4.スミルナの教会へ
(1) 古代スミルナについて
スミルナが、いつできたかは、神秘に包まれていてわからない。初期のビザンチンの言い伝えによると、その位置は、始めはタンタリスと
して知られていたところであるという。そのことは、スミルナは、リディアにあるシビルスの王であったタンタロスによって造られたものであるこ
とを示している。ヘロドトスは、テセウスが、その妻のアマゾンの名前をとって都市スミルナを命名したと書いている。一方、スミルナとよばれ
た別のアマゾンからその名前をとったとするものもある。また、他の人は、スミルナという名前を、花嫁の香水や、通常の家で使ったり、埋葬
に使ったりする貴重な香料に関係づけている。この地方でできた香水は、古代ギリシアではスミルナとして知られているバルサムデンドロン
・ミラと言われる小さな茨のできたての脂を調合して作られる。しかし、この都市の名称と香料との関係は、たとえあるとしても、なお未解決
で神秘に包まれている。といっても、どの場合も、アナトリアに起源がある。
アンカラ大学による発掘によって、港の端にあるベイラクリの近くに、テベクレとして知られている場所に、紀元前二千年代にできた小
規模の村落の痕跡が明らかになった。紀元前一一世紀に、レスボスやキメからのアイオリスの定住者その地域を奪い取り、非常に栄え
た商業の中心を創り出した。けれども、最終的には、スミルナはコロフォンのイオニア人の手にわたり、イオニアの第十三番目の州になっ
た。紀元前七世紀には、スミルナはイオニアとともに繁栄した。そして、都市は広がったが、まもなく、リディア王の狙うところとなった。リ
ディアのギゲス(紀元前六八五−六五七年) は、スミルナ人によって撃退されたが、アルヤテス三世(紀元前六〇九-五六〇年) がその
都市を略奪した。紀元前五四六年にペルシア大王キュロスが、リディアの最後の王であるクロイソスを征服し、負かしてしまった。そし
て、スミルナは二世紀の間、ペルシアの支配下に入ることになった。
その後、その都市は、アレクサンドロス大王によって再建された。アレクサンドロス大王は、紀元前三四四年に、サルディスに次いで、
スミルナを訪問した。パウサニアスは、こんなことを書いている。アレクサンドロス大王が、パガス山にある二人のネメシス(復讐の女神)
の祭壇の傍らにあるプラタナスの木の下で眠っているとき、その睡眠中に女神が現れて、そこに都市を造るように命じた。クラロスで、アポ
ロの神託を受けてそのことを確認してから、その丘の上に、スミルナ人が定住した。ストラボによると、その計画は、アンティゴヌス(紀元
前三一六-三〇一年) によって実行されたと。リシュマコス(紀元前三六〇-二八一年) が都市を拡張し、堅固にした。
スミルナ人は、ローマをアジアの将来の支配者とすることにおいて、最たるものであった。セレウコス王朝が、なお権力の頂上にあった
紀元前一九五年に、スミルナの人たちは、神殿を建て、偶像化されたローマの崇拝を始めた。一世紀遅れて、スミルナの公けの集まり
で、ミトラダテス六世エウペイターに対する戦いで、ローマの軍隊の疲弊を知ると、市民は自分たちの着ていた衣服を脱いで、衣服なしで
震えているローマ人に贈った。スミルナは、他の都市と一緒にローマ共和国の下にあるアジア州の受けている悲惨さをともにし、かつ、
帝国下の繁栄をも享受した。キケロが、スミルナを「われわれに最も誠実で、最も古い同盟者」と言い表すとき、それはスミルナについて
のローマの感情を、よく表現している。ストラボは、図書館や、その中にある神殿のある長方形の柱廊や、ホーマーの木像に言及し、つ
ぎのようにいう。「スミルナの人は、またその詩人に特別な主張をもっている」と。というのは、ホーマーは、スミルナ出身であると信じてい
るからである。しかし、この信念は、スミルナに限らず、ロドス、コロフォン、サラミス、キオス、アルゴス、アテネの市民ももっているからで
ある。スミルナの女神は、シピリーンとして知られている地方に、いろいろと存在するキュベレの一種である。
スミルナは、「アジア第一である」と主張した。しかし、これもスミルナに限らず、ペルガモンやエフェソもそう主張している。そして、捉え
方如何で、三つの都市のすべてが、そう呼ばれるのに相応しいのである。にもかかわらず、スミルナは、アジアの最大の都市であり、最
も美しいと言われる。アテネ人のフィロストラタス(一七〇-二四五年)によると、ヨーロッパの都市でスミルナと比較できるようなものは、一
つもないということである。
(2) 使徒時代のスミルナ
わたしたちは、スミルナでのキリスト教の始まりは、その近傍のエフェソにおける使徒パウロの宣教活動と一致しているとすることがで
きよう。スミルナの人たちに宛てた聖ヨハネの手紙から、スミルナには、大規模なユダヤ人の植民地があり、その中のあるユダヤ人は、
キリスト教の信仰をもっていたと推測できる。ギリシア正教会の月毎の礼拝の儀式などを定めている書物であるモノロギオンによると、九
月十日にお祭りのある「真のキリスト信者アペレ」 (ロマ10・10) は、スミルナにある教会最初の主教となって奉仕した。別の言い伝えに
よると、この最初の主教という栄誉を、アリストンに与えている。このアリストンの後に、二テモ1・5にでてくるロイスの息子ストラティアス
が主教になった。ストラティアスの次に、ポーコラスがなった。ポーコラスは、青年時代にキリスト教信仰に入り、その後、聖ヨハネによっ
て聖職に任ぜられた。聖ヨハネが、スミルナに宛てて手紙を書いたときには、ポーコラスは教会の指導者になっていた。外典のヨハネ行
伝によると、聖ヨハネは、パトモスの流刑の後、スミルナに戻ったとしている。
聖ヨハネのスミルナの人たちに宛てて書いた手紙は、その人たちを誉めちぎっている。それは、書いた聖ヨハネが、教会の大変な状況
に対して深い同情をもっていたからであろう。エフェソの人たちに対しては、あまり同情的ではないのに対して、スミルナのキリスト教徒に
は、愛情に溢れているといってよい。このことは、おそらく、聖ヨハネが教会員の一人々々をよく知っていたことによるものであろう。
スミルナにある教会の天使にこう書き送れ。
『最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方が、次のように言われる。「わたしは、あなたの苦難や
貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。自分はユダヤ人であると言う者どもが、あなたを非難していること
を、わたしは知っている。実は、彼らはユダヤ人ではなくサタンの集いに属している者どもである。あなたは、受けようとして
いる苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あな
たがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。耳ある者
は、"霊"が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない。」』
(黙2・8-11)
もしも、何世紀にもわたる荒廃によって絶滅させられるとすれば、その都市はまさにスミルナであった。しかし、スミルナは、大損害を与
えられながらも、そうはならなかった。スミルナは、アレクサンドロス大王によって再建されて、甦った。苦難と貧しさは、スミルナの教会の
問題であった。ユダヤ人の改宗者は、自分たちこそ「真のイスラエル」であると主張した。そのことが、シナゴーグのユダヤ人たちの敵意
のある反動を誘発したことは、想像にかたくない。そのユダヤ人たちが、ローマの官憲に密告し、その結果、多くのキリスト教徒が獄に繋が
れたのである。わたしたちは、スミルナのシナゴーグがどこにあるか知らない。けれども、グレコ・ローマン時代の四つのギリシア語の碑文が
発見され、それにはスミルナのユダヤ人のことに言及しており、その一つが、具体的にスミルナのシナゴーグのことを書いていることから判
断して、その存在は明かであろう。
しかし、その迫害は「十日間」しか続かなかった。だが、この黙示禄の十日間の意味は、何のことか全然分からない。スミルナの人たちの
人たちの主に忠実なことに対する報いとして、「命の冠」が与えられる。この譬えは、スミルナの人たちが、何を意味するのかよく知っていた
に違いない。ティアナのギリシアの哲学者であったアポロニウス(紀元一世紀) によると、「スミルナの冠」という語句は、丸くなっている頂きの
上に堂々たる公共建築物があり、それから傾斜して広がっている街のあるパガス山の容姿から生じたものとしている。二世紀の修辞学者の
アエリウス・アリスティデスは、スミルナに暫くの間住み、地球の上の理想都市としてスミルナを考え、街をアリアドネの冠になぞらえている。
聖ヨハネは、「新しい冠」がスミルナに与えられると約束している。スミルナは、もはや単なる都市の冠を着けるのではなくて、命の冠を着け
るのである。信仰の深いスミルナの人たちは、また「第二の死、火の池」(黙20・14) から害を受けることはないと。
(3) スミルナにおける教会についての歴史上の覚え書
聖ヨハネがスミルナの人たちに宛てて手紙を書いて数年後、ほぼ、一〇五年に、シリアのアンティオキアの第三番目の主教の聖イグ
ナティオスは、ローマへの途中、彼はローマでコロシアムで獣のところに投げ込まれることになるのだが、スミルナを通った。イグナティオ
スは、小アジアの旅行中、幾つかの教会を訪ねている。そして、スミルナに滞在中に、イグナティオスは、エフェソ、マグネシア、トラレス、
ローマにいるキリスト教徒に手紙を書いた。この旅の少し後、トロイで船を待っている間に、スミルナの人たちに手紙を出した。それには「主
イエス・キリストの十字架に釘づけにされたかのような、揺るがない信仰」に対して、スミルナの人たちを賞賛している。また、彼は異端の教
師を警戒するように言っている。そして、主教と長老の言葉に服従するように奨めを行なっている。なぜなら、「主教という栄誉を与えれてい
る人は、神によってもそれに値いする栄誉を与えられているからだ。」また、彼は聖ヨハネの弟子であったスミルナの主教ポリュカリポスに
対しても手紙を書いた。
聖ポリュョカルポスは、使徒時代を二世紀の教会へと結びつける役割を果たした人である。彼は、一一五年から、一五五年にかけて、ほ
とんど半世紀の間、スミルナの教会に奉仕した。しかも、その生涯を通して、異端に対する妥協しない敵対者であった。彼は八十歳を超え
て人生の終わりに近づいたころ、主教アニセタスを訪問するために、ローマに出向いている。それは、復活祭の日付けをアニセタスと論議す
るためであったという。
スミルナのエウアレステスは、スミルナの教会からフィロメリウム(ピシディアのアンティオキアの近くのフリギアにある) の教会に送っ
た二世紀の手紙で、この都市の殉教の試練についての記録を認めている。その多くはフィラヌ゛ルフィアから来た十一人のキリスト教徒
が、闘技場に抛り込まれた。その闘技場は、地方総督のスタティウス・クオフィリポは、ゲルマニカスという名前の若者を、打ち負かされ
たが闘技場で野獣とよく闘ったとして賞賛した。けれども、もう一人のフィリギア人のクイントゥスという名前のキリスト教徒は、野獣を見る
と、すぐに神々に犠牲を捧げた。というわけで、他の十人の殉教は、群衆の残虐な貪欲を刺激するだけだった。そこで,ポリュカルポスも
ひきずり出せと、群衆は叫んだ。年老いた主教は逮捕されて、キリスト教信仰を撤回し、キリストから離れるように説得された。しかし、彼は
断固として拒絶した。そして言った。「わたしは、八十六年間、主に仕えてきた。その間、わたしが主を裏切っても、主はわたしを一度として
裏切ったことはなかった。どうして、今更、主を裏切ることができますか。わたしを救ってくださったのは主です。あなたではありません。」官
憲は、説得を続けたけれども、ポリュカルポスは拒絶し、ただ、つぎのように答えるのみであったという。「わたしはキリスト教徒です。」この
ことを聞いたとき、群衆は直ちにライオンのところに投げ込むように要求した。しかし、アシアークは、これを拒んだ。というのは、このときまで
に、闘技場は公的には閉鎖されていたからである。それで、群衆はポリュカルポスを焼き殺すことを求めた。地方総督は、そのことに
同意した。「アジアの教父、キリスト教徒の父、神々の破壊者」ポリュカルポスは、静寂な尊厳さと、決然たる勇気をもって、最後をまっと
うした。キリスト教徒は、その遺骨を納め、「宝石よりもはるかに貴重なもの、金よりもはるかに立派なもの」とした。
スミルナの教会は、聖ポリュカルポスや聖イグナティオス以外にも、他の優れた初代キリスト教徒がいたことによって、真に、祝福され
た教会である。二世紀の終わりに、リオンの主教であり、ニケア以前の時代の教会の最も顕著な神学者であった聖イレネウスは、その
子どものときに、小アジア、おそらくは、スミルナで過ごしたものと思われる。そこで、子どもながら、聖ポリュカルポスの説教を聴いたに
ちがいない。地方の言い伝えによると、聖イレネウスは、スミルナの教会の長老として奉仕したということである。二世紀の後半部分に
は、スミルナの管区は、祝福されたパピリウス、それから、カメリウス、そして、ユーメニアのトラシウスによって取り仕きられた。
デキウスの迫害(二四九-二五一年)の間に、長老のピオニウスと、その仲間は、スミルナで殉教した。ピオニウスは、ポリュカポスの殉
教の日に逮捕された。そして、彼が死ぬ前に、神殿の番人ポレモンの前で、つぎのように言った。
スミルナの美を誇るあなたたちよ。メレス川のほとりに住み、ホーマーを誇りにするあなたたちよ。この聴衆の間にいるユ
ダヤ人たちよ。わたしの短い話を聞きなさい。逃亡した人たちを、あなたたちは笑い、嬉しがっています。神々に犠牲を捧げ
た人々の誤りは取るに足りないものと思っています。ギリシアの人々よ。あなたがたの教師ホーマーのいうことを聞く必要があ
ります。死ななければならない人たちを、満足そうに眺めることが神聖なことではないということでしょう。ユダヤの人たちよ。モ
ーセが、このように命令していることを思いだしなさい。あなたの敵の動物が、荷物の下に倒れるならば、通りすぎないで、行っ
て起こしてあげなさい。わたしは、とにかく、わたしの主に従い、その主のご命令に背くよりも、死を選びます。
スミルナの主教エウクテモンは背信し、官憲の要求に応じ、神々に犠牲を捧げた。けれども、ピオニウスは、信仰に留まり、殉教の死
を遂げた。
異教信仰は、スミルナに深く浸透し、長く続いた。ハドリアヌス(一一七-一三八年) 治世に、当時、「賢人たちの雄弁の森、イオニアの
美術館、美と音楽の場所」として知られていたスミルナの大学に、学ぶために、若者が集まったのである。二世紀に、パウサニアスが、と
くにスミルナの人たちによって尊敬されていたネメシスやグレイスの優美な像に心うたれている。
つぎの数世紀の間、スミルナの教会がどうなったかについては、資料がない。一七八年に、そしてまた、一八〇年にも、スミルナは、
地震によってひどく破壊された。しかし、それぞれのときに、皇帝マルクス・アウレリウス(一六一-一八〇年) によって再建された。三ニ五
年には、スミルナのエウティキウスが、ニケアでの第一回公会議において、その管区を代表して出席した。五世紀の中葉には、フン族の
アッチラがスミルナを征服した。しかし、彼はスミルナを占領しはしなかった。スミルナのキリスト教会は、強さにおいて、また数において、
着実に成長した。そして、スミルナは、小アジアにおけるより重要な大主教の管区の一つとなった。六七三年に、スミルナは暫くの間、ア
ラブによって占領されたが、しかおし、アラブはその要塞を攻略することはできなかった。賢者レオ皇帝(八八六-九一ニ年) は、ビザンチ
ン帝国における重要な大主教の管区の一つとして、スミルナの教会に、行政上の独立を与えた。
一〇七一年におけるマンチカートでのビザンチン軍の徹底的な敗北後、セルジューク・トルコが、スミルナを攻め、一〇一六年に、クトラ
ミッシュ・オグルー・スレイマンの襲撃によって攻略された。数年後、トルコの海賊ツアカスが、キオスやサモスの島を含む小規模な本拠
地をスミルナに定めた。一〇九七年に、ビザンチン皇帝アレキウス一世コムネナスの従兄弟であるヨハネ・デュカスは、カスパ提督と一緒
に、スミルナ湾に停泊し、トルコ人を降伏させた。一ニ世紀の初めには、ビザンチンは、数年におよぶ戦いによって荒廃してしまった沿岸
ぞいの都市を復興した。一一四七年のクリスマスのころに、フランスのルイ七世がシリアに行く途中も
スミルナに立ち寄っている。コンスタンチノープルが、ラテン民族によって占領されていたときには、(一二〇四-一ニ六一年) 何人かのビ
ザンチン皇帝は、スミルナの地域、とくに、ニンファウム、今日のケマルパシャに避難した。そこは、皇帝アンドロニクス一世(一一八三-
一一八五年) が宮殿を建てたところである。一二二二年には、ニケアの皇帝ヨハネ二世デューカス・バタッツェス(一一八三-一一八五年)
がその都市を再建し、美化した。ゲノエスの援助の下に、ビザンチンによるコンスタンチノープルの奪回後に、ゲノエスは、取引の居留地
を与えられた。そのことが、彼をスミルナの真の支配者としたのである。
一四世紀になって、最初の数年間は、要塞は一三二〇年までもちこたえていたが、スミルナは、アイディンのスルタンの手に落ちた。
スミルナが陥落する数年前に、総大主教が、そこへ任命された。その大主教は、「迷っている人々を神を畏れるように立ち帰らせ、神の
道に背いた人々を取り戻しなさい」という指示を携えていた。 アラブの旅行家イブン・バトゥータが、一三三〇年にその都市を訪ねたと
き、スミルナは彼にとって「大部分破壊された街」として写った。一三四四年十月二十八日に、都市は聖ヨハネ騎士団によって占領され
た。その聖ヨハネ騎士団は、法王グレゴリウス十一世から、都市の保護を委ねられることになった。
一四〇二年に、タマーレインは、彼らにメッセージを送って、回教を信ずるように要求し、もし拒絶すれば殺すと脅した。騎士団は、その
最後通牒を拒否したので、タマーレインは都市を包囲し、一四〇二年十二月十七日に攻略した。騎士団はガレー船に乗って逃亡したが、
スミルナのキリスト教徒は、殺害された。タマーレインがその都市を去るときに、その都市を彼の同盟者のアイディンのスルタンに送った。
スルタンの家族の王子のキュネイトが、一四〇五年から一四一五年まで、スミルナを統治した。その後、アスマン帝国の一部になった。
さらに、一四七二年には、簡単に、ベネチアによって占領された。
スミルナが回教徒によって占領されたがために、スミルナの教会は、力と威信とを失うこととなった。一三一八年には、コンスタンチノー
プルの大主教は、スミルナの大主教に対し、キオカスの主教の職を与えた。それは、「その管区から必要な聖職を奪ってしまわないため
であった。」 だが、わたしたちは、.一三八九年後には。スミルナの首都管区についての記録を持たない。しかしながら、教会はタマーレ
インによる征服にも耐えて生き残り、十五世紀には、総管区のカタログの中にその名を見ることができる。
スミルナのラテン管区は、法王クレメンス六世によって、一三四六年につくられた。そして十七世紀まで、妨げられずに肩書きをもっ
た司祭が引き続いてスミルナには存在した。スミルナにやってきた最初のカトリック伝道団は、フランシスコ会であり、前のギリシア正教
の聖フォンティーン教会堂の近くに、一四四〇年にその住居を建設している。一六二三年には、最初のゼスイットがフランス人の教戒師
としてやってきた。その後、まもなく、カプチン教父たちがやってきた。最初の聖公会の監督、トマス・カーティス師は。レバント会の会議に
よって推薦されて、一六三六年にやってきている。さらに、数年遅れて、オランダがスミルナにプロテスタントの礼拝堂を建てた。
わたしたちに、中世のスミルナについて説明してくれる最初の西欧の旅行家の一人は、パシフィック教父である。一六二二年に、彼は
一、ニのギリシア正教会、一つの小さなカトリック教会、一つのシナゴーグ、四つのモスクをリストにあげている。十七世紀の旅行家にとっ
ての最大の関心事は、キリスト教徒の住んだところであった。そして、聖ヨハネの牧会や、聖ポリュカルポスの殉教の場所が決まって訪
問された。十七世紀の中頃になっても、お城の下のサンタ・ベネランダの近くの「聖ヨハネが住んだ洞窟」が、今までどおり取り上げられ
た。また、洗礼のために、聖ヨハネによって使用された洗礼槽のほかに、「大きくて、礼拝堂のある聖ヨハネの大会堂」も取り上げられて
いる。サンドウィッチのイアール(一七三八年)は、モスクに変えられた聖、ヨハネの教会が、お城の中心にあったと教えられた。ただし、十
九世紀の初めに、同じ建物が、十二使徒に捧げられたものとして信じられるようになっていた。聖ヨハネは、エフェソに埋葬されたとする
言い伝えは、すでに長い歴史があり、また、十分確立されたものであつたけれども、十七世紀のスミルナのギリシア人は、その使徒の
墓がスミルナにあることを信じ、そう指摘することに誇りをもっていた。
今、なお、巡礼の旅で最も重要とされるのは、聖ポリュカルポスの墓である。パシフィック教父は、つぎのように書いている。「街が昔か
らあるところに、小さい庵のような小屋があり、そこには回教の修道士が泊まっており、その小さな部屋の中に、聖ポリュカルポスの体で
はなく、棺があった。それは、褐色の布切れで覆われていた。そして、その上には、奇妙な形をした主教のきるかぶりものが置かれてお
り、その前には、アラビヤ語でアラーと書かれている。トルコ人は、この墓に対して大きな尊敬の念をもっていた。というのは、彼らは、ポ
リュカルポスは神の伝道者であり、預言者マホメッドの友人であった」と言っているからである。シェウル・デス・ヘイズ(一六四八年)は、
「スミルナのキリスト教徒は、その都市の周りにある神聖なものの印によって、多くの慰めを与えられていた。その一つは、主教の聖ポ
リュカルポスが殉教したとき、彼によって植えられた杖が根を張り、桜の木に成長したものもあった」と書いている。
一六五七年には、聖ポリュカルポスの墓は、回教の修道士の手を離れて、ギリシア正教の修道士に移った。その時には、墓は要塞
の東側にあった。リチャード・ポコック(一七三九年)は、別の場所に墓があったと報告している。彼は、墓が移ってから旅行した最初の人
であった。しかも、その墓は、トルコ人によって世話をされていたと。「町の南端にむかう丘の麓に劇場が立っているところに、すべてが建
てられている。基礎を除いては、野外劇場の跡は何も見られない。城の北西の隅に、聖ポリュカルポスの墓が存在する。彼のお祭りのと
きに、ギリシア人が大騒動を起こした。そのために、下級裁判官は、それがあたかも回教の聖徒の墓であるかのように、石のターバンに
よって覆われた」としている。ゴットヒルフ・エッチ・フォン・シューベルト(一八三七年)は、トルコ人によって尊崇されていると付け加えてい
る。トルコ人たちは、古くから行なわれているベイラムのならわしにのっとって、ここで子羊を殺し、その肉を貧しい人たちに配った。一九
五二年までに、聖ポリュカルポスの墓で、ときと゜き超教派の礼拝が行なわれた。
今日、円形劇場の中には、聖ポリュカルポスの殉教の場所として祝っていた祭壇は存在しない。しかし、カディフカーレの城の中の地下に牢
獄がある。言い伝えによると、彼はそこで鎖に繋がれていたということである。一六五五年に、テヴェノートは、つぎのように書いている。
「ギリシア人の教会であるサンタ・ベネランダに行く途中の城の下に、大きな円形劇場があり、そこで聖ポリュカルポスは殉教した。そ
れは非常に高く、その上部には、今でも行政長官の席のあったとされる五つの席がある」と。
西の円形劇場も、パガス山の北西の傾斜面にあった劇場の残骸も、何も残っていない。一六七五年には、劇場は高官アーマッドによっ
て破壊され、その材料は他の建物を造るために利用された。聖ポリュカルポスの殉教の場所であるスミルナの劇場は、城にゆく現在の
近くの城から約四百メートル離れたところにある。しかし、今は建物が完全に取り払われており、そこに、長い空洞がある。
一六八八年に、スミルナは激しい地震があった。そのために四千人もの人が亡くなった。一六九四年には、ベネチア人がキオス島を
占領し、その後間もなく、ベネチア人のガレー船がスミルナ湾に出現した。トルコ人は、スミルナのキリスト教徒をすべて人質にしようとし
たが、イギリス、フランス、オランダの領事が、ベネチア人を説得し、撤退させた。一七七〇年には、ロシア人がギリシア人に反乱を起こさ
せ、その復讐として、トルコ人は、スミルナだけでも一万人以上のギリシア人を殺害した。二十七年後、大火災がスミルナのすべてを焼
き払い、四千五百の家屋が灰燼に帰した。
これらの苦難に満ちた幾世紀を経験して、スミルナのキリスト教会は、「死に至るまで忠実であれ。そして、命の冠をうけなさい」という
使徒の勧めを忘れず、ひるむことなくその福音の証人として生き続けてきた。聖ポリュカルポスにならって、キリストへの誓約にその生命
を賭したスミルナのキリスト教徒の名前をすべてあげることは不可能である。その多くは、いろいろな理由のために回教を信じ、後、悔い
改めて、公けにキリストを信ずることを宣言した貧しい人たちであった。
スミルナには、十七世紀には一万から一万二千のキリスト教徒がいたと言われている。しかし、教会は二つしかなかった。一七三九
年に、リチャード・ポコックは、七千から八千のギリシア人と三つの教会、二千のアルメニア人と一つの教会、五千から六千のユダヤ人
と一つのシナゴーグがあったと推定している。十九世紀の初めには、スミルナの総大主教のグレゴリスは、コンスタンチンノーブルの大
主教に人ぜられたが、彼は、一八二一年に、トルコの支配からの独立のためのギリシアの叛乱(それは成功したぬのであるが)の始ま
ったときに、管区の門に吊るされた。その聖遺物が、アテネにある受胎告知教会の大会堂に安置されている。
さて、一九〇六年には、スミルナは、キリスト教の大変盛んな都市であった。そこには、十三万五千人のギリシア人と、一万一千百
七十五人のカトリック教徒と、八千五百人のアルメニア教徒と、九万一千百七十五人の回教徒と、二十五万五千人のユダヤ人と、二
千八百六十人のその他の人たちが住んでいた。
第一次大戦後、ギリシアはスミルナの地域を要求し、ギリシアの要求を権威づける三国会議の決定によって、イタリアもアメリカも、
知らないままにスミルナの占領を認めた。そこで、一九一九年五月にギリシアの軍隊が、スミルナに進駐した。そして、一九二〇年八
月十日に調印されたセーブル条約によって、スミルナとその後背地のイオニヤは、五年間、ギリシアの管理の下に置かれることになっ
た。このことは、革命を達成した若いトルコにとっては受け入れられないことであった。そこで、トルコは、広い範囲で占領しているギリ
シア軍を追い返した。トルコ軍は、一九二二年九月九日にスミルナに入り、その後間もなく、スミルナは大火に包まれることになった。
九月一五日には、スミルナの総大主教クリソストムスは殉教した。エフェソの総大主教は、外国の船に乗って、変装して逃げた。火
はアルメニア人の住む大部分を焼く尽くしてしまった。この期間に、この都市で約五万人のキリスト教徒が殺されたと推定されている。
この大虐殺の後には、そこで生れたキリスト教徒は、一人としていなくなった。この虐殺によって、二つの国は、痛ましい関係を持つこ
とになったのである。この悲劇の本当の理解を最初にしてくれたのは、イギリスの偉大な歴史家アーノルド・トインビーであったと思わ
れる。彼はその責任を西欧の政治家、特に、ロイド・ジョージに帰している。それは、彼らがアナトリアの領域に対するギリシアの要求
を呑んだことにあったとしているのである。
(4) スミルナにおけるキリスト教会と遺跡
イズミールという都市は、黙示禄の七つの教会のうちで、いまなお、規則的に礼拝の行なわれている唯一の都市である。一八六ニ年に
建てられたローマ・カトリックの聖ヨハネの大聖堂では、そのほとんどは、外からやってきた外国人であるけれども、カトリック、プロテスタ
ントが、毎日曜日、礼拝を行なっている。
また、アルサンカクにある聖公会の聖ヨハネ教会は、以前の礼拝堂のあった同じ場所に、一八九八年に建てられたものであり、規則的
に毎日曜の礼拝が行なわれている。
イズミールでのNATOの軍隊とともに、礼拝を行なっているギリシア正教会は、オランダの改革派教会の礼拝堂において、五十年代初
期から礼拝を守っている。その礼拝堂は、オランダ改革派教会から九十九年間貸借したものである。
以前のスミルナにあったビザンチン教会の幾つかのものの教会の遺跡は、散逸してしまっているが、その一部が、古代スミルナのギリ
シア・ろーまのアゴラの大理石の断片の間に見出される。