讃美歌453(きけやあいのことばを)

U 第一回伝道旅行

T キプロス上陸

1. 出発−セレウキア

  聖ペテロ洞窟教会での礼拝の最中に聖霊が下り、そこに集まっていましたキリ スト教徒に、主の御業のためにアンティオキアから、異

邦人伝道のために、パウロとバルナバ を送りだすように促したことをルカは記しています。断食をして祈りました。そこで、任命の 式が行

なわれまして、二人の上に手をおいて出発させました。パウロとバルナバは、エルサレムから連れてきたヨハネ・マルコを助手として、ア

ンティオキアを後にして、セレウキアに向 けて下りました。これは、紀元四六年頃のことでありました。この第一回伝道旅行のコースは 、

図3 の第一回伝道旅行地図にでています。

 セレウキアは、アンティオキアの港町であり、オロンテス川の河口の北方八キ ロのところにありました。 写真1 はセレウキアであり、

写真2、3 は、その港の跡です。ここから船出して、キプロスに航海いたしました。五世紀の外典バルナバ行伝によりますと、キプロスに

向けて出帆する船を待って、三日間過ごしたと書いてあります。伝道旅行から帰還し たときにも、「そこからアンティオキアへ向かって船

出した」と書いてあるから、このセレウ キアに上陸したものと考えられるのです。また、第二回伝道旅行に際しても、多分セレウキアまで

は、パウロとバルナバとヨハネ・マルコとは行動をともにし、別れたのはそれ以降のこと ではなかったかと思われます。

1.セレウキア

2..セレウキア港の跡1

3.セレウキア港の跡2

 このセレウキアは、パウロの時代にはありませんでしたが、皇帝ヴェスパシア ヌスとテトスの治世下に、雨の時期になると洪水がある

ので、それを防ぐたに、硬い岩に運河 を掘りました。全長が千三百メートルにも及びます。 写真4、5、6、7 がそれです。また 写真8

そこにかかっている橋でして、そこを渡って墓地の方にゆけるようになってい ます。 わたしたちは、そこを歩き始めたのですが、あまりに

も険しいために途中でや めてしまいました。その先に村がありまして、往復に毎日歩いている小父さんに出会いました 。しかしながら、

この港はビザンチンの時代になり放棄されてしまいました。そのために港自 体は泥土で埋まり、現在は、水面下にその姿を隠してしまい

ました。港の埠頭は、十九世紀になりましてから、二人の使徒にちなみまして、南埠頭は聖パウロ、北埠頭は聖バルナバという 名前で

呼ばれるようになったということです。

4..セレウキアの運河跡1

5..セレウキアの運河跡2

6.セレウキアの運河跡3

7.セレウキアの運河跡4

8.セレウキアの運河跡5