2. 家庭
ところで、パウロの家庭のことについてみてみたいと思います。パウロの両親 は、はじめからタルソスにいたのではありません。ユダ
ヤ人としての流浪の民、つまり ディ アスポラであった両親は、あのラテン語に聖書を訳したヒエロニムスによると、パレスチナの 北部ガ
リラヤのギスカラにいたとされています。しかし、パウロ自身は、このタルソスでイエスの誕生と同じ頃、生まれました。ヒエロニムスは、
つぎのように記しています。紀元前七三年に、ローマの軍隊がパレスチナを占領しました。多くのユダヤ人が奴隷として、海外に移住さ
せられました。このとき、パウロの両親も、奴隷として、タルソスにきました。そこで、奴隷から解放され、ユダヤ教の信仰を持ちつづけるこ
との自由と、市民権を与えられました。それが世襲されて、パウロも市民権をもったものと思われます。パウロは、使徒言行録二十二
章二十八節で、「わたしは生まれながらローマ帝国の市民です」と言っております。
このことによって、パウロはユダヤ人としては、サウロというユダヤ人には馴染み深い名前をもちました。そしてもう一方 では、ローマの
市民としては、ラテン語でも、ギリシア語でも、同じ発音のパウロという名前 をもちました。この後者の名前が聖書で使われたのは、キプ
ロスの地方総督であったセルギウス・パウルスの前で、彼の仲間たちのスポークスマンとして歩み出してから以降のことです。
3.若き日のパウロ
タルソスには、彼の生まれた家があります。しかし、当時の面影を残しており ますのは、写真1、2、3、4、5の井戸だけです。わたし
たちはその冷たい水で手を洗いまし た。ですが、飲むことはしませんでした。飲むと多分お腹をこわします。こういった地方での 旅行で
一番気をつけないといけないのは、生水を飲むことです。また、パウロがよく通ったで あろうと想像されますクレオパトラの門の遺跡があ
ります。それが、 写真6 です。これは、紀元前四一年に、エジプトの女王クレオパトラがアントニウスの招きで、タルソスにやってき まし
た。アントニウスは、この門の傍でクレオパトラのやってくるのを待ちわびていたということです。アントニウスは、クレオパトラの魅力にとり
付かれてしまいます。二人はキュドノスの川で船遊びを楽しみました。そこで、この門はクレオパトラの門と呼ばれるようになりました。け
れども、この門はご覧のように、コンクリートで補修されてあ りまして、昔の面影を偲ぶのにはややもの足りません。
それでは、タルソスの町をみてみましょう。 写真7、8、9 がそれです。穏やかな町の佇まいが感じられます。写真10はタルソスの町
を示す碑文です。タルソスには遺跡は多くはありませんが、 写真11、12 は、ローマ神殿跡とローマ浴場の跡です。 写真13、14、15
は、タルソスの街路と列柱、下水道、マンホールです。写真16 は、日本にも行ったことのあるトルコのイスラム教徒の青年ガイドさんの
説明 で、日本と同じく、トルコにも、かき氷り屋さんがあるということで、それを写真 に撮りました。かき氷り屋さんがいつの頃からタルソ
スにあったのか知りませんが、小さいとき、パウロもかき氷りを食べたのでしょうか。
パウロがどの位、タルソスに住んだのかは、はつきりしたことは分かりません 。しかし、パウロはギリシア語に堪能でありました。ま
た、ギリシア語に翻訳された七十人訳 の旧約の聖書をよく勉強しておりました。それらのことから判断いたしまして、パウロは比較的長
く少年時代を、ここで過ごしたものと思われるのです。ですから、小学校で勉強し、それ から中学校にも通ったと想像されるのです。その
教育を受けて、パウロはギリシア的な教養だ けでなく、シナ ゴーグにも行ってユダヤの伝統も身につけました。その時、後になってパウ
ロ が生活の資をえるための仕事とした天幕づくりの状況も、自然に目にしたことでしょう。とい うのは、険しい キリキアの山々に住むヤギ
の毛や皮は、耐久性を必要とする天幕に適していたからです。
写真17 は、パウロを記念してつくられ、(?)その後、モスクに変えられた教会です。 写真18、19 も、同じくパウロの名前のついた教会
とその内部です。ただし、この教会はモスクにはなっていません。