3. 回心
それでは、パウロのことに話を戻しましょう。パウロはエルサレムでガマリエ ル先生の門下生として律法を学んでいました。使徒言
行録二十六章五節には、ユダヤ教の中のファリサイ派の一員として生活していたとして、彼のことを伝えています。彼は生前のイエス
にあったことはありません。しかし、その風評は耳にしていたのではないかと思います。イ エスのことを知るにつれ、律法を乱す者とし
て、堪え切れなかったのでょう。
イスラエルにまいりますとすぐわかりますが、今でも、安息日一つにしまして もこれを厳密に守っております。わたしたちがホテルに
泊まってたときのことです。土曜日 の朝、目が覚めると同時にテレビのスイッチを押したが、映像が写りません。故障かなと思っ てい
ると、家内がそうだ今日はシャバット(安息日)だと気付いてくれました。エレベーター に乗りましても、労働はいけないということで、ボ
タンを押せません。各階どまりということ になっています。家庭ではその日は食事の用意はできません。バスはすべてストップ。文字
二文字以上書いてはいけない。子供は遊べない。積み木も駄目。死に瀕するような病気以外の場合には、治療はつぎの日まで待た
なければなりません。こんなことですから、二千年前となり ますと、おして知るべしです。
そのイエスが処刑されたことも、パウロは、はっきりとは知らなかったのでは ないかと思います。 しかし、イエスの弟子たちが、その
後復活のイエスに会い、立ち上がりまし た。やがて、パウロはステファノの説教を聞き、怒り心頭に発し、ステパノの殺害に賛成 しま
す。このステファノがどこで殉教したかにつきまして、二つの説があります。一つは、現在のダマスコ門のあたりとします。もう一つは、
ケデロンの谷であるとするものです。そこから 上にあがったところに、ステファノの門があります。 写真1 がそれです。このステファノ
の殉教によりまして、エルサレムの教会は、大迫害を受けることになりました。そこで、散らばった 人たちが、地方に福音を伝えること
になりました。フィリポがサマリヤに下って福音を伝えたの は、このときのことでした。
パウロは、イエスの弟子たちを脅迫して、殺そうとしました。このような行動 は、穏健なファリサイ派の先生でありましたガマリエル
の下で学んだこととはどうも矛盾するよ うに思います。そこで、事実かどうかわかりませんが、ある学者はこういう仮説をたてるので
す。まずパウロは、当時のラビを志す青年と同じく、結婚をしていました。奥さんも、あるい は子供もあったのではなかったか。ところ
が、思いがけない地震その他の事故により、家族が 犠牲になりました。もちろん、私的な事故と公憤とをごちゃごちゃにするようなパ
ウロではありませんが、そういったことが、彼の行動を駆り立てることになったのではないかというのです。
ルカの記すところによりますと、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂宛ての手紙をもらったとあります。イエスに従う者たちを
縛り上げて、エルサレムに連行しよ うとしました。ダマスコに行く途中のことですが、ダマスコの南西にあるコウカプ、すなわち 天の光
と呼ばれている丘の上で、主イエスに出会います。突然、天からの光がパウロの周りを 照らします。パウロは地に倒れました。そし
て、サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するので すかと呼びかける声を聞きます。パウロは、主よ、あなたはどなたですかと尋ねます。
主よと 言っていることは、人間存在をこえた尊い方であることを、パウロは感ずいていたことを示す ものと思われます。答えがありまし
て、わたしは、あなたが迫害しているイエスであるという 声を聞くのです。彼は目が見えない状況になっていて、ダマスコに連れてい
かれました。三日間、目が見えないままであり、食べることも飲むこともしないままで過ごしました。アナニヤと いう一人のイエスの弟
子がおり、パウロのいる直線通りの路地にあるユダの家に、遣わされるこ とになりました。このアナニヤが、ユダの家にやってきまし
た。そのアナニヤの「兄弟サウロ 、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元の通りに目が見えるよ うにな
り、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」という言葉により、目からうろこのようなものが落ちて、元の通
りに目が見えるようになり、アナニヤか ら洗礼を受けました。それは、紀元三十三年の頃のことです。
このように、パウロの回心は、単なる内的反省としての改心ということではあ りません。この事実は、多くのキリスト者が経験したも
のとは決定的に異なっています。たとえば、とりて読め、とりて読めという子供の言葉に促されて生じたアウグスティヌスの改心な ど
は、内的反省としての性格をもっているものと思います。パウロの回心とは違います。パウ ロは、まさしく復活のイエスにまみえたの
でありまして、半ば強いられた形での劇的な転換で ありました。そうでないと、パウロのその後の使徒としての使命の自覚がわから
なくなってし まいます。
ダマスコの南西十七キロのところにあるコウカプの丘に、 写真2、3、4、5 のように、このパウロの回心を記念して、一九六五年
に、ギリシア正教会の定礎がなされました。どうしてこ こがパウロの回心の地になったかといいますと、このコウカプの地でビザンチン
時代のランプ が発掘されまして、それには「ここがパウロの回心の地」であると記されていたことによるも のです。周囲はイスラム教
徒の人たちが住んでいるところですので、ふだんは教会の集まりは もたれておりません。わたしたちが、ここを訪ねたときには、人っ
子一人見かけませんでした 。近くには、シリアの軍事基地がありますので、写真は教会を撮ることだけがゆるされました 。
この回心を経験しましたパウロは、今までとは正反対に、イエスの福音を宣べ 伝えはじめました。そこで、ダマスコに住んでいるユ
ダヤ人たちを慌てさせることになりまし た。しかし、ガラテヤ書によりますと、ダマスコでの回心と受洗の後に、パウロはアラビアに行っ
たことが書かれてあります。ですから、パウロは回心後ただちに、アラビアに出向きました。 写真6、7 は、直線通りです。また 写真
8,9 はその東の端にある東門です。その東門を少し入った南側に、ユダの家があったとされています。もしそうだとしますと、それは今
はまだ発掘されておりません。地下の深いところに埋まってしまっているに違いありませ ん。パウロがそこに連れてこられていたとこ
ろに、アナニヤがきまして、パウロの上に手をおき、目が見えるようになったのです。そして、パウロに洗礼を授けました。
同じく、直線通りの東の端の北側に、アナニアの家があります。ここは、発掘 により、古代の遺跡が発見され、そこに異教の祭壇が
ありました。それは二世紀頃のものと推定されました。そこで、アナニヤの家としてのキリスト教にとっての神聖な場所に、わざわざ 異
教の神殿が建てられたのかも知れません。その後、五、六世紀に教会が建てられましたが、 後モスクに変えられました。 写真10は、
そのアナニアの家の前でとったものです。ガイドさんもでています。今は地下室が教会になっており、シリアにきたキリスト教徒が必ず訪れると
ころになっています。写真11は、地下の礼拝堂です。その手前に、写真12にでている控え室があり、そこには、 写真13、14, 15 に描かれ
ておりますようなパウロがコウカプの丘で光りに撃たれて倒れているとこ ろなどのユーモラスな絵がたくさんあります。これらの写真の絵は、パ
ウロの転倒と受洗と逃亡を描いております。写真16はパウロです。写真17は、中庭です。