4.総督の入信−パフォス
現在のリマソルの西、約三十二キロのところに旧パフォス があります。そこに は、美の女神のヴィーナス、すなわち、アフロディテの祭
壇がありました。大きな長方形の囲 いと建物があったということはわかるものの、残っているものはほとんどありません。パウロ とバル
ナバとがここにきたかどうかは分かりません。けれども、ユダヤ人として、アフロディテを拝む人たちを避けて通ったのではないかと思われ
ます。
その東に、アフロディテ誕生の海があります。 写真1,2 がそれです。写真3 は、そのとき一緒に旅行した仲間たちです。その海のこと
を、野上弥生子はつぎのように書いています。「波頭は白くレースの裳をひろげたよう に崩れ、そのあとからまただぶだぶと盛り上がる水
は、いいようもないほど艶やかな濃紫であ った。まことに海の泡からヴィーナスを誕生させた古代ギリシアの感性はなんと美しくも自然
であったであろう。」
新パフォスは、島の南西にある港にそって、さらに十六キロ行ったところにあり ます。この町は紀元前四世紀に建設されました。四世紀
までは、ここがキプロスの首都であり 、その後はサラミスに移りました。
キプロスの首都としての新パフォスは、ローマの地方総督の住んでいるところで ありました。パウロとバルナバとがやってきたときに
は、その地方総督のセルギオ・パウロは 、魔術師のバルイエスという預言者と関係がありました。パウロはその小さな仲間のキリスト教
徒のリーダーとして、抜きんでていました。そこで、使徒言行録では、はじめのうちは彼はユダヤ人の中の一人のユダヤ人であったの
で、ユダヤの名前であるサウロと呼ばれました。と ころが、ここでは彼はローマの市民の一人として、ローマ帝国の高官の前に立つこと
になりま した。そこで、ここからは、彼はローマの市民としての名前であるパウロと呼ばれることにな りました。
ここに出ていますパウロがバルイエスに出会ったことは、使徒言行録八章九節から二十四節にでてくるペトロがシモン・マゴスに対した
ときのコピーのようなものと してしかみないことが多いのですが、しかし、バルイエスの場合は、状況が異なっています。 といいますの
は、シモンは、改心を告白しているのに対し、バルイエスはそれとは異なってい ます。シモンとは正反対に、バルイエスは地方総督がキ
リスト教のメッセージを聞かないよう にする策略をろうするパウロに対する競争者として描かれています。パウロはバルイエスを睨 み付
け、彼を呪いました。そこで、少なくとも一時的には、バルイエスは目が見えなくなりま した。したがって、ここでは、このような偽りの預言
者の目が見えなくなったことが、地方総督の目を開いたことを言っているのです。
言い伝えによると、パウロとバルナバは、地方総督に会う前に、その町で牢獄 に入れられ、鞭うたれたということです。世界文化遺産
である柵により囲まれた一三世紀に出来ました写真4,5のクリソポリティサ教会の西の端の近くに、パウロの鞭打ちの柱として 知られ
ている柱が、写真6、7 に示されていますように、今なお立っています。パウロがコリントの信徒への手紙二の中に、四十に一つ足りない
鞭打ちをうけたときに、この柱にくくりつけられたと言い伝えられています。こ こで、四十に一つ足りないというのは、彼が受けた打たれた
回数であるという説明が主になっ ていますが、しかし、回数ではなくて、十三本の綱が三つの束に結び合わされた三十九の綱の 鞭の
型のことを言っているのだという解釈もあります。そして、言い伝えによりますと、聖ヨ ハネの日になると、年に一回、この柱にパウロの手
の痕があらわれるということです。それから、写真8、9は、十字軍のテンプル騎士団の館の跡です。
さて、パウロたちはこの新パフォスの港から、小アジアに向けて船に乗りました 。この新パフォスの発掘は、まだほとんどなされていま
せん。しかし、古代の町を跡付けること はできます。昔の防波堤は今なお存在しています。町の中には、ディオニソスの館が発見され 、
その中には、支配者プトレマイオス王家の人たちが埋葬されてあります。
わたしたちは、ここリマソルに、一泊しました。そのホテルは、ハワイ・ビーチ・ホテルでした。写真10、11がそれです。キプロスにハワ
イとは。このリマソルから、ロドスに船でまいりました。パ ウロの旅行したとおりに行くことはなかなかできません。そのときの日本のポン
コツの船、名 前をシーハーモニーといいますがそれがこれです。 写真12、13 。リマソルの港をでて、ロドスに向かいました。写真14
は、リマソルの港をでるところです。