4. ペルゲ
このアタリアから北東に十八キロ行きますと、ペルゲに着きます。パウロがア タリヤに上陸したとすると、歩いてペルゲに行き、アタリア
に戻るときには、その同じ道を引 き返したものと思われます。けれども、上陸地点がアタリアでないとすると、彼らは舟で航行 のできるケ
ストロス川を上っていったのかも知れません。 図6 はそのペルゲの地図です。
ペルゲは、パウロたちにとり、後に行ったエフェソにつぐ最も印象的な都市であ ったに違いありません。 このペルゲは、トロイア戦争
後、ギリシアの移民によって建設されたも のです。最近の発掘によると、その都市を建設した人たちの多くの像が掘り出されました。そ
の中に、特にプランキウスとその家族をあげることができます。とりわけ著名なのは、その娘 のプランキア・マグナです。その墓所を写真
に撮ろうとしたのですがうまくゆきませんでした 。ここには、一万五千人の観客を収容できますローマ劇場があり、また一万二千人入るこ
との できる競技場があり、さらにローマ門、ギリシア塔、列柱街道、ローマ浴場、体育館などと、 そこでは使徒の時代の小アジアの都市
の面影を目にすることができます。 写真1、2 は、ペルゲに水を運ぶ導水管です。写真3は、発掘されたプランキア・マグナの像です。写
真4は、ギリシア塔であり、写真5,6は、遺跡です。 写真7は、記念の泉の想像図です。それは、列柱街道の最後のところにあり、アク
ロポリスの丘の麓にあります。写真8は、そのアクロポリスです。写真9は、記念の泉であり、写真10少女の姿をしたニンフが横たわって
います。写真11は、その泉からでてくる水の流れです。奥の泉から流れる渓流を真ん 中 に挟み写真12の列柱街道は素晴らしい散策
の道であったに違いありません。わたしたちを案内してくれたガイドさんは、いろいろな遺跡の中でここが一番好きだといっていました。写
真13は、公衆浴場です。この浴場は、パンフィリアにおる最大のものであり、ペルゲの人たちは、一日の仕事を終えると、ここにきて、楽
しみと、語らいのときをもったのである。入浴の方法は、午前中は、女性、午後は、男性であったということです。ここ には、使徒言行録
十四章二十五節にでているパウロが第一回伝道旅行の帰り道に宣教をした シナゴーグがあるはずですが、まだ発見されていません。
日本からやって来た日傘をさした 女性のグループに会いましたが、そこで、何をご覧になったのでしょうか。 写真14 は、トルコを旅すると
きにずっと、速く、しかも安全に車の運転をしていただいた運転手さんです。