静めたと書いている。

  一三世紀はじめに、エフェソの大主教ニコラス・メザライツは、ビザンチンとラテンとの間の神学論争に大きな役割を果たした。 一三〇

四年に、エフェソはトルコに占領され、略奪された。しかし、彼らは二年後にビザンチンの援助によるカタランのお陰で、トルコは追い出さ

れた。エフェソは、長年の間、そこに定住する総大主教がないままであったことは明かであった。というのは、エフェソの総大主教マタイ

は、一三二九年の宗教会議の文章の中で、はじめて言及されているけれども、マタイ自身は、コンスタンチノープルにそのまま十年間滞

在していたからである。エフェソは、一三〇四年にトルコによって攻略されて以来、一三三九年のマタイの到着まで、定住する総大主教

いなかったことになる。マタイは、エフェソへの安全な旅行を求めて、スミルナの支配者ウムル・ベグを賄賂を使い、やっとスミルナからエ

ヘェソの方に行くことができた。モスクに変わってしまっていた聖堂を、自分に戻してくれるように懇願したが、認められなかった。総大主

教は、六人の祭司と、数千の教区の信徒とを抱えていた。多くの祭司や修道士はいたけれども、その大抵は囚人と奴隷であった。

  一三六八年には、エフェソの管区を強化しようとして、宗教会議は、フリギアの管区を付け加えた。なお、一年経つと、この地域は、一

人の祭司も支えることができなくなり、そこで、エフェソは、ペルガモン、ニュー・ホーカエア、クラゾメネスといった総大主教の管区の一部

となることを受け入れた。一三七五年には、トルコによって再侵略され、トルコがタマーレインに敗北を喫した一四〇二年には、戦火によっ

て、決定的な打撃を受けた。つぎの数年間は、街は自治に委ねられた。一方、バヤジッドの息子たちは、王位継承のために戦っていた

が、最終的には、ムラート二世が勝った。そして、ムラート二世が一四二六年に、エフェソを占領した。街は衰退したために、エフェソのマ

ルコが、一四三九年に、フローレンスで開かれた公会議に出席したときには、彼はみすぼらしい小さな村の羊飼いにしか過ぎなかった。

十五世紀になっても、総大主教はなお任命されていたが、十四世紀の終り以降、エフェソにおいての教会生活の記録は全然ない。一三

一八年から一四一一年には、ギリシア正教会に加えて、ラテン教会の司教の系列があったようである。というのは、アルトルオゴーという

名の町に、イタリア人が、商業による植民地を築いていたからである。

  十七―十九世紀におけるエフェソへの旅行家にとっては、その都市は失望しか与えなかった。彼らの報告は、紀元前三世紀にリシュ

マコスによって建てられた防壁の一部であるコレッソス山の西端の上にある大きな正方形の塔である「聖パウロの牢獄」について書いて

いる。彼らは、聖ヨハネの美しい赤茶色の大理石の洗礼盤を示された。アエギデウスバン・エグモント(一七五九年) は、それにさらに付

け加えて、つぎのように書いている。「ここでは、わたしたちの仲間であるギリシア人も、ローマ・カトリックの人も、友達に記念品として、プ

レゼントしようとして、その破片をもぎとろうとした。油を絞るために使われた皿の印がついていた。それは浅く、真中が盛り上がっていた」

と。後に、モスクに変えられたが、聖ヨハネ教会は、二つのドームがあった。その一つで、旅行家たちは、タマーレインによって放たれたと

いわれている矢を示された。ゼームス・エマーソン(一八二九年) が、ビザンチン帝国において、最も凄い建物の一つである聖ヨハネ教

会の上に聳えている丘に登ったとき、彼は「がらくたの積み重ねと、草の生えた壁と、御影意志の円柱が今も尚残っているのを発見し

た。旅行家の大抵は、七人の睡眠者の教会を訪ねている。

  旅行家の書いた報告によると、キリスト教徒の住民について、決まって憂鬱にさせる内容になっている。トマス・スミス (一六七一

年) は、その街が「かつてと比べて考えられないような小屋に減ってしまい、全部トルコ人が住んでいる」と言っている。また、リチャー

ド・ポコック(一七三九年) は、「エフェソの周りの五キロ以内に一人のキリスト教徒もいなかった」と報告している。他方、エドモンド・チ

スハル(一六九八年) は、エフェソの傍にある村の今は、セリンゼであるが、当時は、すべてキリスト教徒であったカーキンゼから報告

して、「祭司が、わたしたちに、プロコロによって書かれた由緒ある写本を示してくれた」と言っている。バン・エグモンドが、「エフェソの

古代教会の憂鬱な残滓」と、それを呼んだカーキンゼは、一九二二年まで、エフェソのキリスト教徒の直系の子孫のキリスト教徒

として残っていた。しかし、一九二二年に、ギリシアとトルコとの協定によって、キリスト教徒は一人もいないくなった。

(4) エフェソにおけるキリスト教の遺跡

a. 処女マリアの教会

  処女マリアの教会は、街の北西部の二世紀のローマの建物の跡にある。そのローマの建物は、音楽堂か、穀物と貨幣の取引所で

あったと思われる。四世紀の間に、それはおそらく、三五〇年位であったであろうが、最初のバシリカであり、それが教会に変

えられ、処女マリアに捧げられた最初の聖堂であったことは、確実である。それは、長さが二百六十メートル、幅が三十メートルあり、真

中の廊下は、半円型の奥室で終わっている。それは、高い円柱で支えられ、美しいモザイクで飾られている。西の端には、大きな正

方形の中庭と、モザイクの床のある正面の前室とがある。中庭の北側には、白い大理石でできている大きな深い水鉢のある八角型の洗

礼槽がある。それは、初期キリスト教時代の最もよく保存された洗礼槽である。建物の東の部分は、主教の住居と事務所になっている。

一九三〇年に、バシリカの前室で、一つの金属板が発見された。それには、大主教パティウス(五三一−五三六年)が、この教会で有

名な四三一年に開催された第三回公会議の場所であることを明かに書いている。一六一七年七月二六日に、法王パウロ六

世がこの歴史的な至聖所の遺跡に立って神に祈りを捧げた。

b. 聖ヨハネ教会

  エフェソの遺跡の北西にある小山の頂きに、聖ヨハネ教会がある。それは、昔はアヤ・ソルクとして知られたものである。初期の言い伝

えによると、聖ヨハネはこの丘の上で生活し、そして埋葬されたということである。その墓は、記念碑で印がつけられていた。しかし、四世

紀になって、その上に教会、いわゆるテオドシウスのバシリカが建てられて塞がれてしまった。六世紀には、ユスティアヌスがそのバシリカ

を取り壊し、そこに、「初期キリスト教世界で当時としては最大、かつ壮麗な教会」を建設した。この建物は、長さが百二十メートル、幅が四

十メートルあり、真ん中の廊下に被さる六つの大きなドームと、玄関を覆う五つの小さなドームとがついていた。その墓のある聖ヨハネの地

下室が、一九二六年の発掘によって、その至聖所の下にあることが分かった。真ん中の半円型の奥室には、精巧な台座がある。幾つか

の場所において、今でも、大理石射た床のモザイクの痕跡を見ることができる。円柱の頂きは、皇帝ユスティアヌスと、その妻テオドラとの

組み合わせ文字で飾られている。バシリカの北にある礼拝堂の半円型の奥室には、一〇世紀の壁画が残っており、その中には、聖ヨハ

ネのバシリカの中心部の北西には、洗礼槽がある。バシリカの外側の壁と、建物は、煉瓦でできている。

  エフェソが、トルコによって占領された一四世紀の初めには、この教会の貴重な器物のほとんどが略奪された。バシリカは、タマーレイ

ンによって、一四〇二年に破壊されたものと思われる。というのは、それ以前の巡礼者によって刻まれた一三四一年と一三八七年との

落書きによって、そのときにはまだ存在していたことがわかるからである。

c. 七人の睡眠者の洞窟

  中世のキリスト教徒の巡礼の旅で、最もよく知られている場所の一つは、エフェソの七人の睡眠者の大きな洞窟である。その洞窟は、ピ

オン山の麓にある。皇帝テオドシウス二世(四〇八ー四五〇年)が、約二百年の間、七人の若い王子が眠っていた洞窟を神聖なものとする

ために、教会を建てた。オーストリヤ考古学研究所による一九二七年から一九二八年にかけての発掘によって、渓谷にある幾つかの建物

が明るみにだされた。その中には、十の部屋のある地下墓地の上にあるテオドシウス二世によって建てられた教会があった。そして、テオ

ドシウスの教会の西には広い大墓地があり、その北には壮麗な墓所があった。また、四百もの墓のある大きな地下室、平屋根の教会、そ

して、いわゆる未完成のアブダラスの壮大な墓所があった。発掘の間に、そこに捧げた二千以上のランプが発見された。教会の壁を飾って

いるフランク人、ギリシア人、アルメニア人の巡礼によって書かれた一四世紀と一五世紀との落書きは、その場所が巡礼の場所として、引

き続いてよく知られていたことを裏付けている。しかしながら、一七世紀ごろまでには、その場所は、荒廃してしまったと伝えられている。

d. 聖母マリアの家

  ギリシア・トルコの混じり合った名称によって知られているパナヤ・カプラ、すなわち、あらゆる聖なるものの家が、パルパル・ダーの頂上

にある。エフェソにおける聖母マリアの住居としての言い伝えは、イエス・キリストの昇天後、聖ヨハネがエルサレムを去ったとき、彼が聖マ

リアを一緒に連れて言ったという言い伝えに基づいているのである。ヨハネによる福音書によると、使徒は彼自身の家にマリア連れていった

(ヨハ19・27)となっている。学者によっては、その言葉は、「エフェソにおける聖ヨハネの家」と解するのである。

  四世紀の言い伝えによれば、聖母マリアは、エフェソに住んだ。そして、その世紀の中葉の始めまで、「使徒ヨハネは、その生涯ま大部

分をエフェソで過ごし、そこで亡くなった。聖母マリアとマグダラのマリアも、そこで亡くなった」と信じられていた。一九世紀の後半まで、エフ

ェソのキリスト教徒の子孫であるカーキンゼのギリシア正教のキリスト教徒は、毎年、パナヤ・カプラでの聖母被昇天祭に集まった。このよう

にして、カーキンゼのキリスト教徒は、数世紀にわたり、中世初期からの伝統を守ってきたのである。しかし、もしも、ドイツの修道女キャサリ

ーン・エメーリッヒ(一七七四ー一八二四年)の受けた上よりの幻がなかったならば、その伝統は、一九二二年に、キリスト教徒が小アジアを

去ったと同時に、消失してしまったであろう。しかしながら、キャサリーンの受けた上よりの幻によって、エフェソにおける聖母マリアの住居へ

の関心を復活させた。修道女キャサリーンが、主の昇天後に聖母マリアが聖ヨハネと一緒に住んだ家の地勢を正確に描いた上よりの幻と

は、つぎのようなものであった。

  「マリアの住居は、エルサレムから通じている道路を左にまがった丘の上にあり、エフェソから約三時間半のところにあった。・・・・・・この

台地の上に、ユダヤ人の移住者たちは、自分の家を建てた。・・・・・・・・・聖ヨハネは、マリアをここに連れてくる前に、その聖母のための家

を建てていた。マリアの家は、石で造られた唯一のものであった」と。

  一八九一年には、スミルナにあるラザリスト・カレッジの委員長である教父ユージン・ボーリンは、その修道女キャサリーンのマリアの家に

ついて書いたものにしたがって捜し、古代の家の遺跡を発見した。それは、教会に変えられていた。その遺跡の年代は、考古学者によって

異なるけれども、壁のある部分は、一世紀からのものであるとされている。エフェソの聖母マリアの住まいについての言い伝えは、キリスト

教の敬虔さと献身が結晶した珠玉のように美しい物語である。それは、多くの巡礼者たちをして、キリスト教の信仰がどんなに素晴らしいか

をより深く味あわせる。世界中からやってきた人たちが、アルテミス・ダイアナに帰依したまさにその場所で、今や、熱心なキリスト教徒たち

が、聖母マリアを称えるためにやってくる。