2. キプロス
パウロたちの渡ったキプロスの島は、東地中海の十字路にあたり、シリア、小 アジア、エジプト、さらに西へ行く海路の合流の場所に
あります。図4は、そのキプロスの地 図です。このキプロス島は、紀元前八世紀から七世紀にかけて、アッシリアが支配しました。 その
後、ペルシアの属州となりました。それからアレクサンドロス大王の支配下に入り、いろい ろな曲折をへて、パウロの時代にはローマに
属し、紀元前二二年には、ローマの元老院直属の 属州となりました。パウロたちがきた時には、地方総督のセルギオ・パウロが治めて
いました 。パウロたちがまず上陸したサラミスは、当時、キプロスにとり重要な港でありました。何度 となく地震で破壊され、またローマ
人により再建されました。キプロスの首都が、四世紀にな って新パフォスからこのサラミスに移されました。そして、六四七年アラブによ
り破壊されたの を最後にそれ以降再建されることはありませんでした。
セレウキアからキプロスまでの船旅は、おそらく数時間しかかからなかったも のと思われます。サラミスに上陸したときには、パウロ、
バルナバ、バルナバの従兄弟のヨハ ネ・マルコは、何人かのキリスト教徒たちの歓迎をうけました。バルナバの始めの名前はヨセ フとい
い、キプロス出身でありました。ここのサラミスのユダヤ人たちは、大抵が商業を営ん でいましたが、その大多数がキリスト教にすでに改
宗していました。
使徒言行録の二十一章十六節には、これらの改宗者の一人であったムナソンの名前がでています。このサラミスの 近くに、聖バルナバ
修道院があります。四七八年に、サラミスの監督をしていたアンテミオス は、バルナバの埋葬されている場所についての幻をみたことが
伝えられています。そこで、そ の場所を探索した結果、バルナバ自らの手で書かれたマタイによる福音書のコピーと聖遺物と が発見さ
れました。その発見の物語りは、聖バルナバ修道院の教会の中にある四つの等身大の 壁画にえがかれています。図5は、このサラミス
の地図です。さて、このサラミスから、パウ ロとバルナバは、キプロスを横断して、パフォスまで歩きました。聖書には、島全体を巡ってと
書かれてありますが、そのとった道筋はわかりません。しかし、おそらくは南の海岸を通って 、キティオンやそれ以外の町々を巡ったもの
と想像されます。けれども、現在は、サラミスか らこのような道筋を直接辿ることはできません。というのは、多数派のギリシア系住民と、
少 数派のトルコ系住民が対立し、南北が分断され別々の国のようになっているからです。サラミ スは、少数派のトルコ系住民に属して
おりまして、その他のパウロの旅したところはギリシア 系住民に属しています。
写真1は、サラミスを展望したものであり、写真2は、聖バルナバ教会です。図5はサラミスの地図です。