讃美歌294(みめぐみゆたけき)

5. マルコとの別れ

  ペルゲにパウロたちがどの位の間滞在したのか分かりません。しかし、外典の バルナバ行伝によると、二ヶ月となっています。すぐ内

陸に向かったのではないかと思われま す。ここで一つの事件が起こりました。それは、ヨハネ・マルコがパウロたちと別れてエルサ レム

に帰ってしまいました。このことが、第二回伝道旅行のときに、パウロとバルナバとが別行動をとる原因になりました。どうしてマルコが帰

ってしまったの聖書は、何も記していません。 いろいろな理由が考えられます。まず一つは、リーダーシップがパウロに移っ てしまった

ということです。といいますのは、マルコの従兄弟であるバルナバは、パウロの先 輩です。したがって、この伝道旅行の最初のうちは、グ

ループのリーダーでありました。とこ ろが、パポスからローマの市民としてのパウロが主導権を握るようになりました。そこで、従兄弟の

バルナバのこのような格下げを承認できなかったということです。つぎに第二の理由 は、ペルゲから小アジアの内陸に進むということは、

最初たてた計画の変更か、あるいは拡大を意味したのかも知れません。マルコはそれに批判的であったということです。それは、大き な

危険を覚悟しなければならなかったからです。アレクサンドロス大王は、この地域で山賊と闘 いました。また皇帝アウグストゥスは、危険

に備えて多くの軍事上の駐屯地を造る必要がありました。パウロがコリントの信徒への手紙二 十一章二十六節において書いている「

の難、盗賊の難」というのは、ここでの経験に基づいたのかも知れません。マルコは、そのことを 恐れたとも考えられます。第三には、パ

ウロの個人的な理由をマルコは納得できなかったとも 思われます。パウロとしては、そのような危険を顧みずに旅を続けたのは、別の事

情を 考えることもできます。ペルゲの近くの海岸地は、不健康な気候で知られていて、マラリアが はやっていました。後になって、パウロ

がガラテヤの人たちに、「知ってのとおり、この 前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました」と

書 いています。パウロは低地でかかった病気を治すために、高い内陸に行ったのかも知れません 。しかし、その時期は後の第三回伝

道旅行のときとした方がよいかも知れません。第四には、 マルコの身辺において、エルサレムで特別なことが起こったと想像もされま

す。 

 とにかく、マルコはここペルガで、パウロとバルナバと袂をわかって、エルサ レムに帰ってしまいました。この事件は、マルコに対するパ

ウロの悪感情になりましたが、二 人は結局は仲直りをします。といいますのは、何年もたってから、パウロはコロサイの信徒への手紙

中で、「そしてバルナバのいとこマルコが、あなたがたによろしくと言っています。 このマルコについては、もしそちらに行ったら迎えるよう

にとの指示を、あなたがたは受けて いるはずです」と書いているからです。 写真 1は、スペインの画家スルバランの描きましたマルコで

す。

1.マルコ

 ここで、コプト教会につたわる聖マルコの伝承について、紹介します。そのことを学ぶために、わたしたちは、カイロからアレクサンドリア

にゆきました。写真2は、そのときのったバスです。一〇人以上は乗れるのに、乗客は、コプト教会の熱心なキリスト教徒である女性のガ

イドさんと、あわせて、わずか三人でした。三時間あまりの車中で、コプト教会のお話をきくことができ大変、勉強になりました。写真3は、

走るバスから車外をとったものであり、写真4には、鳩の巣が木の陰に写っています。エジプトでは、鳩を食べますから、それを飼う巣が

あちらこちらにあります。

2.アレクサンドリアへ1

3.アレクサンドリアへ2

4.鳩の巣

  アレクサンドリアの写真5の聖ジョージ教会にゆきました。日曜学校の生徒さんが、沢山集まっていまして、その歌う日曜学校の讃美

歌が、わたしが日曜学校時代に歌ったものと、日本語ではありませんから、歌詞はちがいますが、メロディは全く同じですから、とても懐

かしく、アレクサンドリアにいるという気がしませんでした。中に入っていっしょに「けさもわたしの小さい口よ」と一緒に歌いたくなりまし

た。聖書の新約において、エジプトがでてくるのは、イエスが生まれたたときのエジプト逃避です。その絵が、写真6です。また、写真7、

は、聖マルコの天井画と壁画であり、マルコのシンボルであるライオンも描かれています。

 さて、聖マルコのコプト教会の伝承のことに移ります。聖マルコは、エジプトのコプト教会の創設者であるとされますが、聖マルコの前

に、キリスト教は、エジプトに入ってきました。聖書の新約にによりますと、使徒言行録二章一〇節には、ペンテコステの日に、エジプトか

らやってきたユダヤ人のことを、ルカは記しています。その人たちが、福音を携えて、エジプトに帰ってきました。つぎに、エフェソにやって

きたユダヤ人のアポロです。アポロは、おそらくは、アレクサンドリアの小さいキリスト教集団のメンバーであったのでしょう。第三は、ルカ

が、自らの書いたものを献上したテオフィロは、アレクサンドリア出身であったと思われるのです。にもかかわらず、コプト教会は、聖マル

コを創設者ととします。聖マルコは、レビ族の流れくむアフリカ生まれの両親の子どもでした。家族は、キレナイカに住んでいましたが、蛮

族に襲われ、エルサレムに移住いたします。その家族は、イエス・キリストと大変親しい関係になりました。彼の母親のマリアは、エルサ

レムの教会の始めの頃、重要な役割を果たしました。その家の二階は、主が聖餐を制定したところでありました。 若いマルコは、よく主

とともに行動しました。ガリラヤのカナの婚姻の席に同席しました。二人の弟子が、過越しの食事の用意するときに水がめを運んでいた

のは、マルコでした。また、亜麻布をまとっていましたマルコは、イエスが捕らえられそうになると、逃げました。

  イエスの復活後の宣教の活動に目をむけますと、まず、聖マルコは、エルサレムとユダヤとに、ペトロに従って宣教しました。それか

ら、使徒パウロとバルナバとに従いました。その後の経過につきましては、上述の通りです。マルコは、パウロと別れますが、バルナバ

は、キプロスで天にめされ、その後、再び、パウロとともに、コロサイやローマで宣教活動をいたします。それから、アレクサンドリアにまい

ります。ここアレクサンドリアでは、マルコが到着したとき、彼のサンダルの紐がほどけました。それで、靴職人がサンダルの修理にかか

ったところ、誤って手を刺しました。その靴職人は、「おお、独りの神よ」と叫んだ。聖マルコは、それに喜び、傷を癒し、最初の改宗者に

なったと。それから、キリスト教の発展は、めざましいものがありました。それで、聖マルコに対する迫害がひどくなり、彼はローマにでか

け、使徒ペトロやパウロにあいます。ところが、彼らが殉教し、聖マルコは、アレクサンドリアに戻ってきます。紀元六八年に、セラピスの

神殿に集まった異教徒たちが、ペンテコステの礼拝に集まっていたキリスト教徒を襲いました。聖マルコは捕らえられ、紐でくくられ、大

通りをひきづりまわされ、夜になって牢獄に入れられ、そこでは、天使により励ましを受けた。突然、救い主が現れ、「平安があなたにあり

ますように」と。聖マルコは、「おヽ、主よむ叫んだ。主の姿は見えなくなった。翌日、セラピスの行列の中で、聖マルコは、殉教しました。

写真9、10,11は、その聖マルコの墓のあると伝えられている聖マルコ教会です。写真12は、その墓であり、写真13、14は、その殉

教の状況を描いたものです。

5.聖ジョージ教会

6.エジプト逃避

7.聖マルコとライオン1

8.聖マルコとライオン2

9.聖マルコ教会1

10.聖マルコ教会2

11.聖マルコ教会3

12.聖マルコの墓

13.マルコの殉教1

14.マルコの殉教2