V 異邦人伝道の開始
1. シリアのアンティオキア
故郷のタルソスに帰り伝道に従事していましたパウロのところに、ある日、バ ルナバが訪ねてきます。彼はパウロを連れまして、
シリアのアンティオキアに行きました。そ れから丸一年の間、そこに滞在することになりました。このシリアのアンティオキアは、初
代キリスト教のエルサレムのつぎに最も重要なセンターになったところです。パウロが訪ねたと きは、アンティオキアの教会は、迫
害にあい、その多くのリーダーがローマに連れ去られまし た。急遽、エルサレムの教会は、バルナバをアンティオキアに派遣して
建て直しを計りました。そのために、パウロはバルナバにより連れ出されたのです。
古代世界には、十六をくだらないアンティオキアという町がありました。そこ で、ここでのアンティオキアを他と紛らわしくないように
するため、アンティオキア・ザ ・オロンテスとよんでいます。わたしたちは単にシリアのアンティオキアとよぶことにします 。これら十
六のアンティオキアは、すべてセレウコス一世ニケイター一人により造られたものです。彼はセレウシッド王朝の創設者であり、ア
レクサンドロス大王の将軍の一人の息子であり ました。エルサレムの北四百八十キロのところにありますこのアンティオキアは、
豊饒な三日月型の平野の中心にあり、またユーフラテスから地中海に至ります隊商のルートにあたってい ます。アンティオキアを
囲む山々が、その場所に対する砂漠や海からの攻撃を防ぎました。平 野には、オロンテス川が流れており、河口には、パウロが
その伝道旅行で往復したセレウキア港がありました。したがって、ギリシアの商人により、ミケネ、クレタ、キプロスからの多く の財
物が船で運ばれました。 写真1、2 は、アンティオキアの町の中を流れるオロンテス川です。
図2 には、アンティオキアの町がでています。日本の京都みたいなものですが、ギ リシア・ローマ時代のダマスコと同じように、
アンティオキアは格子状のプランに基づい て造られました。その後、アンティオコス一世ソーテールが、アンティオキアを、エジプト
の アレクサンドリアに対抗する学問上の都市としようとしました。そのために、宮廷に学者、詩 人、科学者を呼び寄せました。これ
らの人たちの中には、ソリの有名な詩人アトラスがいまし た。彼は数年間宮廷に滞在しました。このようにして、セレウシッドの時
代に入ります。その 後、ローマの将軍ポンペイウスが、アンティオキアに自由都市としての資格を与え、シリアの ローマ州の首都
としました。このようにして、アンティオキアは、セレウシッドからローマの 時代に変わることになりました。シリアは、その戦略的重
要性のために、皇帝直属の州とされ、アウグストゥスは、紀元前三〇年と二〇年とに、みずからアンティオキアを訪問しています 。
アンティオキアは、このようにして栄え、ローマとアレキサンドリアにつぐ、ローマ帝国に おける第三の都市となりました。人口は、
五十万を数え、その中には、シリア人、ギリシア人 、ローマ人、それにユダヤ人が含まれていました。ユダヤ人が多かったために、
当然、ユダヤ教に関心をもつギリシア人もいました。施しや配給のために選ばれた七人の一人であったアンティオキア出身の改宗
者のニコラオは、ギリシア人であってユダヤ教に改宗し、さらにキリス ト教徒になりました。このことは、使徒言行録六章五節にで
ています。その後の歴史において、アンティオキアはいろいろな災害に見舞われました。三七年には、激しい地震がありま した。
皇帝カリグラは、再建のために援助の手をさしのべています。また皇帝クラウディウス のときにも、地震がありました。そして、シリ
ア、パレスチナ、エジプトにおける凶作により まして飢饉が生じました。そこで、アンティオキアのキリスト教徒は、ユダヤの兄弟に
手を差 し出しています。ルカはバルナバとパウロに託して品物を届けたことを記しています。その帰 り道に、バルナバとパウロは、
マルコを連れてアンティオキアに戻りました。このアンティオ キアは、首都としての重要な軍事基地であるだけでなくて、物質的に
も繁栄しました。しかし 、反面、道徳や風紀の紊乱がひどかったようです。人間の欲望を満たすことについては、事欠 きませんでし
た。このような状況がパウロの時代のアンティオキアでした。
この近くには、有名なハタイ博物館があり、多くのモザイクなどが展示されています。そのいくつかのものを紹介します。写真3、
4、5、6、7がそれです。
また、比較的近くに、ハマーという都市があります。内陸交通の要衝にあたっており、綿花、小麦と肥沃な農業地帯の中心にな
っており、その川からくみ上げる水車で有名なところです。写真8、9、10は、その水車です。