U 中央小アジア上陸
1.中央小アジア
パウロたちはつぎには小アジアにまいりました。 小アジアは、黒海と地中海 との間にある大きな半島です。アナトリアとも言われま
す。コンヤには、世界最古の定住地が あります。アッシリア、それからハビロニア、さらにはペルシアが、小アジアを征服しました 。その
後、アレクサンドロス大王がペルシアを駆逐して、彼と彼の後継者が、ギリシアのいろい ろな都市を建設しました。さまざまな経過を辿り
ながら、パウロの時代には、ローマがその属 州としてその地域を支配しました。
2.ガラテヤの町々
第一回の伝道旅行の行われた小アジアの中でのガラテヤ州は、北はパフラゴニ アの山、南はタウルス山脈により囲まれ、西にはアジ
アのローマの支配下にある属州、東には カッパドキアがありました。ガラテヤ州の内部には、多くの地域が存在しており、それらの地 域
は一部分の地域の名前がつけられるということが行われていました。このようにして、ガラ テヤ州は、北部のガラテヤ・プロパーと、南部
のピシデヤとフリュギアとリカオニアとを含い んでいました。
パウロとバルナバが、第一回の伝道旅行で多くのキリスト教徒を獲得したピシ デヤのアンティオキア、イコニオン、リストラ、デルベの
町々は、広い意味でのガラテヤ州に あったものです。したがって、パウロがガラテヤの信徒への手紙一章二節で、「ガラテヤ地方の諸
教会」と書いたときには、彼は心に広い意味でのローマの属州としてのガラテヤのこ
とを考えていたものと思われます。
3.−アタリア
中央小アジアの南部において、第一回の伝道旅行で、パウロと結びつく町は、 パンフィリアのアタリアとペルガの二つです。アタリア
は、重要な港であり、今もなおアンタ リアとして続いていますが、使徒言行録ではそこに上陸したことを何も書いていません。第一 回伝
道旅行を終えて、シリアのアンティオキアに帰るときに、そこから船に乗ったことが書か れているだけです。ですから、あるいはこの港に
上陸していないのかも知れません。もしも、 上陸していたとすれば、港から町までのベニス時代にできた階段ではなくて、別の岩をくりぬ
いた道を通ったものと想像されます。
アタリアは、紀元前一五〇年頃に、ペルガモン王国の時代に建設されました。 そして、ペルガの港として存在していました。しかし、ペ
ルガを凌ぐようになり、今はペルガ の方は廃虚になっていますが、アタリア、すなわちアンタリアは、現在商業・観光都市として 、人口百
万の大都市になっています。しかしながら、キリスト教関係の遺跡はほとんどありま せん。 写真 1、2、3は、そのアタリアの港です。 写
真4、5は、アタリ
ア湾です。写真6 は、港にかかっています滝です。パウロはこんな情景を目にしたのでしょうか。 写真7 は、アンタリアのシンボルとして
ミナレットであり、また、 写真8 は、塔の門です。これは、現在、アンタリアに残っている唯一の塔であり、一三世紀にできたものです。写
真9は、時計塔です。写真10,11は、アンタリヤの街です。
街から離れたところにあるアタレイア・ホリデイ・ヴィリッジに、宿泊し、旅の疲れをいやしました。そのときとったのが、写真12、13、1
4、15です。写真16、17は、海浜です。ここらあたりは日本に似て、湿度が高く、パウロが病をえて、高地にむかった事情が、滞在して
みてよくわかります。