4.アラビア行き
すでに申しましたように、パウロは回心後、アラビアに行きましたが、そのこ とを誰にも相談しませんでした。そこから再びダマスコに
戻ってきました。その間パウロは何 をしていたのでしょうか。また、パウロの行ったアラビアとは、どこなのでしょうか。一番可能性が
大きいのは、ナバテア王国のペトラではないかと思います。どうしてかといいますと、 パウロはアレタス王の支配下のナバテア王国
で、早速キリスト教の伝道活動を行ないました。 そのことのために、ナバテア王国の秩序を乱すものとして、アレタス四世の怒りに触
れました 。おまけに当時は、ユダヤとナバテアとは対立関係にありました。そんなことがあったので、 パウロはダマスコに帰ってきた
のですが、アレタス王の代官に掴まえられそうになり、ダマス コからほうほうの態で、逃げ出したのです。そのときの様子は、コリント
の信徒への手紙二 十一章三十二節から三十三節ににでています。
ユダヤとナバテヤトガ対立関係にあったということについて、もう少し立ち入 って説明いたしましょう。皇帝アウグストゥスは、ユダヤと
ナバテヤとの友好のために、ヘロ デ・アンテパスとアレタス四世との娘とを結婚させました。ところが、アンテパスは、離婚し 、異母弟
のフィリポの妻のヘロデヤと結婚します。このことをバプテスマのヨハネが問題にしまして、彼はマケラスの牢獄に繋がれ、斬首されま
す。ですから、ユダヤとナバテヤとの関係 が悪化したのは当然でありました。 写真1、2 は、ヨルダンのムカイールにあるマケラスの
要塞です。この周辺には、写真3のような山羊の群れをみかけました。かなり近くまでバスが行ってくれますが、要塞までは行けませ
ん。バスから降りて、一キロほど 山道を歩かなければなりません。オスカー・ワイルドの書きました戯曲『サロメ』の舞台がこ こです。
地下の牢獄には入ることができません。隙間から写真をとりましたが、うまく撮れま せんでした。写真4は、山頂から死海を展望したも
のです。写真4、5は、山頂で撮ったものです。写真6は、ヘロデ
の宮殿跡です。写真7は、帰り道であり、登ったからには、バスまで一キロの道のりを歩かなければなりません。やれやれ。
というわけで、つぎに、ペトラにつきましてご紹介しましょう。 写真8、9 はロバに乗ってペトラに向かうところです。岩壁に挟まれた道
の傍には、用水路があり、写真10は、ガイドさんからその説明を受けているところです。両側には写真11,12、13、14 のような数十
メートルから百メートルの岩壁があり、それを潜り抜けますと、突然 写真15,16、17 のようなバラ色の宝物殿があらわれます。遺跡
の中に入りますと、ローマ劇場、列柱街道、凱旋門、神殿、住宅、そして墳墓がありま す。 写真18は列柱街道であり、 写真19 見
事な赤い岩です。 写真20,21、22 は墳墓です。 写真23は、その洞窟の内部であり、その赤い色彩が見事です。また、歩くことが
困難であれば、写真24のような驢馬に乗ることもできます。写真25は、帰り道、写真26わたしたちの泊まったホテルです。 このペ
トラは、ナバテア王国の首都でありました。こんなところにパウロはきたのでし
ょうか。
このようにして、パウロは、回心後、ダマスコのキリスト教徒の集団に加わり 、エルサレムの教会とは別に、宣教活動にあたりまし
た。このことは、異邦人伝道の使徒とし てのパウロの使命に重大な意味をもっていたと思われるのです。ダマスコに帰りましてから、
ルカによりますと、パウロはユダヤ人にもつけ狙われることになります。東門から南西約三百メートルのところに、パウロが籠に入って
壁を伝って逃げたといわれている言い伝えの場所が あります。 写真27、28 を見てください。その話は、使徒言行録九章二十五節
にでています。ユダヤ人がパウロを殺そうとして、昼も夜も町の門で見張っておりました。そこで、弟子たち が夜の間にパウロを連れ
出して、町の壁を伝って下に降ろしました。その場所と信じられてい ます門の近くに教会が建てられましたが、その後、アラブによって
モスクに変えられてしまい ます。それから、モスクも無くなってしまいました。今は、そこに 写真29、30 はその内部を示しているもの
ですが、再びギリシア正教会によって小さな礼拝堂がたてられまして、出入り口の外壁の上に、「聖パウロの窓」と呼ばれている石で
できた突き出た部分があります。これがパウ ロが逃げた場所の石といわれています。礼拝堂の中には、写真31にみられるように、
パウロが窓からつり降ろされるところを描いた絵がかかっています。
当時の人々のよく知っていたものに、「壁の冠り」というものがありました。それは、壁を攀じ登って、真っ先に敵の街に入りこんだ勇
士に、司令官から与えられる名誉ある褒美でありました。壁に代表として飾られたということです。ところが、パウロは、この勇士とは
全く正反対に、壁を伝って逃げたのです。その自らの経験を彼は書き記しました。勇ましいことを誇るのではなくて、コリントの信徒の
手紙二 二十二章五節にありますように、「弱さ以外には誇るつもりはありません」でした。これは、使徒パウロのパロディです。写真
32はパウロです。
ここで、ダマスコのバザールを紹介しておきましょう。 写真33、34、35、36 がそれです。
このようにして、ダマスコでの働きの三年間の後に、それは紀元三八年のこと ですが、ダマスコを逃げ出し、エルサレムに上るので
す。そこでは、ペテロに会い、また主の 兄弟のヤコブにも会います。しかし、他の使徒たちとは会いませんでした。したがって、エル
サレム教会全体との交わりをしておりません。そのことは、パウロが書きましたガラテヤの信徒への手紙第一章第十八節から第十九
節にでています。ところが、ルカによりますと、バルナ バがパウロの回心と宣教とについて、使徒たちに紹介したことになっています。
それで、パウ ロはエルサレムでも、主の名によって恐れず教えるようになったとしています。ここエルサレ ムでも、身に危険が及ぶよ
うになりまして、カイザリヤに下りました。その後、生まれ故郷のタルソスに帰りました。ガラテヤ書に記されていますあらためてエル
サレムにやってきますまでの十四年の年月につきましては、パウロがどのような活動をしていたかは、聖書によるかぎりでは 分かり
ません。