4.エルサレム遊学
パウロは、おそらくは二十歳になったころ、他の向学の志に燃えていたタルソ スの青年と同じように、タルソスの町をでました。青年
たちは、アテネとかアレキサンドリア とかに行きましたが、パウロはエルサレムに行ったのです。そのとき、写真1、2のタッシュ・キヨ
プル橋を渡りました。その橋は、太鼓橋のようになっていて、昔は、二十一本のアーチがありました。エルサレムには、彼の妹とその
息子の甥 がおりました。エルサレムではラビになるために、有名な穏健なパリサイ派のガマリエル先生 につきました。フィリピの信徒
への手紙にある「ヘブルびとの中のヘブルびと」という自覚は、そのときに 養われたものと思われます。写真3は、そのガマリエルの
家です。 ところで、ダマスコに入ります前に、ダマスコの北東約六十キロのところにあ りますシリアの入り口ともいわれますマルーラ
を訪ねることとします。 写真4 はそのマルーラの村の案内の表示です。ここは、イエスが話されたアラム語が今でも日常語として話さ
れてい るただ一つの村です。 写真5、6 のような娘に、イエスは少女よ、立てという意味のアラム語の「タリタ、クミ」と言われたので
しょう。 写真7、8はマルーラの山です。
テクラのことについては、後になりまして書こうと思いますが、当時、行政長官であった異教徒の父の迫害を逃れてこの地にまでや
ってきました。写真で見るような岩山に阻まれまして、 それ以上進むことができなくなってしまいました。ところが、彼女が祈りますと、
大騒音とともに、岩山が裂け て道が開けたということです。彼女の足元に、水が流れていました。 その裂け目の端の洞窟に行き、そ
こを住処としました。そこで、神さまに祈りを捧げ、礼拝をいたしました。彼女はそこに生えている草を食べ、天井から滴りおちる水を飲
んで生活したのです。ところが、周辺の人たちが次第に彼女のところに集まるようになり、彼女の教えをききました。彼女は病人のた
めに祈り、水をあたえ、治療したのです。
彼女のことは、広くひろまることとなりました。マルーラという言葉は、聖なる聖徒が、裂け目を通った入り口を意味します。テクラは、
その洞窟で、祈り、たゆみなく断食をし、説教をし、洗礼を授け、病人を癒し、奇跡を行いました。第一世紀の終わりに、彼女は、天に
召されました。洞窟に埋葬され、そこに彼女の墓が造られたというのです。後に述べるように、別のところにも彼女の墓のあることを伝
承は伝えています。しかし、その真偽は、問題ではないと思います。写真9 は、聖テクラの教会です。写真10,11、12、13 は、その
内部であり、写真14 は、その内部にあるテクラの壁画です。写真15は、修道院です。表には、お葬式の掲示がしてありました。