U 第一回伝道旅行
T キプロス上陸
1. 出発−セレウキア
聖ペテロ洞窟教会での礼拝の最中に聖霊が下り、そこに集まっていましたキリ スト教徒に、主の御業のためにアンティオキアから、異
邦人伝道のために、パウロとバルナバ を送りだすように促したことをルカは記しています。断食をして祈りました。そこで、任命の 式が行
なわれまして、二人の上に手をおいて出発させました。パウロとバルナバは、エルサレムから連れてきたヨハネ・マルコを助手として、ア
ンティオキアを後にして、セレウキアに向 けて下りました。これは、紀元四六年頃のことでありました。この第一回伝道旅行のコースは 、
図3 の第一回伝道旅行地図にでています。
セレウキアは、アンティオキアの港町であり、オロンテス川の河口の北方八キ ロのところにありました。 写真1 はセレウキアであり、
写真2、3 は、その港の跡です。ここから船出して、キプロスに航海いたしました。五世紀の外典バルナバ行伝によりますと、キプロスに
向けて出帆する船を待って、三日間過ごしたと書いてあります。伝道旅行から帰還し たときにも、「そこからアンティオキアへ向かって船
出した」と書いてあるから、このセレウ キアに上陸したものと考えられるのです。また、第二回伝道旅行に際しても、多分セレウキアまで
は、パウロとバルナバとヨハネ・マルコとは行動をともにし、別れたのはそれ以降のこと ではなかったかと思われます。
このセレウキアは、パウロの時代にはありませんでしたが、皇帝ヴェスパシア ヌスとテトスの治世下に、雨の時期になると洪水がある
ので、それを防ぐたに、硬い岩に運河 を掘りました。全長が千三百メートルにも及びます。 写真4、5、6、7 がそれです。また 写真8 は
そこにかかっている橋でして、そこを渡って墓地の方にゆけるようになってい ます。 わたしたちは、そこを歩き始めたのですが、あまりに
も険しいために途中でや めてしまいました。その先に村がありまして、往復に毎日歩いている小父さんに出会いました 。しかしながら、
この港はビザンチンの時代になり放棄されてしまいました。そのために港自 体は泥土で埋まり、現在は、水面下にその姿を隠してしまい
ました。港の埠頭は、十九世紀になりましてから、二人の使徒にちなみまして、南埠頭は聖パウロ、北埠頭は聖バルナバという 名前で
呼ばれるようになったということです。