讃美歌216(ああうるわしき、シオンのあさ)

T始まり

T パウロの生い立ち

1. タルソス

 そこで、使徒パウロの生い立ちからみてまいりたいと思います。パウロは、聖書によりますと、タルソスの出身とありますが、彼が生

まれたとされるタルソスという町は、 今のトルコの小アジアの南岸の東のキリキア州にあります。キリキア州には、海岸がキプロス の

方に出張っている西部の山岳地帯と、東の豊かな平野との二つの部分があります。東から入 って、アマナス山にあるシリア峡門を通

ってキリキア州に入ります。北からはタウルス山脈を通過して、キリキアの峡門から入ります。ここを流れている川をカキット川といい、

一番狭いところではわずか十八メートルしかありませんでした。両側は、百二十から百五十メートルの 険しい岩壁になっていました

が、今は高速道路ができていて、昔の面影は残っておりません。 ここを、ペルシア王ダレイオス一世、アレクサンドロス大王、ビザンチ

ンの皇帝たちの軍隊、十 字軍、そして最後には、第一次世界大戦の終わりに、スエズ運河から撤退したトルコとドイツ の連合軍が行

進しました。パウロは第二回と、第三回の伝道旅行のときここを越えてデルベに 向かいました。それが、 写真2,3 、4です。

2. キリキアの峡門1

3.キリキアの峡門2

4. キリキアの峡門3

 このキリキアの峡門には、アレクサンドロス大王の有名な「われ、ここを通れり 」という言葉を刻んだ石碑があったのですが、ガイドさ

んに尋ねましたがわかりませんでした 。

 このキリキアの平野には、三つの比較的大きな町があります。タルソスとメルシンとアダナとです。タルソスはメルシンとアダナとの

間にあります。現在人口は、約六万 五千です。その真ん中にキュドノス川が流れていましたが、洪水による害のために、七世紀 に、

ユスティアヌス皇帝が水路を町の東側に変えたために、今は小さな支流が町を流れるにす ぎなくなってしまっています。そのキュドノ

ス川の渓谷が 写真4,5,6、7、8 です。ここにキュノドスの滝がかかっています。ここらあたり、小さいころ、パウロが慣れ親しんだと

ころだったのでしょう。

5.キュノドスの渓谷1


6.キュノドスの渓谷2


7.キュノドスの渓谷3

8.キュノドスの渓谷4

  その昔、アレクサンドロス大王が東方遠征の途中で、このキュノドスの冷たい滝 につかって、風をひき、大病を患ったということで

す。このことにまつわるこんな話が伝えら れております。

 アレクサンドロス大王の病気があまりにもひどかったので、ほかの医者たちは治療に手をくだすことをしませんでした。というのは、も

しも駄目であったときに、マケドニア の人たちの非難をおそれたからです。そこで、医者のフィリッポスは、最大限の治療をこころみま

した。

そして、薬を調合したのです。ところが、このときアレクサンドロス大王の部下の一人が、手紙をアレクサンドロス大王に送ってきまし

た。その手紙には、フィリッポスがペルシア 王ダレイオス一世と通じていて、沢山の贈り物と王女との結婚と引き換えに、薬でアレク

サン ドロス大王を殺すことになっているという内容でありました。アレクサンドロス大王は、その手紙 を読んで枕の下に隠しました。や

がて、フィリッポスに渡して、その薬を疑うことなく飲みました。フィリッポスは、そのような疑いをもたれているのではないかと思うと、生

きた気がしせんでした。アレクサンドロス大王は、その薬を飲んで昏睡状態になりましたが、やがて目が覚め 元気になったということ

です。この話は、英雄の豪胆な気性の一端に触れるような気がいたします。 写真9 は 、ナポリの博物館にありますアレクサンドロス

大王の姿です。



9.アレクサンドロス大王

(ナポリ国立博物館所蔵)

  さて、このキュノドスの渓谷は、現在はタルソスに住む人たちの憩いの場にな っています。休みともなれば、人々は、ここにでかけ

てきて、食事をしたり、お茶を飲んだり 、ゲームをしたりしています。わたしたちも、ここにきてチャイという紅茶をいただきました 。 写真

10は、同行の人たち皆でお茶をいただいているところです。写真 11、12 はそこのお店です。タルソスからこの川の渓谷を見上げる

ことができます。おそらく、山々は一年中、雪にお おわれていたことでしょう。この情景が、使徒パウロがその小さいときに朝、目覚め

るとともに、目にした風景そのものであったと思われるのです。




10.チャイをいただく

11.お店1

12.お店2

 タルソスという町は、ストア哲学で有名なところでした。ストア哲学を始めた のは、紀元前四世紀にキプロスのキションからでたゼノと

いう人でした。しかし、その運動を 第二番目に始めたといわれているクリシッポスは、タルソスからあまり離れていないキリキア の海

岸の町であるソリで生まれました。またアテノドラスという人もいました。彼は後にロー マに移り、皇帝アウグストゥスの教師になりま

した。その後、タルソスに戻りまして、そこで 総督になりました。そのアテノドラスの後は、ネストールがつぎました。彼はアカデミック

な哲学者であり、九十二歳まで生きました。ですから、パウロは彼の話を聞いたことがあるかも 知れません。パウロの書いたものの

中に、ストア哲学に影響されたのではないかと思われる個所があるからです。たとえば、フィリピの信徒への手紙の四章十一節から

十二節に、こんなことを書いております。「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足するこ

とを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべ も知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余ってい

ても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」と。 このようにして、タルソスは、アテネやアレクサンド

リヤに優るとも劣らない学術の町であり ました。しかも、東洋と西洋の両方の特徴を備えた不思議な町でありました。 ここの青年たち

は、学問を修めるために、タルソスだけではなく、ほかの街にでかけ、二度と タルソスには戻りませんでした。