2. 異邦人伝道の拠点
アンティオキアについて、パウロとの関連を問題にしますならば、パウロがダマ スコでの回心の後、エルサレムに行き、カイザリヤを経
まして、故郷のタルソスに戻っていた のを、バルナバがタルソスにやってきて、パウロをアンティオキアに連れ出しましたことは、 すでに
申しました。このアンティオキアで、弟子たちは、はじめて、クリスチャンと呼ばれる ようになりました。その時代の人たちは、ラテン語のカ
エザリアンという言葉が「皇帝に従う 者」に対する言葉であることをよく知っていました。したがって、彼らに対するクリスチャン という新し
い名称は、すぐに間違いなく、「キリストに従う者」を意味することになりました 。この言葉は、イエスをメシアと信ずるユダヤ教の一派とし
ての秩序を乱す困った連中という イメージを与えました。使徒言行録十一章二十二節から第二十六節によりますと、パウロとバルナバ
は、一年間アンティオキアにいまして、多くの人を教えたことを記しています。こ のようにして、異邦人の改宗者が増加するにつれて、ア
ンティオキアの教会は、間もなく異邦人キリスト教の中心となりました。そのリーダーには、バルナバやパウロ以外に、シメオン、 ルキ
オ、マナエンたちがいました。シメオンの別の名前であるニゲルという名前は、黒いこと を意味しますから、彼はアフリカからやってきたの
かも知れません。多分、彼はイエスの十字 架を運んだクレネのシモンであったのでしょう。クレネのルキオというのは、パウロがエフェソ
のキリスト教徒への挨拶でつけ加えたルキオであったのでありましょう。マナエンは、ガリラ ヤの領主ヘロデ・アンテパスと共に育てられ
た乳兄弟であるといわれています。 写真1は、アンテオキアを展望したものです。
3. 聖ペトロの洞窟教会
古代アンティオキアは地震、洪水、外敵の侵略といったすさまずしい栄枯盛衰 を繰り返したのですから、昔のままの輝かしい都市の遺
跡を発見することは極めて困難です。 それだけでなく、現代の都市アンタクヤは、大規模な古代都市の四分の一しかしめていません 。
その上、土地が十一メートルも隆起しましたために、古代都市はその下に眠ったままになっ ています。とはいうものの、いくつかの遺跡
は発見されています。その一つは、 のようなアンタクヤの北東の山の麓の近くにある山の岩の絶壁に約幅九メートル、深さ十 二メート
ル、高さ七メートルの天然の洞窟の教会です。この洞窟は、古代の都市の壁の内側に あって、洞窟の中には、小さな泉が湧き出ていま
す。それを飲むと、マラリアが治ると言われ ました。その背後には、トンネルがありまして、危険がせまったときの逃げ道になったものと
思われます。わたしは、入り口まで行ったものの、暗くて引き返しました。 写真7はそのときの写真です。 床の上には、多分四世紀から
五世紀のものと思われるモザイクのいくつかの断 片が残っています。その洞窟は、アルメニア人の手に落ちたことがあり、背後の壁に
は、アルメニア語でペテロの名前の一部分があるフレスコ画が残っています。この場所は、アンティオ キア教会の人たちが、礼拝をした
ところであったといわれています。ここから、バルナバとパ ウロは、エルサレムから帰って間もなく、異邦人伝道に派遣されたのです。写
真2は、その洞窟教会の表示です。写真3,4は、洞窟教会です。写真5は、壁のペトロ像であり、写真6は、その前を颯爽と歩いている
女性です。写真7は、逃げ道になった洞穴であり、写真8は、周辺の背景です。