讃美歌214

(きたのはてなる)

Uパウロの回心

1.ダマスコ


 さて、パウロの回心のことに移らなければなりませんが、その前に、回心に関係し、またその後のパウロの活動の舞台になったダマス

コのことについて触れておきたいと思 います。ダマスコは、今はダマスカスと呼ばれ、四百万の人口をかかえるシリアの首都になっ てい

ます。人口でみるかぎり、大阪や横浜を上まわる大きな都市です。 図1 は、ダマスコの地図です。また 写真1 は、ダマスコを丘から展

望したものです。写真2,3, 4, 5は、ダマスコの街です。

 聖書のダマスコは、南西にヘルモン山のあるアンティ・レバノン山脈の東側傾斜面 の麓にあります。その場所は、砂漠に入る手前の

大変豊かな地域の東の端にあります。ダマスコをよく知るためには、そこから東に向かって広がっている砂漠を見なければならないとい

われています。というのは、長い砂漠の旅をして、やっと辿りつくことのできた天国のようなも のがダマスコであるとというわけです。イス

ラムを始めたその開祖のマホメッドは、ダマスコ にくることをためらったといわれています。その理由は、天国は地上の生を終えてゆくとこ

ろ なのに、ダマスコがあまりにも素晴らしいので、そこを天国のように思うようになり、そこを 天国と取り違えかねないからだというので

す。ダマスコのある平野は、二つの川により、水を 取りいれています。その一つは、聖書の旧約ではアバナといわれているナール・エル

−バラダ です。アンティ・レバノン山脈からでて、直接ダマスコを通り、西から東へと流れています。 もう一つは、聖書の旧約ではパルパ

ルといわれているナール・エル−アワズです。ヘルモン山 からでて、町の南十六キロのところを通っています。これらの二つの川は、東

に流れて砂漠に入り消えています。

1.ダマスコを展望する



2.ダマスコ市街1



3.ダマスコ市街2

4.ダマスコ市街3

5.ダマスコの町並み

 このダマスコに結びつく聖書の旧約の物語りとして、二つのものを取り上げて おく必要があります。まずその一つは、日曜学校に通っ

ていたころによく教えられたナアマン の物語です。シリア王の軍司令官であったナアマンは、癩病にかかっていました。治療のため に、

イスラエルの預言者のエリシャのところにやってきました。エリシャは、ナアマンにヨル ダン川に浸かって七回、体を洗うことを勧めまし

た。それに対して、ナアマンは反抗して、「 イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川、アバナやパルパルの方が良いではないか」

と 言いました。結局は浸かって、ナアマンの重い皮膚病は治るのですが、ここでダマスコがでて きます。

 もう一つの物語りは、アラムの王レヂンとイスラエルの王ペカとが、ユダの王 アハズに戦いをしかけたときのことです。アハズ王は、ア

ッシリアの王ティグラト・ピレセル 三世に自分を助けてくれるように依頼をしました。アッシリアの王ティグラト・ピレセルがダ マスコにやっ

てきて、レヂンを殺し、そこを征服しました。そこで、アハズ王はダマスコにき ました。そこの祭壇を見て、それに魅せられて、祭司のウリ

ヤにエルサレムにおいてそれとそ っくりの祭壇を築かせました。このことは列王紀略下十六章にでています。



6.ウマヤッド・モスク1

7.ウマヤッド・モスク2

8.ウマヤッド・モスク3

9.ウマヤッド・モスク4

10.ウマヤッド・モスク内部1

11.ウマヤッド・モスク内部2


12.バプテスマのヨハネの首塚1

13.バプテスマのヨハネの首塚2

14.バプテスマのヨハネ−スルバラン


2.大モスク

  ダマスコはやがて、繁栄する王国の首都としての地位を失ってしまいます。そ して、アッシリア、カルデヤ、ペルシアといった外国の支

配者の下に、それらの属州になります。それからアレサンドロス大王により攻略されます。彼が亡くなって後は、その後継者たち により

統治されまし。その後、紀元前六五年から六四年には、ある程度の自治が認められ、 ローマの支配下におかれました。しかし、近隣の

アラブに支配されることもありました。コリントの信徒への手紙二十一章三十二節に、パウロが壁にある窓から籠で降ろされて、ダマスコ

か ら逃げたときに、アレタス王の代官がダマスコを守っていたことを、パウロは書いてい ます。このアレタス王というのは、アレタス四世

のことでありました。

 古代のダマスコの北西の隅に、 写真6、7、8、9 にでていますウマヤッド・モスクがあります。その内部が 写真10、11 です。ご覧の

ように中に入るためには、土足のままでは入ることは出来ません。ここは、アハズ王がエルサレムで模倣したアラマエン神殿があっ たと

ころです。そして、ローマ時代になってジュピター・ダマスカス神殿が造られました。と ころが、テオドシウス一世の時に教会に変えられま

した。その中には、大ホールの真ん中辺り にバプテスマのヨハネの頭が、大理石の石棺の中に安置されているとされています。写真1

2、13がそれです。バブテスマのヨハネがどんな顔をしていたのか分かりませんが、 写真14 は、スペインの画家スルバランが描きまし

たバプテスマのヨハネです。

 その教会を神さまに捧げると きに、三つの碑文がメインの入り口の上に刻まれました。しかし、教会が現在のように、モス クに変えら

れたときに、これらの門は閉ざされてしまい壁になりました。この大モスクは、ウ マヤッド・カリフ・アル−ウワリッドにより、今日のような

大モスクに改造されたものです。