讃美歌452(ただしくきよくあらまし)

V 内陸伝道


1. 宣教−ピシディアのアンティオキア

 このピシディアのアンティオキアも、セレウコス一世ニケイターにより造られた ものでした。ローマは、この町を紀元前一八九年に自由都

市としました。そして、紀元前二五年には、ローマのガラテヤ州の一部となりました。この遺跡は、現在ヤルパスと呼ばれている 村から

約一・六キロ離れたところにあります。わたしたちがそこを訪ねたときには、入り口の小父さんが、町の地図を用意してくれていて、それを

頼りに見学しました。 地図8 がそれです。周りの山々から、導水管により水が引かれました。町の壁の一部が、今なお残っています。

町の中には、アゴラ、メイン・ストリート、劇場、バシリカ、聖パウロ教会の跡、アウグスト ゥス神殿などがあります。 ところが、ペルゲなど

とは異なり、遺跡が体をなしていないので、それが何かさっぱりわかりません。:現在は、発掘がもっと進んでいるのではないかと思いま

すが、ただ、瓦礫を見るばかりです。しかし、写真1のような案内図があり、それに従ってゆくのが良いと思います。写真2は、ここピシディ

アのアンティオキアの全景です。写真3は、水を運ぶ導水管です。写真4は、聖パウロ教会への案内の表示です。また 写真5は、聖パ

ウロ教会にいて解説したものであり、建築自体は、第四世紀のものですが、ここで、パウロとバルナバとが、四六年に、集会をもったであ

ろうことが書かれてあります。建物の床は、モザイクで飾られてありました。写真6、7、8は、聖パウロの教会跡です。写真9は、列柱街

道です。なんだかさっぱりわかりませんが。写真10 は、市場の跡です。さらに、写真11は、ティベリウス広場です。 写真12、13、14

は、アウグストゥスの神殿の表示、入り口、神殿跡と広場です。写真15 は、そこにできたアウグストゥス神殿の想像図です。

 アウグストゥス皇帝の神殿礼拝は、ガラテヤのキリスト教徒に深刻な影響をもたらしました。ガラテヤの信徒への手紙に見られるような

パウロの強烈な律法否定の背後にあったこの皇帝礼拝の問題を無視できません。コリントなどとは違って、この地方のキリスト教徒は、

割礼を受けて、ユダヤ教徒になる以外に、皇帝礼拝を回避することができなかったのです。といいますのは、ユダヤ教徒には、皇帝礼拝

を免除するという例外規定が適用されたからです。それに対してコリントでは、地方総督カリオンの態度に見られるように、割礼の有無に

関係なく、キリスト教徒と、ユダヤ教徒を同一視したからです。したがって、コリントでは、皇帝礼拝問題の深刻さが、ガラテヤとは、異なっ

ていました。

1.アンティオキアにようこそ

2.アンティオキア全景

3.導水管

ミカエル・モイズィキェヴィッチ撮影(「聖書の世界-使徒パウロの旅」から)

4.聖パウロ教会への案内

5.聖パウロ教会の解説

6.聖パウロ教会跡1

7..聖パウロ教会跡2

8.聖パウロ教会跡3

9.列柱街道

10.市場跡

11.ティベリウス広場

12.アウグストウス神殿

13.神殿入り口



14.アウグストゥスの神殿跡と広場

15.アウグストゥス神殿想像図

Meinardus,Otto F.A."St.Paul in Ephesus and the Cities of Galatia and Cyprus,"p.24より転載

 さて、パウロたちは、どのようにしてこのピシディアのアンティオキアに行った のでしょうか。おそらくはローマの造った道路に沿ってシデ

まで行き、その後、北に走ってい る別の道路に入り、東側にあるベイシェヒル湖を通り過ぎたものと思われます。そこは、海抜 、約千メー

トルの高さであり、ペルゲからは六日間位の旅であったと思われます。どうして、ここにきたのだろうかということについては、もしかしたら

キプロスの地方総督のセルギオ・ パウロが出たところであり、その紹介があったからかも知れません。パウロたちは安息日にシ ナゴー

グに入り席につきました。律法と預言書が朗読されてから、会堂長たちが人をよこし、 励ましの言葉をのべるようにという要請がありまし

た。そこで、パウロは立ちあがり、手で人 々を制し、説教を始めました。 この使徒言行録十三章十六節から四十一節までに書かれてい

る説教は、パウロの言葉通りのものではないかも知れません。しかし、ルカがピシディアのアンティオキア のギリシア化されたユダヤ人

に対するパウロの説教として、大筋において正確なものを書き留 めていると思われるのです。パウロの説教の要点をまとめますと、イエ

スはダビデの家系から 出てくる神により約束された子孫であるということ、エルサレムのユダヤ人たちにより拒絶さ れましたが、彼はデ

ィアスポラのユダヤ人に対する救い主として示されているということ、最 後には、その十字架と復活とは、ともに聖書の中に予め告げられ

ており、罪の赦しを与えるも のであるということです。

 パウロとバルナバが、シナゴーグをでるとき、人々はつぎの安息日にも同じこ とを話してくれるようにと頼みました。そして、つぎの安息

日になりますと、町中のほとんど の人が集まってきました。そこで、ユダヤ人たちは、この群衆を見て妬み、口汚く罵りました 。このこと

から、シリアのアンティオキアが、始めてクリスチャンという言葉がでてきたところであったのですが、このピシディアのアンティオキアは、

ユダヤ人が福音を拒み、そのことに より異邦の世界に福音が提供されたというわたしたちが特別に記憶しておかなければならない 場所

となったのです。このピシディアのアンティオキアの事件は、はじめてユダヤ人社会から独 立して、キリスト教会を建てるようになり、異邦

人の教会の確立に大きな歩みを踏み出すきっ かけとなったものです。パウロとバルナバの滞在は、教会が確立されるまでの数週間に

及びましたが、迫害を受け、その町を去る前に、彼らはイエスの教えにしたがい、足の塵を払い落と してそこを去ったのです。